信頼
ヴィクターを乗せた政府専用機は、日本へ向かっていた。最新鋭の機体だった。日本側には公式訪問の予定と到着時刻だけが伝えられている。しかし、実際にどこを飛んでいるのか、正確な位置までは把握できなかった。
「まもなく、日本の管制空域に入ります」
「もう?」
「はい。先ほど着陸要請が入りました」
予定よりも早い。管制官が画面を見る。
「……どこから来たんだ?」
明確な答えは出なかった。
やがて機体が姿を現し、静かに着陸する。ヴィクターは日本へ入った。
今回の目的は、東方カンパニーとの協力だった。研究院が生み出した技術。それを大量生産するための工場。必要な資金、材料、物流、人材。連邦だけで短期間にすべてを用意するのは難しい。
だから、東方カンパニーの力を借りる。
その代わり。
秘密を守らせる。
会談の前。
東方カンパニーの上層部と、投資会社「黒崎」の四人のエキスパートが別室に集まっていた。
「ヴィクター大統領との会談は、予定通り進めます」
一人が資料を確認する。
「生産についての話も?」
「はい。ただし、研究院については必要以上に触れない」
「当然です」
そこで、別の一人が言った。
「一つ問題があります」
「何?」
「大統領が、黒崎さん本人との面会を希望しています」
四人が黙る。
東方カンパニーの上層部も、互いに顔を見る。
「黒崎さんは?」
「まだ伝えていません」
「……聞いてみるか」
四人の一人が電話を取った。
黒崎は、自宅にいた。
「はい」
「黒崎さん。今、少しよろしいですか?」
「何?」
「ヴィクター・ヘイル大統領が、日本に来ています」
「そう」
「東方カンパニーとの生産協力について、会談をする予定です」
「うん」
「その上で……」
少し間があった。
「黒崎さん本人と、直接お会いしたいという要望が出ています」
「俺と?」
「はい」
黒崎は少し考えた。
「四人が会えばいいんじゃない?」
「私たちも、そう思いました」
「じゃあ、それで」
電話の向こうで、四人が黙る。
「ただ……」
「何?」
「今回の技術は、秘密が非常に重要です」
「うん」
「東方カンパニーとの協力を進める上で、黒崎さん本人が大統領と会うこと自体を、信頼の証にしたいという話があります」
黒崎は、しばらく黙った。
「信頼の証?」
「はい」
「向こうは、俺に会えば安心するの?」
「少なくとも、東方カンパニー側はそう考えています」
黒崎は少し考えた。
「……分かった」
「会われますか?」
「ああ」
「場所は?」
黒崎は、少しだけ周囲を見る。
「家でいいだろ」
「ご自宅ですか?」
「ああ」
「大統領を、ご自宅に?」
「別に、他に場所もないし」
四人は顔を見合わせた。
「分かりました」
電話が切れた。
その後。
ヴィクター側へ連絡が入った。
「面会場所が決まりました」
「どこだ?」
「黒崎氏の自宅です」
ヴィクターが少し黙る。
「……自宅?」
「はい」
大統領府のスタッフが資料を見る。
「住所は確認しています」
「分かった」
ヴィクターは頷いた。
世界規模の資本を動かしている人物。
その男が。
自分を会社の本社ではなく。
自宅へ呼ぶ。
それが少し不思議だった。
そして。
会談の日。
ヴィクターを乗せた車列が、黒崎の自宅へ向かった。
豪邸ではなかった。
周囲から見れば。
どこにでもある普通の住宅だった。
車が止まる。
ヴィクターが降りる。
玄関を見る。
「ここですか?」
「はい」
ヴィクターは一瞬、言葉を失った。
「……普通だな」
その時。
庭から声がした。
「ヴィクターさん?」
黒崎だった。
普段着のまま。
手には園芸用の道具を持っている。
「はい」
ヴィクターが近づく。
「黒崎恒一です」
「ヴィクター・ヘイルです」
二人は握手を交わした。
正式に会うのは。
今日が初めてだった。
過去に一度。
施設ですれ違ったことがある。
だが。
あの時は互いに名前も立場も知らなかった。
だから。
今日が初めての正式な対面だった。
「……思ったより普通ですね」
黒崎が言う。
ヴィクターが笑った。
「よく言われます」
黒崎も少し笑う。
「中へどうぞ」
家の中へ入る。
豪華な応接室などはない。
普通のリビングだった。
美咲が飲み物を用意する。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
ヴィクターが席につく。
目の前にいるのは。
世界中の企業に影響を持つ男。
だが。
目の前の男は。
ただの日本人にしか見えなかった。
「今回の件ですが」
