第58話 裁定前夜
皇子らと要望書に係る最後の話し合いを終え、ヴァスケルは暗い自室に帰り着いた。
官服を脱いで壁に掛け、身軽なローブに袖を通した。
椅子に腰を下ろし、静かに息を吐いた。
明かりも灯さずに思い返すのは、査察の旅の顛末であった。
寒村。もはや兵役に出せる若者もいない、寂しい村であった。あの村に対して、戦いに奮起せよと言えるはずもない。それほど地方は疲弊しているのだ。
帝都の元門下生。そこにあるのは故郷を追われた怒りでも、帝国に対する恩義でもなかった。今置かれている生活を全うする清々しい若者たちであった。
そして、バルドーの里。帝国と南方が手を取り合った結果、そこに豊かな生活が実現していた。
――豊かな生活。それこそが帝国が求めるべき利である。
なぜかつての仇敵であるバルドーに頭を下げる気になったのか。
簡単な話なのだ。その地を富ませる長に敬意を払うのは当然のことである。
バルドーは今や憎き敵将ではない。帝国の豊かさに貢献する一領主なのだ。
ヴァスケルが頭を下げたのは、バルドー個人に対してではなく、その里の豊かさに対する敬服であったのだ。
皇帝閣下から皇子たちが長期の講和を見据えていると聞いたときは、身体が熱くなるように怒りが沸き上がったものであった。
確かに先の会戦では万全を尽くしたが、圧勝にはならなかった。
ならば機会を伺い、次こそは南方を圧倒しようと思考を巡らせていた。
一年で騎馬が強化できたのだ。さらに武を磨くこともできると思っていた。
それが講和――。なんと惰弱な発想かと、腸が煮えくり返そうになる思いであった。
しかし、査察の旅で見せられたのは、戦を続けられない現状と、戦以外で富むための兆しであった。
元門下生もバルドーの里も、いずれも皇子らが政によって切り拓いた未来である。
既に結実した成果であり、さらに育ち得る可能性でもある。
争いではなく、政を通じた不断の調整によって、彼らは豊かさを手に入れようとしている。
――それを守るために講和が必要だというのであれば、それで良いではないか。
争いとは豊かさを得るための手段だ。ならば争わずに豊かさが得られるのなら、無為に争う必要もない。
皇子らの選び取る道は、決して怠惰でも臆病でもない。
むしろ剣を振るうよりも、よほど神経を擦り減らす知の試練である。
「皇子らの目指す新しい時代。認めようではないか。ただの老兵として、若き者たちに託すとしよう」
ヴァスケルは閉じていた瞳を開き、夜空を見上げた。
澄んだ空に、曇りのない丸い月が浮かんでいて、ただ綺麗だと思った――。
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南部の主要領主による、要望書に係る臨時協議が終わった。
ディオゼは一人、年季を経た酒場へと足を踏み入れた。
顔馴染みのマスターが会釈し、戸棚の奥の隠し扉を指し示した。
呼びつけていた男は、既に来ているようだった。
いつも面倒そうにしている癖に、肝心なときは律儀に駆けつける。本当に頼りになる奴である。
「おう、ディオゼ。しけたツラをしてやがるな。
吞まずにはいられねえって顔だぜ」
からかうように凶悪なツラを歪ませ、キーグは軽口をぶつけてきた。
そんないつも通りの姿に、ディオゼは安心感さえ覚えるのだった。
「ああ、今日は呑まずにはいられん。とことん付き合ってもらうぞ。
俺が領主を束ねる重責を降ろして、本音を言えるのはお前くらいだからな」
「うへぇ、こりゃあ大分参っているようだな。まぁ呑んで話せよ」
そうして、開戦前に酒を交わしたあの日のように、二人きりの夜会が始まった。
「……そうなると、バルドーの里も、その門下生も、すっかり帝国と仲良くやってて、南部には戻らないだろうってわけか」
ディオゼの話を一通り聞いて、キーグはしんみりと総括した。
「そうだな。今更、南部に帰ってきてくれと言っても、当人たちも困るだろうって話だ。
かといって、元は南部のものだったのに、タダで渡すわけにもいかない。
一定の補償金と交易権を引き換えにして、講和案を出すのが妥当だろうってまとめてきたところさ」
