第38話 運命に託す
フェルクの腕に、ダグラスの重みがのしかかる。
訓練場でも戦場でも周りより頭一つ大きいダグラス。
いつも朗らかに笑い、陰鬱な戦場さえ和ませる大男。
その存在の重みが、今はただ、命の重さとして腕にかかっていた。
ここは戦場の只中。こうしてはいられない。
だが、自分がこの戦場から背を向けるわけにはいかない。
一刻も早い救護を。だが、どうやって――。
「ダグラスさん!」
そこに飛び込んできたのは、赤髪の少年――グレンだった。
今この場で最も身軽に馬を駆る、騎兵見習いの連絡員。
まさに運命がこの場に遣わしたようだった。
「グレン」
自分が名を呼べば、グレンは身を震わせた。
今のグレンからすれば、フェルクは遥か上の立場の総大将。
名前を呼ばれたことも、覚えられていることも恐れ多いことなのだろう。
だが、そんな驚きなどに気を取られている時間はない。
「この通りだ。ダグラスが負傷した。
今は出血を凍らせているが致命傷だ。
後方陣地まで運べ。それができるのはお前だけだ」
「俺が、運ぶ……」
唐突な重責に戸惑うのも無理はない。
しかし、救援を待つ猶予もない。
武装した騎馬兵では大男を抱える余力がない。体格の良い軍馬は揺れも大きい。
方面連絡のための軽装騎馬であるグレンにしか、この役割を果たせないのだ。
返答を待たずに、自分はダグラスを抱え上げて、グレンに歩み寄った。
そして、グレンの馬の鞍前へ、ダグラスをうつぶせ気味に慎重に預ける。
馬の首筋に上半身を沿わせ、予備の手綱と剣帯で胸元と腰を鞍に固定した。
さらに冷気を走らせ、傷口をもう一度凍らせる。革紐の結び目にも薄く氷を噛ませ、揺れで緩まぬよう補強した。
「長くは持たん。敵は俺が抑える。振り返らずに走れ。
後方のグスタフの収容陣地まで、早く、確実に送り届けろ」
「はい……、必ず――」
グレンはいつの間に覚悟を決めたようだった。
抱き添えるようにダグラスの身体を片腕で支持する。
馬の腹を足で挟み、静かに歩み出し、収容陣地へとゆっくり走り出す。
周囲の敵兵に睨みを効かせながら、二人が戻っていく様子を見届けていた。
まさか本来の宿敵に最も大事な側近を預けるとは――。
どこまで運命が狂えば、こんな因果に辿り着くというのか。
だが、ダグラスの命を繋ぐために他の手段はなかった。
これでダグラスを救えるなら、運命などいくらでも狂ってしまえば良い。
今だけはグレンの最強の悪運に託すしかない。
自分は颯爽と馬に飛び乗った。
愛馬は難なく自分の重みを受け止める。
そして、グレンとダグラスの道行きを守るように、立ちはだかった。
自分たちの様子を伺いながら、敵兵は随分と集まってきていた。
異様な光景に攻撃を躊躇していたようだが、じりじりと間合いを詰めてきている。
「ここより先は通さぬ。踏み越えれば殺す」
冷気を立ち昇らせて、殺気を放つ。
思考は不思議と冴えていた。
今なら飛び込んできた瞬間に仕留められよう。
何人来ようが、この手で悉く滅ぼそう。
数名の南方兵がわなわなと震えながら、今か今かと突入のため構えている――。
「飛び込むな!!」
敵兵の後方からよく通る声が響き渡り制止した。
兵の人波が分かれ、視線の向けられた先。
騎馬で歩み出て来たのは、壮年の偉丈夫ディオゼだった。
「随分と剣呑だな、冷血皇子。
手負いの狼みたいな面をしているぜ」
「減らず口を……」
大将首同士が戦場で顔を合わせる。
奇妙な光景であった。
本来ならば絶好の機会であるが、今は踏み込まない。
自分がすべきは戦果を刈り取ることではない。
ダグラスとグレンのため、この場を食い止めることだ。
「来ないのか?」と自分は念のために問い質す。
「俺だって南部の民の命は惜しい。
死地に兵はやらないさ。
この場は仕切り直すとしよう」
「賢明な判断だ。では、再び戦場で見えるとしよう」
「ああ、次こそは獲らせてもらうぜ」
自分は剣を振るい、蒼白い冷気が走らせた。
両軍の間に低い氷の壁を生む。
一時の追撃を鈍らせるには十分だろう。
騎馬の本隊に戻り、カインゼと現況を確認する。
「砂塵は抜けたが、槍衾の層も厚かった。
戦果も被害も、いずれも相当だ」
カインゼは息を吐きながら、戦況を見渡す。
既に突撃の勢いは納まり、乱戦の様相を呈している。
一時の引き上げ時には違いあるまい。
「ダグラスが負傷してグレンに運ばせた。
他の兵の損耗も大きい。ここは引き上げ、前線指揮所で立て直す」
カインゼと頷き合い、引き上げの合図をさせる。
