第十話 近づく距離、ひとつの予感
主な登場人物紹介
田中彩乃
二十四歳。主人公。庶務部。優しくてお人好し。過去のトラウマから恋愛には奥手。
鈴木颯太
二十四歳。彩乃の同期で営業部所属。仕事の出来るイケメン。彩乃の隣の部屋に住んでいる。彼女の浮気が原因で別れているところを彩乃に目撃される。
佐藤優真
二十四歳。綾乃の高校からの親友。なんでも話せて、頼りにしている存在。穏やかで誰に対しても優しい。職場は別。
山本莉子
二十ニ歳。イケメン好きな彩乃の後輩社員。庶務部。小柄で美人。
あの夜以来、鈴木さんと顔を合わせるたびに、胸が変にざわついてしまっている。
あの日、手を繋いだことを、鈴木さんは特に話題にはしない。職場で話す機会があっても、まるで何もなかったかのように、至っていつも通りの態度で振る舞っている。
なのに私は、事あるごとにあの時のことを思い出しては、必要以上に意識してしまっていた。
鈴木さん、なんで手なんか握ったのかな……。
ふと、高校の時に仲の良かった女友達に言われた言葉が頭をよぎった。
ーー「彩乃ってさ、他人の感情の変化にはすごく気がつくのに、自分に向けられてる感情にはやけに鈍感だよね」
その時は友達が言ってる意味がよく分からなくて「え?そうなのかなぁ」なんて曖昧に笑って返して、その子から「まあ、あんたらしいけど……」と、少し呆れた様に笑われたっけ。
けれど今、鈴木さんの一挙一動にこんな風に胸がざわついてしまっている自分を前にして、逆に彼女に問いたくてたまらない。
他人の感情なんて、分かるわけが無くない?
そもそも、自分の気持ちですら、よく分からないまま持て余しているというのに。
はっきりと言葉にされたわけでもない相手の想いをどうやって察するというのか、私には全く分からなかった。
そんな風に私の心を掻き乱してくる鈴木さん。
職場では一切変わった態度を見せないのだけれど、あの夜以来、職場の外では、これまでと少し違う関わりをしてくる様になっていた。
家に帰ってから、お互いの都合が合う時、彼の方から、晩ご飯を一緒に食べようと声をかけられるようになったのだ。
「田中さん、今日はもうご飯食べました?良かったら、一緒に食べませんか?」
聞かれるたび、胸がきゅっとなる。緊張はするけれど、断りたいとは思わなかった。
鈴木さんと一緒に食べる晩ご飯は、不思議なくらい楽しくて。
会話はたわいもないのに、一人で食べるより、ずっと美味しく感じる。
気づけば、今日は誘ってもらえるかな、なんて考えてしまっている自分がいた。
そしてそんなことを考えてしまうたびに、まるで心が動くのを警戒するかの様に、過去の苦い失恋の記憶が蘇ってくる。
大丈夫。これは、恋じゃない。
鈴木さんは、私にとって、ただの隣人で、同期で、優しい人なだけ。
そう自分に言い聞かせないと、不安で仕方なかった。
*
そんな風に、どうしようもない感情を持て余しながら過ごしていた、ある日のこと。
以前から鈴木さんのことをかっこいいと言っていた庶務部の後輩の山本さんが、内部監査で一緒になったことをきっかけに、以前にも増して彼に惚れ込み、最近ではあからさまなアプローチを始めていた。
「鈴木さん、このあと予定あります?ご飯とかご一緒しませんかぁ?」
庶務部に書類提出に来た鈴木さんに、グイグイ声をかけていく山本さん。
わざとらしいくらい明るく甘い声。距離も、近い。
その様子を見て、山本さんのアグレッシブさに凄いなぁと思うと同時に、胸の奥がちくりと痛んだ。
……あれ?