すらすらと模範解答を並べる割には、ディオゼは浮かない顔のままであった。
「納得がいかねえ、って顔に書いてあるぜ」
「そりゃあな。別に俺は金や鉄が欲しいわけでもない。
よりも賑やかな奴らがいてくれた方がよっぽどいい。
帝国が仕掛けて来なければ、バルドーの里は南部に属したままだったんだ。
そうしたら、有望な門下生たちだって、南部で活躍していたはずだ。
中にはルーシェと競うように頭角を現す奴だって、いたかもしれねえ。
そう思うとな。南部ばっかり損した気分になっちまうんだよ」
「回りまわって海都アクレヴィアとの縁も出来ただろう。
とはいえ、それはそれ、これはこれ。代わりがあるから良いってものでもないか」
「そうさ。葡萄酒があるからって、ナッツの代わりにはならねえ。
今はナッツが恋しい気持ちが勝るってことだな。
それに何だか、帝国の良いように事が運んでいるのも気に食わねえ。
取っちまった分、これで勘弁しろって差し出されても素直に納得はできねえさ」
「……でも、あんたは優秀なまとめ役だから、要望書には模範解答を書いちまうわけだ。
里と門下生の代わりに、お金と鉄で納得しますって」
ディオゼは酒を煽って呑み干し、軽く息を吐いた。
「それが一番まとまりがいいのは、頭の中で分かってんだ。
だが、心の中では納まりがつかねえ。
そんなことを言っても、どうしようもねえんだけどな」
キーグはディオゼをちらりと見ながら、軽く目を瞑った。
「あんたはやり方は器用なくせに、心根は不器用なまんまだよな。
いっそ俺みたいに心までずる賢ければ、もっと楽に生きられただろうによ」
「そうは割り切れないから、俺は表の世界で良い領主の面子を保ってるんだよ」
「へっ、良い子ちゃんも大変なこって」
互いに酒を喉に流し込み、同時に息を吐いた。
「それであんたは、最後まで良い子ちゃんのままニコニコと裁定をやり過ごすつもりか?」
キーグの挑発的な物言い。しかし、ディオゼは反論ができなかった。
ディオゼは南部の領主のまとめ役として、合意の場を覆すようなことはできない。
つまり、キーグの言う聞き分けの良い奴を演じることになると分かっているのだ。
黙り込むディオゼを見て、キーグはやれやれといった仕草をした。
「そんな風に燻ったままじゃ、気持ち良く講和も迎えられねえんじゃねえのか。
周りのみんなが納得しても、あんたがしけたツラをしてたら、ルーシェちゃんだって心配すっぞ」
「そうだろうな……」
キーグは勢いよく酒をかきこみ、ディオゼに荒く息を吐いた。
「いい機会だと思うぜ。今回はあんたも間違えてもいいんじゃねえか?」
「……何の話だよ?」
「いつもの領主会議なら、南部の大雑把な連中どもしかいねえ。
あんたが間違えたら、誰もまとめてくれやしねえ。だから、あんたは正しくあるしかねえ。
だがよ、今回は帝国も、そして聖都様だっている。
あんたが間違えてもよ、裁定官殿ならきっとうまくまとめてくれるさ。
あんたが思いの丈をぶつけたって、いいんじゃあねえのかな」
「……………」
「ルシアナ」
キーグがその名を口にした瞬間、ディオゼは目を見張った。
「ほれ、亡き妻の名前を呟いただけで、この反応だ。
つまり、あんたは頭の中で整理はついていても、心が追いついてねえのさ。
心は今でも、妻を亡くしたあのときの若い日のままなんだよ」
「俺はみっともねえな」とディオゼは自嘲した。
「いいや、立派さ。ただ、みっともない本音を隠すのが上手すぎるだけさ。
神父様の前での懺悔みたいによ、その無念も全部ひっくるめて、裁定の場にぶつけちまえよ。
その未練も含めて全部裁いてこそ、本当の裁定って奴になるんじゃねえかな」
「……お前に諭されるなんてな」
「そのために俺を呼んだんだろ。お前が言えないなら、俺が乱入して言ってやってもいいぜ」
「やめろよ、本当にぶち壊しになる。俺から言うさ。言ってぶつけてくるさ」
「おうよ、その意気だ。
講和の後には、美味い酒が飲めることを期待してるぜ」
「……ああ、そんときはまた頼むぜ」
グラスとグラスを合わせ、ディオゼとキーグは笑みを交わした。
ディオゼはかけがえのない悪友に感謝を抱きながら、裁定前夜に飲み明かすのだった。