砂塵を抜ける手応えはあった。だが、故に深入りして反撃を受ける騎兵も多かった。
成果は犠牲を伴った。総括するまで分からないが、痛み分けといったところだろう。
騎馬隊は旋回しつつ前線指揮所へと向かった。
陣に戻って健在の者を確認しながら、再度の投入を考えねばなるまい。
そして、ダグラスは無事に後方に着いたのか――。
一兵の安否を案じるなど大将のすべきことではないと分かっている。
それでも今はダグラスの無事を願わずにはいられなかった。
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グレンはダグラスを託され、馬を慎重に走らせていた。
戦地を迂回して、前線指揮所をさらに後ろへ抜け、グスタフの預かる収容陣地を目指す。
目の前の馬の背に横たえられたダグラスに視線を向ける。
大きく、広い背中だった。今はただ自分の片腕に寄りかかっている。
ダグラスは馬の動きに合わせて揺れるばかりで、沈黙が心細い。
思えば、帝国と自分を繋いでいたのはずっとダグラスさんだったと思う。
最初に里の近くで捕らえられたときに、拳闘をやろうって言ってくれたこと。
里が落ちた後に、飯を口にしようとしない自分を案じてくれたこと。
帝都に行ってからの軍の用務でも、顔を合わせるたびに声を掛けてくれたこと。
自分が馬に乗れるように、いろんな人たちに掛け合ってくれたこと。
帝国の人だとか、そんなことは関係なかった。
ただ、この大きくて優しい人を助けたい一心だった。
自分が馬に乗れるようになったのは、きっとこのためだったのだ。
誰かを救う力があるなら振るいたい。
あの優しさに応えられるのなら、それ以上の喜びはない。
「うっ、んん――」
ダグラスがうめき、目覚めようとしている。
「動かないでください。今、陣地に向かっています」
制止の声を掛けた。もしも落ちてしまったなら、この命は助からない。
「グレン……?」
「はい、グレンです。フェルク殿下から、ダグラスさんを運ぶように命じられました」
「殿下が――、そうか、この氷は……」
「はい。殿下が血を止めてくれました。だから、きっと間に合います」
今度は自分からダグラスを励まし返すように、優しく声をかけた。
「助けられたんですね……、ありがとう……」
「はい、必ず助けます」
ダグラスはお礼を言ったきり、口を閉ざした。
賢い人だ。自分が置かれている状態が悪いと分かっているのだろう。
「……馬乗り、上手になりましたね」
ふと呟かれた言葉に、グレンの胸が詰まりそうになった。
「ダグラスさんのお陰です……」
何とかそう返して、グレンは馬を駆ることに集中した。
前方に、帝国後方の収容陣地が見えた。
負傷兵を運ぶ者たち。治癒師の白い天幕。積み荷を仕分ける補給担当。
その中心に、白髪の老将がいた。
「グスタフ様!」
グレンは叫んだ。
声がひび割れる。
「ダグラスさんが!」
グスタフが振り向いた。
その顔から、一瞬だけ色が消える。
しかし気を取り直し、老将はすぐに声を張った。
「寝台を空けろ! 治癒師を三名、こちらへ回せ! 布と湯を持て、急げ!」
兵たちが動き出す。
グレンは馬を止めようとして、うまく止めきれず、よろめいた。
ようやく辿り着き安心して、力が抜けてしまった。
数人の兵が駆け寄り、ダグラスの身体を支える。
「慎重に! 腹を揺らさないで!」
グレンは必死に叫んだ。
自分でも驚くほど大きな声だった。
「殿下が氷で止めています! 動かしたらいけません――!」
「分かっておる」
グスタフが短く応じた。
その声は静かだったが、老将の目は鋭い。
「よくぞ届けた、グレン」
その言葉を聞いて、何とか果たせたという感慨が湧く。
ダグラスが治癒師たちに運ばれていく。
氷に覆われた腹部を見た治癒師が息を呑み、すぐに処置のための指示を飛ばし始めた。
グレンは馬上でそれを見ていた。
まだ助かったとは限らない。
それでも自分のできる精一杯は尽くしたと思う。
腕は疲労で震えている。喉は焼けるように乾いている。
水をもらって飲んで、馬を休ませよう。
そして、もう一度戦場に行くとしよう。
自分にもできることがあると分かった。
怖くないわけではない。手はまだ震えている。ダグラスが助かったのかも分からない。
それでも、自分にもできることがあると分かった。
また誰かを救えたなら。大事な情報を橋渡しできたのなら。
それが、自分のここにいる意味になるのだと思う。
グレンは精悍な目つきで、戦場を見つめた。
そして馬を優しく撫でて、ひとときの休息を取るのだった。




