景色
朝の電車は混んでいた。
黒崎は、つり革につかまっていた。
周りには、同じようなスーツ姿が並んでいる。
入社して、まだそれほど経っていない。
会社では、教育担当の先輩について仕事を教わっていた。
「黒崎くん、これお願い」
「はい」
渡されたのは、会議で使う資料だった。
「これ、コピーしておいて。それと、この順番に並べて」
「分かりました」
コピー機の前に立つ。
一枚ずつ確認する。
順番を間違えないように並べる。
終わったら、先輩の机へ持っていく。
「ありがとう」
それだけだった。
別の日は、データの入力を手伝った。
別の日は、会議室の準備をした。
電話を取ることもあった。
「お電話ありがとうございます」
まだ少し緊張する。
聞き取れなかったときは、隣の先輩に助けてもらう。
そんな毎日だった。
同期も似たようなことをしていた。
昼休みになると、一緒に飯を食う。
「研修って長いな」
「早く配属されたいよな」
「俺はまだ何するか全然分からん」
黒崎も笑った。
特別なことはない。
普通の新入社員だった。
ある日の午後。
先輩について、初めて社内の別の部署へ行った。
廊下を歩く。
同じ会社なのに、雰囲気が違った。
電話をしている人。
パソコンに向かっている人。
誰かと話しながら資料を見ている人。
先輩が立ち止まった。
「ここが営業」
少し歩く。
「こっちは管理」
さらに歩く。
「こっちは開発」
黒崎は黙って見ていた。
今まで、会社というものを一つの建物としてしか見ていなかった。
けれど。
その中には、いろいろな仕事をしている人間がいる。
それぞれ違う場所で働いている。
それでも、同じ会社だった。
「黒崎くん、行くよ」
「あ、はい」
先輩について歩く。
その日の仕事が終わる。
帰りの電車に乗る。
朝と同じように、スーツ姿の人間がたくさんいる。
黒崎も、その中の一人だった。
まだ何者でもない。
仕事も、まだよく分からない。
会社のことも、ほんの少ししか知らない。
それでも。
昨日まで一つに見えていたものが、今日は少し違って見えた。
会社には、いろいろな人間がいる。
それぞれの仕事がある。
それぞれの役割がある。
黒崎は窓の外を見た。
特別なことは何も起きていない。
ただ。
少しだけ、景色が広くなっていた。




