第六章
佑也のリハビリは順調だった。順調どころか、リンネに言わせると、驚異的な回復らしい。リハビリの第一段階の目的は、腫れや痛みの軽減で、佑也は、既に卒業し、第二段階の足首の安定性を取り戻すリハビリに取り組んでいる。
第二段階のリハビリでは、筋力と安定性を取り戻すための運動を行う。具体的には、タオルギャザーやチューブを使った足首トレーニング、片足立ちやバランスボードによるバランス強化、ジャンプと着地の練習などがある。
佑也は、リンネの説明を聞いて思った。
第二段階ではもはや、リハビリというよりかは、サッカーの基礎トレーニングと同じだ。但し、リンネからは、ちょっとでも痛みを感じたら、私に言って下さい、と言われている。ここが、根性で押し通す部活の練習とは大きな違いだ。
リンネが佑也に、声をかける。
「次は、バランスボードを使いましょう」
「はい」
バランスボードは、不安定な板の上でバランスを取るトレーニングで、足首周りの筋肉を鍛えるのが目的だ。
佑也には、このトレーニングも、サッカーに活きるだろう、と考えている。もちろん、足首周りの筋肉を鍛えるのが目的なのだろうが、体幹を鍛えるのにも役立つだろう。
佑也が、カラフルなバランスボードを用意していると、不意に、声がかかった。
「佑也お兄ちゃん、次はバランスボードだね」
声の主を見ると、岡崎武だった。
「おう」
と、佑也も応える。
岡崎武は、十歳で、今は、車椅子を利用している。
半年前に交通事故に合い、脊髄を損傷した。幸い、未だ若いこともあり、リハビリによっては、歩けるようになる、とのことだった。リハビリの主なメニューは、歩行器での歩行訓練や平行棒内での歩行練習だ。
高校生の佑也にも容易に想像がつく。
武の場合は、慣れない筋肉、今まで使ったことのない筋肉を使ったリハビリだ。そして、何より、また、歩けるようになるという確証もない。身体的にも精神的にも、佑也の何倍もきついだろう。そのリハビリを、僅か十才の少年がしている。
だから、佑也は、自分が出来る最高の笑顔を見せるようにしてる。実際、それが、武に対しては自然と出来る。
「出来る、出来る。武なら、楽勝、楽勝!」
「うん!」
武は、力強く頷くと、再び、平行棒に向かった。
佑也は、武のその姿を見届けると、再び、自分のリハビリに集中しようと、バランスボードに向き合った。
リンネを見やると、リンネが力強く頷く。
佑也が、バランスボードを使い出して、五分ほどしただろうか。
不意に、ドサッという音がした。
平行棒の、武の方向からだ。
佑也は、急く気持ちを抑えながら、バランスボードから降りると、武に視線を投げた。案の定、武が横たわっていた。既に、リンネも駆け寄っている。
武の指は、小刻みに震えていた。額には冷や汗が浮かび、顔色が見る見る蒼白になっていく。そして、ほんの一瞬――、誰も見逃してしまいそうな一瞬だったが、確かに武の指先から赤白い光が漏れ出たように、佑也の眼には、見えた。
駆け寄ったリンネが、武に、声をかける。
「武君、大丈夫?」
武は、佑也の予想以上に、しっかりした受け答えをリンネにした。
「大丈夫。ちょっと疲れただけ」
武は、いつもの笑顔を取り戻そうとしていた。けれど、その瞳の奥には、今までに見たことのない不安の色が宿っていた。まるで自分の身体の中で、何か得体の知れないものが目覚めようとしているのを、必死に抑え込もうとしているかのように。
佑也は、セラフィスに来て初めて、自分が、得体の知れない不安に襲われているのを感じた。
セラフィスの中庭は、ゆったりとした造りになっていて、白木のテーブルを幾つかあって、患者や面会者が寛げるようになっている。リハビリを終えた佑也が、ぼんやりと寛いでいると、車椅子を操って、武がやって来た。武は、週末は、セラフィスに泊まり込みだ。
「お疲れ様、佑也兄ちゃん」
武の声には、いつもの明るさが戻っていた。
「おう」
佑也の視線には、壁面の一角に張られた白いテント飛び込んでくる。テントは微風に揺れている。時折、金属音や電動工具の音が漏れ聞こえてくる。工事現場特有の、何かを組み立てる音が響いていた。
「工事、まだ続くのかなあ」
武が問いかけるように、呟く。