ヴィクターが話を始める。
「研究院が生み出した技術を、大量生産したい」
「うん」
「そのために、東方カンパニーの力を借りたい」
「分かった」
黒崎は淡々と答える。
「必要な生産能力は使えばいい」
「ありがとうございます」
「ただ」
黒崎が言う。
「研究院のことは、必要以上に知らなくていい」
「分かりました」
東方カンパニーの上層部も頷く。
「生産に必要な情報はこちらから渡します。それ以上は、こちらからも出しません」
「それで構いません」
そこで。
黒崎の表情が少し変わった。
「一つだけ」
部屋が静かになる。
「秘密は守ってください」
「当然です」
東方カンパニーの上層部が答える。
黒崎は、その人物を見る。
「当然かどうかは関係ない」
「守れるかどうかです」
黒崎は静かに続けた。
「研究院の場所を探さない。研究者を探さない。技術の出所を調べない。外国政府に話さない。第三国へ渡さない」
「細かい条件は、契約書に書けばいい」
黒崎はそこで止めた。
「俺が言いたいのは、その先です」
ヴィクターが黒崎を見る。
「もし、秘密を守らなかったら?」
黒崎は少し考えた。
「東方カンパニーとの関係を終わらせます」
上層部の表情が変わる。
「具体的には?」
「新規の資金を止める。新しい投資もしない。長期契約の更新もしない。必要なら、俺が持っている株式や関連企業への出資も整理する」
「土地や施設についても、売却できるものは売る」
上層部の一人が息を呑んだ。
「それをやれば、東方カンパニーにも大きな損害が出ます」
「知ってる」
「会社そのものが危なくなる可能性もあります」
「それも分かってる」
黒崎は淡々と答えた。
「でも、秘密を守れないなら仕方ない」
誰も口を挟まなかった。
「東方カンパニーがなくなっても、俺は困らない」
その言葉で。
部屋の空気が変わった。
東方カンパニーにとって、会社を守ることは当然だった。成長させることも、利益を出すことも、すべて仕事の一部だ。
しかし。
黒崎にとっては違う。
東方カンパニーは。
巨大な資産の一つに過ぎない。
守る必要がなければ。
切れる。
捨てられる。
その事実が。
上層部にとって何より怖かった。
そして。
黒崎はヴィクターを見る。
「連邦にも同じことを言います」
ヴィクターは黙って聞いていた。
「もし連邦が秘密を破ったら?」
「東方カンパニーからの新規投資を止めます」
「関連企業との新しい事業も止める」
「既存の契約は、期限が来たものから更新しない」
「必要なら、俺の資本が入っている事業からも順番に引き上げます」
ヴィクターの表情が変わる。
「連邦の経済にも影響が出ます」
「出るでしょうね」
黒崎は否定しなかった。
「だから、秘密を守ればいい」
ヴィクターは黒崎を見る。
脅しているようには見えない。
怒っているわけでもない。
ただ。
選択肢を示しているだけだった。
「俺は、あなたたちと敵になりたいわけじゃない」
「東方カンパニーとも敵になりたくない」
「だから協力する」
「でも、秘密を破るなら」
黒崎は静かに言った。
「その瞬間に終わりです」
ヴィクターは、しばらく何も言わなかった。
これは軍事力による脅しではない。
黒崎自身が持っている資本を、必要なら引き上げる。
ただ、それだけだった。
しかし。
今の連邦にとって、それは決して小さな話ではなかった。
「分かりました」
ヴィクターが答える。
「約束します」
黒崎は頷いた。
「それならいい」
会談は、そこで終わった。
秘密協定の細部は、その後に専門家同士で詰めることになった。
黒崎にとって重要だったのは、契約書ではなかった。
ヴィクター本人に会うこと。
そして、自分の言葉を直接伝えること。
それだけだった。
帰り際。
ヴィクターが黒崎に声をかけた。
「黒崎さん」
「はい」
「なぜ、私と会おうと思ったんですか?」
黒崎は少し考えた。
「会いたかったからです」
「それだけ?」
「ああ」
黒崎は答えた。
「あなたが、どんな人なのか見たかった」
ヴィクターが少し笑う。
「どうでした?」
黒崎も笑った。
「普通ですね」
「あなたもですよ」
二人は、もう一度だけ握手を交わした。
その日。
東方カンパニーと連邦の間に、正式な秘密協定が結ばれた。
だが。
世界には何も発表されなかった。
東方カンパニーは、いつも通り事業を続ける。
連邦も、いつも通り国を動かす。
そして地下深くでは。
研究者たちが、何も知らない世界に向けて。
また一つ、新しい技術を作り始めていた。




