第50話 剣を置く勇気
皇帝との謁見は、玉座の間ではなく奥の執務室兼応接室に設けられた。
重厚な机と板張りの壁、窓から射し込む夏の光だけの、こじんまりとした部屋だ。しかし、上座に腰を据えた皇帝の存在感は、玉座がなくとも確固たるものだった。
三皇子の顔をゆっくりと見渡してから、皇帝は静かに口を開いた。
「三人揃って来るとは珍しい。主題を述べよ」
アルヴィが口を開いた。
「父上、本日は三人で帝国と南方の講和をご提案に参りました。
ご了承が得られれば、聖都に講和の仲裁を願い入れたく存じます」
皇帝は眉一つ動かさず、一拍の間を置いた。
「講和が帝国にもたらすものを説明せよ」
皇帝は誰ともなく問いかけた。
アルヴィがすかさずに申し出る。
「では、内政の観点から、私より申し上げます。
この度の戦いにより、帝国の兵員動員は著しい負担となっております。
農村からの徴兵が続いた結果、今年の収穫は例年の七割を下回る見通しです。
また戦費による国庫の減耗も、無視できない水準となっております。
今講和を結べば、来年からは農地と人手を本来の在り様へ戻すことができます。
帝国の国力を回復させるためにも、講和が欠かせないものと判断しております」
アルヴィは数字と見通しを淀みなく並べた。皇帝は「左様か」と僅かに顎を引いた。
さらに、リュセトが続けた。
「外交的な観点からも、講和には利があります。
帝国と南方が消耗し合う姿は、周辺国にとって願ってもない好機に映ります。
現に、東の諸国では帝国の動向を注視する動きが見られます。
ここで講和を結び、帝国が安定した姿を示すことは、強固な牽制にもなりましょう。
また、南方との通商を正式に結ぶことで、食料調達の安定化も図れます。
鉄と穀物の流通が滞れば、帝国の民の暮らしも脅かされましょう」
皇帝は低く「ふむ」と声を漏らした。
そして、フェルクに視線を投げやった。
「帝国は勝ち切れぬか」
その問いには、静かな怒りも込められている。
フェルクは唾を呑み、口を開いた。
「多大な犠牲を払えば勝てましょう。
しかし、その後が続きませぬ。
南方を支配し、反発を鎮めるほどの余力がございません」
皇帝は目を細めた。試すような眼光を放つ。
「では聞くが。今しばらくの講和を結んで、また力を蓄えて攻め入るのか。
さすれば、確かな勝利と、盤石な征服が実現するか」
フェルクは腹に力を込め、核心を口にする。
「いいえ。この講和は再戦のための雌伏ではございませぬ。
我らが望む講和の期間は二十年間。
我らは戦いの休止でなく、終わりを望みます」
皇帝は息を呑んだ。喉が重く蠢いた。
巌のような男に、僅かに動揺が見て取れた。
「何がお前たちを争いの終わりに駆り立てるか」
皇帝は重く問いかけた。
フェルクは胸の内に覚悟を置いた。
「戦いの果てに破滅を見ました。破滅とはつまり、復讐の連鎖です。
俺が南方の里を占領した結果、争いを知らぬ娘が旗として掲げられました。
力で抑え込む限り、平和に暮らしていた誰かが立ち上がり、戦火に身を投じる悲劇は途絶えません。
悪夢から醒めるには、長い歳月を要します。
二十年もすれば、争いを知らぬ世代が生まれましょう。
さすれば悪循環は断ち切られます。我らがその道を築きます」
皇帝はフェルクの言葉を吟味するように口を閉ざした。
深いアイスブルーの瞳が、じっとフェルクを見定めていた。
「軍の先陣に立つお前が、臆病風に吹かれたわけではあるまいな」
フェルクは僅かに怒りを滲ませて答えた。
「恐れながら、父上。俺にとっては剣を振るう方が簡単な道です。
剣を置くことの方が、よほど勇気を要する一大事です。
しかし、それが必要と見定めました。
我らの生きる道を拓くために、今が矛を収めるときです」