「そもそも、あれ、何の工事なんだ?」
「不思議なんだよね。病院の人に聞いても、応えてくれない」
「へえー」
昼休憩を告げるチャイムが鳴り、白衣を着た職員たちが三々五々、中庭に出てきた。その後に続いて、作業着姿の工事作業員たちも、弁当を手に現れ始める。彼らは佑也たちから少し離れたテーブルに座り、談笑を始めた。
工事の音は続いているから、交代制なのだろう。
夏の日差しと、木々のざわめき。工事の物音と、人々の話し声。それらが混ざり合って、不思議な空気が漂い始めていた。テントの向こうで何が行われているのか、誰も気にしていないように見えた。
佑也は、気を取り直した様に、武に語りかけた。
「さっきは、大丈夫だったか?」
佑也は、できるだけ自然な口調を心がけながら、武に尋ねた。武の平行棒でのリハビリは、これまで順調で、さっきの様に倒れ込むことは無かったので、佑也は心配だった。
「ああ、うん。大丈夫」
武は少し俯き、車椅子のアームレストを無意識に撫でている。その指先は、先ほどの赤白い光を放っていた指先だ。
「ただの疲れ、じゃないよな?」
佑也の言葉に、武は黙ってうなずいた。
その時、作業員たちの会話が風に乗って聞こえてきた。
「しかしあんな太いパイプ引っ張るって、すごい水圧だよなあ?」
「何でも諏訪湖の水を最終的に引っ張るらしいぜ」
「水なんて水道管の水でいいじゃねーか」
「違いねーや」
そう言うと、作業員達は軽やかに笑った。もちろん、彼らにしてみれば、その目的などは関知しないところだ。表情を見る限り、給料は高そうだ。
佑也と武の視線が交錯する。武も、その会話に耳を傾けているのが分かった。作業員たちは、缶コーヒーを片手に気楽な調子で話を続けている。
「地下までの配管工事が終われば、後は地上部分だけ。来月には終わるんじゃない?」
「それでようやくオンスケだよ。工事長ピリピリしてるぜ」
武の表情が、僅かに強張った。武は、何かを知っている様だった。
武は、佑也のもの問いたげな視線をかわすように、自分から言葉を発した。
「佑也兄ちゃん」
と、武。「最近、女の子を、幽霊みたいな女の子を見かけるって噂、知ってる?」
佑也は首を振る。武は周囲を確認するように視線を巡らせ、さらに声を落として続けた。
「ショートボブの女の子なんだ。最近、よく見かけるようになったって。リハビリに来てる子たちの間で、話題になってる」
「へえー。ショートボブなんて最近の小学生はお洒落な言葉知ってるな」
「えっ。ショートボブなんて、皆知ってるよ」
そ、そうなのか。
佑也と武がちょっと、黙り込むと、作業員たちの会話が聞こえてくる。
「あの配管、直接地下に繋がってんだよな」
「そう。でも何であんな太いのが必要なんだろ」
「さぁ? 俺たちには関係ない話だよ」
確かに、作業員たちにはどうでもいい話だろう。
だが、俺たち、セラフィスに通う患者にとってはどうなのだろう?
新しいリハビリメニューの為の工事なのだろうか。そういう風にも思えないが。
佑也は、ふと、思いついた疑問を、武にした。
「その女の子は、何処に出るんだ?」
「地下だって。ほら、僕は未だ、車椅子だから、地下にはいけないけど――」
「もうじき、歩けるようになるさ」
「うん」
と、武。「それでさ、その子、何か探してるみたいなんだって」
武の言葉に、佑也は息を呑む。
「探してる?」
「うん、純粋な、何かだって」
佑也は、なーんだ、と思った。ちょっとした都市伝説か何かだろう。
「なあ、武」
「なーに?」
さっき、倒れた時、武の指先から赤白い光が漏れ出た様に見えたんだけど――。
そう、聞こうとした佑也は、何故か、武に、その言葉を投げれなかった。武とは、気さくな関係を築いてるつもりだったのに。
佑也は、慌てて、言葉を紡いだ。
「きっと歩けるようになるさ。ここのリハビリは、評判いいらしいぜ」
「うん」
と、武は目を輝かせた。「お母さんも言ってた」
佑也は、つい、考え込んでしまう。――奇妙な工事の話、ボブカットの女の子の話、そして、武の指先から漏れ出た赤白い光。佑也には、どれもこれもが、一つにつながってる気がした。……やたら勘のいい神崎美咲なら、なんと言うだろうか。




