亡命者
「亡命の連絡です」
深夜。連邦政府の外交部門に、一本の極秘連絡が入った。
「亡命? どのような人物だ?」
「技術者のようです」
「技術者?」
「はい。核物理学者です」
担当者は手元の資料を見た。
「世界で一番だそうです」
「一番?」
「はい」
「本当に?」
「並ぶ者がいない、と」
ヴィクターのもとに報告が上がったのは、その翌朝だった。
「核物理学者?」
「はい。並ぶ者がいないと言われています」
ヴィクターは資料を開いた。論文、研究成果、国際研究プロジェクト、受賞歴。どれを見ても、異常なほどの実績だった。
「この人間が亡命を希望しているのか?」
「はい」
「理由は?」
「まだ詳しくは分かっていません」
「本人と話せるか?」
「現在、秘密裏に連絡を取っています」
「なら、話を聞こう」
数日後。暗号化された通信がつながった。
画面に一人の男が映る。少し眠そうな顔をしていた。
「こんにちは」
「こんにちは」
ヴィクターが挨拶する。
「あなたが、亡命を希望している研究者ですか?」
「はい」
「名前は?」
「アラン・ウェルズです」
「核物理学者だと聞いています」
「そうです」
「世界で一番だとも」
アランは少し考えた。
「……そうなんですか?」
ヴィクターが黙った。
「知らないんですか?」
「研究の順位とか、あまり興味がなくて」
「……」
「研究できれば、それでいいので」
ヴィクターは資料を見た。世界中の研究者が知っている。大国の政府や軍も、その研究を必要としている。それほどの人物だった。
「それで、なぜ亡命を?」
アランは少し疲れたように答えた。
「研究したいんです」
「今の国では、できない?」
「できなくはないです」
「では?」
「いろいろ言われるんですよ」
「政府から?」
「政府もですし、軍もですし、企業もです」
「この研究をやってくれ」
「この方向が重要だ」
「この技術を使えるようにしてくれ」
アランは画面の向こうで肩をすくめた。
「もう、そういうのが面倒になりました」
「だから?」
「好きに研究できるところへ行きたいです」
ヴィクターはしばらく黙っていた。
「連邦なら、研究できると思うか?」
「分かりません」
「俺たちには、まだ十分な研究施設もない。設備も限られている」
「それでも?」
ヴィクターは少し考えた。
「施設がないから、何もできないわけじゃない」
アランが顔を上げる。
「資金なら集められる。研究施設を作ることもできる。研究者を呼ぶ伝手がある」
アランが少しだけ目を開いた。
「そんなに?」
「ああ」
ヴィクターは淡々と答えた。
「だから、必要なら探す」
アランはしばらく黙っていた。
「……面白い国ですね」
「そうか?」
「ええ」
アランは少し笑った。
「少なくとも、私が今までいた場所よりは、研究しやすそうです」
ヴィクターも、わずかに笑った。
「そうかもしれない」
「研究内容に、政府が口を出すことは?」
「必要な安全上の確認はする」
「だが、何を研究するかは君が決めればいい」
「軍事利用を前提にもしない?」
「しない」
アランは少しだけ安心したように頷いた。
「それなら、行きます」
数週間後。一人の男が、秘密裏に連邦へ入った。
アラン・ウェルズ。核物理学において、並ぶ者がいない男。世界中の研究者が、その名前を知っている。大国が欲しがるほどの頭脳。
だが、本人は自分を特別な人間だとは思っていなかった。
研究施設を案内されても、アランは設備を見回しながら言った。
「これ、古いですね」
「そうなのか?」
「はい」
「使える?」
「使えます」
「なら、いい」
ヴィクターは少し呆れた。
「本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫ですよ」
アランは施設の隅に置かれた機器を見る。
「これと、これを組み合わせれば使えそうです」
「分かるのか?」
「たぶん」
それだけ言って、研究室へ入っていった。
数日後。研究施設からヴィクターのもとへ報告が届いた。
「アラン博士ですが」
「どうした?」
「もう研究を始めています」
「そうか」
「それと、設備について一つ提案があるそうです」
「何を?」
「新しい実験装置を作りたいと」
「作れるのか?」
「本人は、作れると言っています」
「予算は?」
「かなり少なくて済むそうです」
ヴィクターは少し笑った。
「じゃあ、作ってもらおう」
その日。
連邦に、一人の科学者が加わった。
世界で並ぶ者がいない核物理学者。
その本人は、自分がどれほど特別なのかを理解していない。
ただ。
「研究できるなら、それでいい」
そう言って、アラン・ウェルズは研究室へ戻っていった。
そして。
この一人の亡命者が、やがて世界中から科学者を集める中心人物になることを、この時のヴィクターも、アラン自身も、まだ知らなかった。