フェルクの言葉を聞き、皇帝は目を閉じた。
「……余も若き頃は、戦を終わらせたいと願ったことがあった」
三皇子は誰も口を挟まず、静かに聞き入っている。
「講和を結んだこともある。
されど、その度に誰かが剣を抜いた。
南方が立ち上がることもあった。
帝国を抑えきれぬこともあった」
皇帝は自嘲するように小さく笑う。
「いつの間にか余は、『戦は繰り返すものだ』と流れに身を委ねた」
「だからこそ、俺たちの代で終わらせます」
言い切ったフェルクに、皇帝は軽く息を吐いた。
どうやら感嘆の息のようであった。
「なるほど。誰よりも剣に愛されたお前が剣を置くか。
確かに楽な道ではないだろう。
そして――」
皇帝は視線を上方へ向け、過去に思いを馳せているようだった。
「戦いのなき時代。余には選べなかった道でもあるな。
余も若き頃は南方との戦に明け暮れたものよ。
無茶をしすぎだとヴァスケルに諫められたときもあったな。
そうか。お前たちは戦わないという険しき道を選ぶのだな……」
一拍の時を置いて、皇帝は三皇子へと向き直った。
「良かろう。帝国として、聖都への仲裁要請を許可しよう」
アルヴィが深く頭を下げた。リュセトも続く。フェルクも無言で礼を執った。
「ただし、条件がある」
三皇子は頭を上げ、皇帝の意向を窺った。
「聖都は仲裁の吟味のために各地を巡ることだろう。
その査察の警護役として、ヴァスケルを同行させよ。
あの者は余の右腕であった。誰よりも激しく、そして長く戦ってきた者だ。
ヴァスケルにお前たちの道の価値を認めさせよ。
さすれば、余も安心して新しい時代を迎えられることだろう」
フェルクが臣下の礼を執った。
今、ヴァスケルを暗部の側近として預かる身として、フェルクこそが最も価値を示すべき立ち位置にある。
「御意に。必ずやヴァスケルを頷かせてみせましょう」
皇帝は満足そうに静かに頷いた。
「ヴァスケルには余から役目を伝えるとしよう。
知っておろうが、ヴァスケルは余よりずっと頑固だ。
骨が折れるであろうが、必要な痛みと心得るが良い」
アルヴィが深く頭を下げて、会話をまとめた。
「承知いたしました。我らで父上が預けた目を首肯させます」
「では、行くがいい。誰もが腑に落ちる形で講和をまとめてみせよ。
余に気炎を吐いたのだ。夢物語でないと証を立てるがよい」
三皇子は揃って頭を下げ、謁見の間を辞した。
廊下に出ると、リュセトが小さく息を吐いた。
「意外と順当に承諾はもらえたけど、お目付け役をつけられちゃったね。
ヴァスケルかぁ。私も裏からの情報はよく流してもらってるけど、手強いなぁ。
フェルクの方が軍として付き合いは深いよね。勝算はどうだい?」
フェルクはヴァスケルとの過去のやり取りを思い返していた。
あれはバルドーの里への侵攻作戦の変更を相談したときのことだった。
あのときヴァスケルは殺気さえ伴わせて、過去を述懐したのだった。
『バルドーには何度も有利な盤面を覆された。
そのことを思い出すとな。腸が煮えくり返そうになるのじゃよ。
あの者のせいで、閣下の若かりし頃の南進は叶わなかったのじゃ』
冷酷なまでに冷静なヴァスケルの声は、確かにあのとき熱を帯びていた。
あれは自分をからかうための演技だったのか。
それとも心よりの叫びだったのか。
今思い返しても、その胸の内を推し量ることはできない。
しかし、ヴァスケルが手強いことは確かである。
味方であれば本当に心強いが、対峙するとは想像だに恐ろしい。
「間違いなく難敵だ。だが、負けぬ」
最後に立ちはだかるものは敵ではなく、歴史の生き証人ヴァスケル。
しかし帝国の歴史そのものを乗り越えて、未来へと辿り着いてみせよう。




