第22話 風の行く手に
風は確かに、南部の背を押していた。
もはやそれはただの自然の風なのかもしれない。
でもみんなは、その風を信じて前へ進んでいる。
青い旗が揺れて、緑の旗が追う。
帝国軍が一歩下がるたびに、南部の声はさらに大きくなっていく。
私はその声を聞きながら、ほんの少しだけ息を吐いた。
このまま。このまま勝ってほしい。
そう願った、その時だった。
――風の中に、冷たい気配が混ざった気がした。
日は暮れ始めている。
夕方が近付いたせいかと思った。
でも、どうしてか急に、不安で胸騒ぎが止まらない。
周りを見れば、ある一点を注目しているようだった。
そこを目を向ければ、帝国の一騎が猛烈な速度で、こちらに近付いてきている。
その青い騎兵は、白い風を帯びているようだった。
「まさか……」
ユキウスおじさんが硬く、乾いた声で呟く。
その表情も強張っている。
次の瞬間、白が視界の端を塗りつぶした。
あれは吹雪――。この季節にはまだ早い、冬の到来。
放たれた氷雪が、南部の兵を呑み込み、そして吹き飛ばす。
「フェルクだ!」 「冷血皇子が来たぞ!!」
誰かが叫んだ。その声が伝わって、繰り返される。
柔らかかった風は、いつのまにか冷えていた。
呆気に取られている間に、吹雪が次々と進路の南部兵をなぎ倒していく。
あれはまさしく駆け抜ける猛吹雪――。
「あれがフェルク……、帝国の戦鬼……!」
作戦会議でも何度も出てきた、帝国最強の将軍。
この会戦で遠ざけないといけなかった存在。
そして、ロウガさんが西で食い止めていたはずの脅威。
それが、どうして、今ここに――。
まさかロウガさんを破って、逆方向のここまで駆けつけたというの――。
いつしか南部の掛け声は納まりつつあった。
静けさの中で、たった一騎が南部の一角を食い破っていく。
その姿が近付くに連れ、はっきりと見えつつあった。
外套は破られ、返り血に濡れ、そして駆けながら周りに鋭い目線を配っている。
――その目線がこちらを見て、凝視していた。
今、目が合った。そんな気がした。
恐ろしさに背筋が震える。
こちらに向かって来るわけでもない。その前に進んでいる。
ただ、こちらを鋭く睨んでいるようだった。
あの人が帝国を率いる軍団長。
私はあの人とずっと戦っていくことになる。
とても怖い、怖いけれど。
目を降ろしたら、立ち向かえなくなるような気がして。
私はただ前だけを見ていた。
あの恐ろしい冬をこの風で払えるだろうか。
震える手で杖を握りしめる。
長い戦乱が今、本当に始まったような、そんな予感があった――。
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あれが翠風のルーシェ。
俺が改変した世界で新しく現れた破滅の運命。
その見た目は知っている。ゲーム画面の端で走っていた可憐な少女のまま。
だが、今は薄緑の旗の下で、南方の希望を背負っている。
見慣れない装飾のローブに身を包みながら、強くこちらを見据えている。
俺はあの少女を倒さねばならないのか。
帝国を守るために。
俺の破滅を回避するために。
だが今更、誰が立ちふさがろうが憐憫などしていられぬ。
遠くから駆けてきて見えていた。
緑の旗の方が上を向き、青の旗が下を向こうとしていることが。
翠風を呼ぶ声ばかりが聞こえ、帝国が呼ぶべき者が今いないことが――。
だが、俺は来た。
勝つには遅いかもしれないが、俺は来た。
残る魔力を大幅に使い、南方軍に氷雪を放って宣言する。
今、ここに冬が来た。全てを圧倒する帝国の吹雪はここに在り。
今まさに、この冷気を以って、我が到来を告げよう――。
「皇子!」 「殿下!!」 「蒼氷のフェルク!!!」
帝国の旗が、青が、上を向いていく。
持ち上がる様を見送りながら、敵陣を突き破り、本陣へと馬を急がせる。
本陣に馬を寄せれば、グスタフとダグラスが駆け寄ってくる。
「殿下、よくお戻りで!」
グスタフの表情は苦々しい。だが、労っている暇などない。
「状況は?」
「帝国の劣勢は否めません。
前線はまだ保っておりますが、帝国軍は押され始めています。
予備騎馬隊は既に投入し、南方軍の一角を崩しましたが、決定打には至りませなんだ。
騎馬の再投入は困難。補給も乱れ、兵も疲弊しております」
「敵の余力はどうだ?」
「敵の損耗も相当と見えます。ですが、その士気は高く、崩れる様子はありません」
「そうか――」
敵陣を見据えた。グスタフの見解は的確に思われた。
自分が駆け抜けながら見てきた所感とも一致する。
「ダグラス――」
ダグラスにいつもの朗らかな様子はなく、砂と返り血に汚れて憔悴を見せていた。
「殿下、申し訳ありません!
