第32話 色を背負う
アクレヴィア海都連盟での晩餐会を控えた夕刻――。
私は侍女の手を借りて、正装のドレスに身を包んでいた。
グランヴェル家の家紋と同じ深緑を基調としつつ、ところどころに淡い翠があしらわれている。
私が『翠風』の名を負うことを決めた後に、こんなこともあろうかと仕立てられた新品のドレスだ。
「よくお似合いですよ、ルーシェ様」
「なんだか私じゃないみたいです」
あまりにも立派で品のあるドレスは、私をそっくりそのまま別人に塗り替えるかのようだった。
「そんなことはありません。ルーシェ様をさらに引き立てておいでですよ」
「ありがとうございます」と言って、私は形だけ微笑んだ。
本当に形ばかりのやり取りだなと思う。侍女の立場として私の容姿を否定できない。私は良識ある主人として意地悪を言えない。何も本当のことを言わないまま、お互いに微笑み合う。
きっとこんなのは今夜の晩餐会の序の口だ。身内同士の些細なやり取りでふさぎ込んでいては、今晩はきっとやり過ごしきれない。努めて平静な笑顔を振る舞おうと思った。
ノックの音に返事をすると、部屋に入ってきたのは父だった。
「よく似合ってるぞ、ルーシェ」
「ありがとうございます、父上」
満面の笑みを浮かべながら父が褒めるので、私は照れくさくなった。父はいつも心からの感情を露わにしていると思う。こんな風に堂々と振る舞えるから、父はみんなから好かれるのだろう。
「どうした、固いな? 緊張しているのか?」
「そりゃあもう。こんな大きな晩餐会で、南部の協力者のご縁もかかっているのですから。父上のように堂々と振る舞えるのは、ずっと先になりそうです」
「そうか? 俺が今のルーシェと同じ歳くらいの頃に比べれば、立派なもんだがな」
「そうなのですか?」
「おうともよ。うっかり言い返して失敗したりしてな。その度に親父とかに怒られて、ようやく覚えたもんだよ」
「父上にもそんな頃があったんですね」と返して、微笑み合った。
父にはいつも助けられている。父のためなら、私のできる限りを尽くしたいと思う。
刻限が近づき、私たちは迎えの馬車に乗り、晩餐会の会場である迎賓館へと向かった。
そこは白地に青で装飾されたお城のような建物で、その威容に圧倒されてしまう。
開けっ放しになりそうな口を頑張って引き締め、澄まし顔を作って会場へと歩みを進める。
迎賓館の大広間は、私のこれまで見てきたどの屋敷よりも立派だった。
白い石柱が高い天井を支え、壁には海と船と星を描いた大きな絵が飾られている。
卓上には硝子の杯が並び、魔法灯の青い光が水面のように揺れていた。
窓の向こうには暮れなずむ空と港が見え、遠くで船の灯がまたたいている。
綺麗だ、と呆けた顔で見惚れていたかった。
――その前に、私を射止めるたくさんの視線に気づかされる。
私たちは迎えられて、見られている。
南部の使節団の出席者は十名ほど。その数倍、三十名ほどのアクレヴィアの人たちが私たちを待ち受けていた。
「南部諸領盟約より、ディオゼ卿、ルーシェ様、ユキウス殿がお越しです」
案内役の声が広間に響いた。
会場の空気がすっと静かになる。
父上は堂々と一歩前に出て、深く礼をした。
私もそれに続いて礼をする。穏やかに拍手が沸き起こった。外交の本番が始まったのだ。
広間の中央の奥から、一人の年配の男性が歩み寄ってきた。
髪には白いものが混じっていて、背筋はまっすぐで、目元には穏やかな笑みがある。けれどその笑みの奥は深い海のように見通せない。
この人が、議長家の当主なのだろう。
「遠路、よくぞお越しくださいました。アクレヴィア海都連盟は、南部諸領盟約の皆様を心より歓迎いたします。
さあ、どうぞ席のほうへ」
穏やかで低く、それでいて良く通る声だった。
招きに従って、席の前に立つと、杯に澄んだ飲み物が注がれた。
父上やユキウスおじさんに合わせて、杯を手に持つ。
「南部諸領盟約と、我らアクレヴィア海都連盟との変わらぬ友誼のあらんことを願って! 乾杯!」
広間の誰もが杯を掲げ、そして祝宴は始まった。
父上が応じる。
ユキウスおじさんが言葉を補う。
私はその横で微笑み、礼をし、問いかけられれば短く答えた。
「先の戦いでは、見事な風を示されたとか」
「いえ、私一人の力ではありません。父上やユキウス様、兵の皆がいてくれたからこそです」
