第61話 鎮魂
誰もがディオゼを見つめる中、当人は言葉を探すように下を向いた。
やがて一つ息を吸い込み、前を向いて静かに語りだした。
「俺の妻、ルシアナは帝国との戦で亡くなった」
わずかな動揺の声が立会人席から聞こえた。
フェルクもまた、その名に覚えがある。
最初の会戦において、南部から帝国へ宣戦布告した文中にルシアナの名が記されていた。
『翠風のルーシェ』を、ルシアナの遺志を継いで南部に新たなる風を吹かせる者として表明していた。
つまり、ルシアナを喪失した無念は、ディオゼにとって帝国との因縁の原点でもある。
もしもルシアナが今もディオゼの傍にいたのであれば、帝国への反攻に奮い立つことはなかったのかもしれない。
南部の席を見やれば、ユキウスは腕組みをしてディオゼを見つめ、ルーシェは俯いていた。
「槍の使い手だった。正直なところ、俺より強かった。
生前には意地を張って認めようとしなかったが、本当のことだ」
ディオゼは少しだけ笑った。会場のどこかから小さな息が漏れ、それがすぐに消えた。
「いつも笑っていた。前向きな女だった。
俺が落ち込んでいると、横に来て肩を叩いて励ますような女だった。
俺が酔って帰るたびに、呆れた顔をして出迎えた。
俺みたいな男と一緒になるには勿体ない女だといつも思っていた。
その顔が、あの笑い声が、何年経っても頭から離れない」
思い出を語りながら僅かに笑みを浮かべたが、ふっと表情が失われた。
「そんな妻が、戦で死んだ」
死という言葉を前に、会場に沈黙が降りた。誰も語るべき言葉を持たなかった。
「戦だから仕方がない。俺は何度も自分にそう言い聞かせた。
帝国にも守る民がある。南部にも守る民がある。
だから互いに剣を取った。互いに傷つけあった。
そこで命を落とす者だっている。それが妻の番だった。
頭では分かっている。理解しては……いるんだ」
ディオゼは発言者台の上で、握りこぶしを震わせていた。
「たとえ頭で理解できたとしても、心はいつまでも納得しないんだ。
不意に妻の夢を見たり、ふと隣が静かすぎると沈んだり。
時が経っても、心の中の隙間が埋まらないんだ」
ディオゼは伏せた目を上げ、もう一度正面を見た。
「俺は領主だ。だから、皆には前を向けと言い続けた。
失ったものを嘆いていても仕方がない。
復興しよう。畑を耕そう。街を立て直そう。そう言い続けてきた。
俺の言葉を信じて、前に進んでくれた者たちがいる。それは本当に良かったと思っている。
俺の言葉が誰かの背中を押せたなら、それは正しかったんだろう」
歯がゆそうに、ディオゼは表情を歪めた。
「だが、俺自身は、今でも妻を失ったあの日のままだ。
自分が言い続けてきた言葉は、俺の心の奥底には響かない。
まだ俺の中では、あの日の怒りも、悲しみも渦巻いたままだ。
不意に溢れ出しそうになって、その度に抑え込んでは苦しくなる」
ディオゼの苦い面持ちを見て、フェルクは思わず胸元のメダリオンに手を添えた。
「査察でバルドーの里を見た。帝都の門下生たちも見た。
皆が前へ進んでいた。今の暮らしに根を張っていた。
俺は、それを見て嬉しかった。本当に良かったと思った」
声が揺れた。押さえてきたものが、滲んでいるようだった。
「だからこそ、悔しかった」
ディオゼは少しの間、黙った。
発言者台の前に立ったまま、遠くを見ているようだった。
「もう元には戻らないって分かったんだ。
里も。
門下生も。
そして、妻だって」
重い沈黙の降りた会場の中で、ディオゼは続けた。
「俺は要望書に、鉄の関税を撤廃せよ、補償金を払えと書いた。
領主として、それが正しい要求だと分かっていたから記した。
だが、俺自身はそんなもので納得できるほど立派な人間じゃない」
ディオゼはフェルクに視線を向けた。
「フェルク」
名を呼ばれ、フェルクはディオゼに顔を向けた。
「お前が戦を終わらせようとしてきたことは分かった。
この査察で、俺とお前は同じものを見てきた。
帝国が争うだけではなく、里や門下生の生活を作ろうとしたことも知った。
だから講和には賛成する。二十年でも三十年でも、長ければ長いほどいい。
戦は終わらせるべきだ」
言葉を区切り、ディオゼは顔を落とした。
「それでも妻は帰ってこない」
重く横たわる現実を、ディオゼは口にした。
「俺は、この無念を抱えたまま生きていく。
それは今日ここで打ち明けたところで変わらない。それでも言いたかった」
ディオゼは天幕の中を一度見渡してから、セラファスに向き直った。
「この裁定が、戦だけでなく、この無念にも意味を与えるものであってほしい」
深く頭を下げた。
「以上だ」
ディオゼが席に戻る中、静まり返った会場に足音だけが響いた。
拍手も起こらず、天幕の中の誰もが、ディオゼの言葉を黙って受け止めていた。
セラファスは会場を見渡し、そして帝国へと視線を止めた。
「帝国から、この発言に対して意見はありますか」
フェルクは何かを言わねばならないと思って、手を挙げた。
セラファスに「どうぞ」と言われ、その場に起立した。
しかし、言うべきことは思い浮かばなかった。
「意見はない……。
俺はその悲しみに応える言葉を持ち合わせていない」
それでも何かを返さなければいけないと思った。
慰めでもない、綺麗ごとでもない。自分にできる何かを返したいと思った。
「だが、悲しみの連鎖を終わらせるために、俺はここに来た。
それだけは伝えたい」
ディオゼの方に目を向けた。視線が重なった。
フェルクとディオゼは軽く頷き合い、前を向いて一礼をした。
着席をしながら、自分に言えることはきっとこれしかなかったと思った。
過去に捧げられる言葉はない。ただ未来に誓うしかないのだ。
セラファスは正面を見据え、会場に語り掛けた。
「そのほかに、誰か発言したい者はいますか」
フェルクは目の動きだけで左右を探った。
そして、ヴァスケルが手を挙げているのを見た。
セラファスに促され、ヴァスケルがゆっくりと立ち上がる。
全く予想外の行動だった。一体、何を言うつもりなのか。
「ディオゼ殿」
ヴァスケルは、ディオゼにゆっくりと語り掛けた。
思えば、ヴァスケルが南部の者に対して敬称を用いたのを聞いたことがなかった。
「その無念、悼み入る。
娘のルーシェ殿を、家族を大事にされよ」
それだけを言って、ヴァスケルは礼をして座った。
フェルクは驚きに目を見張っていた。
ヴァスケルが南部の哀しみに寄り添った。
その生涯を帝国の戦士として戦い続けた男の哀悼。
ヴァスケルが時代の移り変わりを認めたような、そんな気がした。
ディオゼもまた驚きに表情を固めていた。
しかし、その言葉を噛みしめ、ルーシェを見てから俯いた。
セラファスは静かな会場を見渡し、軽く頷いた。
「双方の要望、そしてお気持ち、確かに承りました」
一拍を置いて、書類に目を落とした。
「では、聖都としての裁定を述べます。
裁定官として見解を伝えましょう」
セラファスの、聖都の裁定が執り行われる。
天幕の空気が、再び張り詰めた。