気づいてしまって、動揺した。
鈴木さんは、誰にでも優しい。
山本さんみたいな可愛い後輩に好かれるのも、当然のことで。
それなのに、笑顔で対応する鈴木さんを見るのが嫌だと思っている自分がいる。
その感情を自覚してしまった瞬間、心臓が早鐘を打った。
私はいつの間にか、鈴木さんとの距離を、ただの「隣人」や「同期」以上のものとして感じてしまっていた。
咄嗟に、怖いと思った。
居心地が良くて。
優しくされて。
特別扱いされているような気がして。
好きになってしまいそうで。
また前と同じことを繰り返したら。
裏切られて、傷ついて、
元カレの時みたいに、立ち直れなくなったら。
そう思うと、心にブレーキがかかる。
これは恋じゃないと、自分自身に言い聞かせる。
だって、恋をするのは、まだ怖い。
だからこれ以上、近づかないように彼から、一歩引こう。
……そう思ったはずだった。
けれどその日の夜。
「今日、俺の部屋でご飯どうですか?」
鈴木さんに誘われて、結局、私は頷いてしまった。
だってもう、止めようとしても、
どうしたって、彼から誘われる事が、嬉しくて仕方なかったから。
*
「座っててください。もうすぐできますから」
「はい、ありがとうございます」
キッチンに立つ背中を、ぼんやりと眺める。
フライパンの音、漂ってくる匂い。
一緒にご飯を食べる。
それだけなのに、どうしてこんなにも意識してしまうんだろう。
食卓に並んだ料理は、どれも家庭的で、優しい味がした。
「凄く美味しいです」
「あはは、良かった。田中さんにそう言ってもらえると、ほんと自信が持てます」
そう言って、少し照れたように笑う。
胸の奥が、きゅっとした。
仕事のこと、ここのところ彼とあった、いろいろなやりとり。
笑い合うたび、心の距離が少しずつ縮んでいくのが分かる。
でも、その分だけ、同時に怖くもなる。
私は、無意識に箸を置いた。
「あの……」
「はい?」
視線が、ぶつかる。
逃げ出したい気持ちと、聞いてほしい気持ちが、せめぎ合う。
「鈴木さん、……どうしてそんなに優しくしてくれるんですか?」
一瞬、空気が止まった気がした。
鈴木さんは少し考えるように視線を落としてから、困ったように眉を下げる。
「んー……」
そして、私を見て言った。
「俺、田中さんのこと、好きだと思ってるからって言ったら……どうしますか?」
「……え」
息が止まるかと思った。
冗談だとは思えなかった。
けれど、受け止める準備もできていなかった。
鈴木さんが、片眉を下げて自重気味に笑う。
「ごめん。こんな言い方、ずるいよね」
少し間を置いて、今度ははっきりと言った。
「ちゃんと言わせて。田中さんのことが好きです。……俺と、付き合ってくれませんか」
まっすぐな目で見つめられて、逃げ場なんてどこにもなかった。
胸の奥に溜まっていた気持ちが、ゆっくりと形になっていくのを感じた。
「……ありがとうございます」
声が震えないように、必死で息を整える。
「そう言ってもらえて、凄く嬉しいです」
それは、嘘じゃない。
けれど。
私は一拍置いて、言葉を探した。
「……だけど、前にもお伝えした通り、私は恋をすることが、まだ怖くて……」
視線を落とす。
「鈴木さんのこと、良い人だなって思います。好きだって言ってもらえて、嬉しいです。……でも、正直に言うと、自分の気持ちがまだ分からないんです」
拒絶と受け取られるかもしれないと思うと、胸が締め付けられた。
「答えられなくて……ごめんなさい」
そう言って彼を見る。
すると鈴木さんは、ふわりと笑った。
「正直な気持ち、教えてくれてありがとうございます」
鈴木さんの、優しく穏やかな声が耳に届く。
「じゃあ、……好きなままでいて、田中さんの気持ちがはっきりするまで、待っててもいいですか?」
「……え」
私は思わず、目を見開いた。
「でも、それじゃ……鈴木さんに悪いです」
私がそう言うと、鈴木さんはやんわりと首を横に振った。
「ううん、悪くなんてないよ。俺が、待ちたいだけだから」
静かだけど、迷いのない声で続ける。
「だから、田中さんが負担じゃなかったら、そうさせてくれませんか」
「……っ」
胸が、じんわりと熱くなるのを感じた。
「……はい」
そう小さく頷くと、鈴木さんは心から嬉しそうに笑った。
「良かった。だけど、今後もアプローチはさせてくださいね。……好きになってもらえる様に、頑張るから」
そう言ってちょっと照れながら笑う鈴木さんに、胸がぎゅっと締め付けられた。
*
食事を終え、片付けを手伝おうと立ち上がった、その時だった。
「ねえ、田中さん。早速だけど、よければ今度、都合が合う休みの日に、二人で出かけませんか?」
不意にそう聞かれて、胸が跳ねる。
考えるより先に、行きたい、と思ってしまった。
「行きたいです」
突き動かされるように頷くと、鈴木さんは「やった」と、子どもみたいに嬉しそうに笑った。
その笑顔に、また心臓が大きく跳ねた。
その瞬間、ひとつの予感が胸に浮かんだ。
私はまだ、はっきりとした答えを出せていない。
けれど、この気持ちに名前をつける日は、きっと遠くないと、そう思った。
本作を見つけてくださり、お読みいただき、ありがとうございました!
本作は毎週水曜と土曜日に一話ずつ投稿していきます。
次の投稿は、2月7日(土)7:00です。
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陽ノ下 咲