「ご謙遜を。南部の兵は、貴女の『翠風』の御名を希望として語っていると聞きます」
翠風。御名。希望。
強い言葉が胸を打つ。
本当の私はそんな大層なものではないのだけれど。
そうだと信じてくれる皆を裏切ることもできなかった。
「……そう言ってくださる方々に、恥じないようにしたいと思っています」
やっとそう答えると、相手は満足そうに頷いた。
私は密かに息を吐く。
晩餐は美しかった。
川魚に香草を添えた料理。薄く焼いたパン。海藻の入った澄んだスープ。見たことのない果実を使った甘い菓子。
けれど、味は半分ほどしか分からなかった。
見渡せば、様々な人がいた。
アクレヴィアの議員たち。商会の代表らしき人々。海軍の将。魔法士団の長。
それぞれの衣服は華やかで、けれど決して無秩序ではない。
胸元や肩帯に家や商会や所属を示す紋があり、立場を物語っているようだった。
誰もが自分の家と色を背負って、この夜会に出席しているのだろう。
私が翠風の名を身に纏っているように。
「明日にはぜひ我が風魔法師団の訓練場にお越しください。
皆が南部の翠風を拝見したいと楽しみにしております」
「はい、私も楽しみにしております。アクレヴィアの風魔法を勉強させてください」
誰かが話しかけてくるたびに、私は言葉を選んだ。
笑いすぎないように。黙りすぎないように。父上の豪快さに頼りすぎないように。ユキウスおじさんの助けを待ちすぎないように。
そのうち、私はふと、一人の令嬢に気付いた。
広間の向こう側。
議長家の当主の少し斜め後ろに、私と同じくらいの年頃の令嬢が座っていた。
白に近い淡い水色の髪。
海の光を閉じ込めたような青緑の瞳。
衣装は白と青を基調にしていて、胸元や袖には真珠のような飾りが並んでいる。まるで人の形をした波の飛沫のようだった。
綺麗な人。
最初にそう思った。
けれど次に思ったのは、少し違うことだった。
あの人も、見られている。
彼女は微笑んでいた。
話しかけられれば、穏やかに頷く。杯を掲げる角度も、言葉を差し挟む間も、何もかもが自然だった。
私と違って、すごく自然に課せられた色を身に纏っていると、そう思った。
目が合った。
彼女は一瞬だけ驚いたように瞳を揺らし、それから柔らかく微笑んだ。
作法どおりの正しい笑みだった。
けれど、その奥に別の色が垣間見えた気もした。
――同じ仲間を見つけた時のような、期待が宿っていた気がした。
晩餐が進み、やがて人々の席が少しずつ崩れていった。
広間のあちこちで小さな会話の輪ができる。
父上は海軍の将らしき人物と何やら豪快に笑い合っていた。
ユキウスおじさんは商会の代表たちに囲まれている。
二人とも、自分の役目を立派に果たしているようだった。
私は一人、杯を持ったまま壁際へ下がった。
少しだけ疲れていた。
ずっと背筋を伸ばしていたせいで、心の奥が伸びきっていた。
「少し、外の風に当たりませんか」
声をかけられて振り向くと、先ほどの令嬢が立っていた。
近くで見ると、彼女の髪は本当に淡い水色だった。月の光を受けたら、きっと白く見えるのだろう。
「え……」
「申し遅れました。メリカ・ベルフォレンと申します。連盟議長家の娘です」
彼女は優雅に礼をした。
私も慌てて礼を返す。
「ルーシェ・グランヴェルです」
「存じております。翠風のルーシェ」
その言葉に、私はまた肩に力を入れる。
けれどメリカ様は、すぐに少し困ったように笑った。
「……と、お呼びすると、少し息苦しそうなお顔をなさるのですね」
「え」
思わず顔を上げる。
彼女は口元に指を添え、小さく首を傾げた。
「失礼でしたら、お許しください。でも、少しだけ分かる気がしたものですから」
「分かる、のですか?」
「ええ。私もよく、『議長家の姫君』と呼ばれます。
けれど、父は王ではありません。ですから私は姫ではないのです。
ただ、そう呼んだ方が周りの方々には分かりやすいのでしょうね」
その言葉が胸にすっと入ってきた。
姫君。
翠風。
どちらも本当の名前ではない。
けれど、周りの人たちはその名で私たちを見る。
「少しだけ外に出ませんか。ここは良い広間ですが、息をするにも肩の力が抜けませんから」
私は思わず笑ってしまった。
メリカ様も、今度は先ほどより少しだけ柔らかく笑った。
私たちは広間の横手にある扉から、バルコニーへ出た。
吹き抜ける夜風が私たちを優しく撫でてくれているような、そんな気がした。