お預かりした予備騎馬隊、私の不徳により、敵陣を貫けず――」
深く頭を下げるダグラスに、かける言葉がなかった。
良いとは言えない。慰めもかえって負担となる。
今はただ――。
「大儀であった」
せめて、そう声をかけるほかなかった。
帝国軍全体が盛り返す手段はないと見て取れる。
自分が吹雪を放った威嚇が効いて、今だけは南方の気勢は弱まっている。
だが、南方が盛り返すのは時間の問題だろう。
帝国を追撃するのに、今以上の機会はないのだ。
南方軍が我に返れば、この機を見過ごすはずもない。
「撤退だ」
静かに、だが決然と言い放った。
「今の機を逃せば、また南方軍は息を吹き返す。
俺が殿を務める。撤退の指示を出せ」
「御意に――」
グスタフも頭を下げ、ここを引き返す方針が定まった。
相手が向かってこようが、消耗した自分でも退却の時間くらいは稼げよう。
もっとも、ロウガのような命知らずの猛者が何人もいるとは思えないが――。
追手はなかった。
帝国軍は秩序を保ったまま、指示に従って本国に引き上げていく。
南方軍は深入りすることなく、元の南へと引き返していった。
互いに、土地を得たわけではない。
勝利と呼べるほどの戦果を得たわけでもない。
得たとすれば、この争いがずっと続いていくという確信だけか。
どちらの勝ちでもなく、どちらの負けでもなかった。
――しかし、このままでは終えられない。
両軍の見解は、その一点だけは綺麗に一致しているのだろう。
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「追撃の指示は出せませんでした。
兵たちの消耗が激しかった。
そして、フェルクが立ちふさがっていた。
あそこで食いついても、兵たちは使い物にならないでしょう」
軍師ユキウスが、ディオゼに総括した。
「仕方ないだろう。
あんな猛突進を見せられたら、誰も突っ込む気にはならないさ。
冬が来たんだ。時間切れってやつだ。
俺たちが帝国を押せたってだけでも、収穫には十分だろう」
ディオゼも止むを得ないと納得していた。
「蒼氷のフェルク……」
ルーシェの胸に去来するのは、自分と似たフェルクの響きだった。
帝国において、その呼び名でフェルクが讃えられているというのは聞いたことがあった。
ただし、南部では誰も『蒼氷のフェルク』とは呼ばない。
『冷血皇子』、『戦鬼』と呼び、ただ恐怖の存在として身を震わせるだけだ。
しかし、ルーシェは見てしまった。
フェルクが猛吹雪となって駆け抜けた後に、熱狂して喝采する帝国の兵たちの姿を。
南部の皆が翠風に託しているように、帝国の民もまた蒼氷を頼りにしているのだった。
考えれば当たり前のことなのに。今までそうだと気付けなかった。
あの皇子も帝国を背負っている。自分と同じように一心に引き受けている。
だから、譲れない。倒れることができない。それはお互いにそうで――。
終わりのない争いが続く確信は、さらに深まっていくばかりだった――。




