第五章
美咲は、一度、水月神社を訪ねたものの、足が遠のいていた。祖母の咲子が、偉大な巫女だったことには、驚きもし、また、誇らしくもあったが、では、自分が巫女になるかというと、それもまた、別の話だった。
また、水月神社の池の前では、ペンダントの中の少女・メイと、話をすることが出来たが、家に帰ってからは、メイは話しかけてはこなかった。
今日は、美術部の後輩・藤堂千夏の祖母がやっている古本屋にやって来た。かねてから、訪ねてみようと思っていたが、なかなか機会が無かったのだ。
美咲が、青蝶堂に足を踏み入れると、古書の香りがツンと鼻を突いた。
店内は、天井まで届く古い木製の本棚が整然と並び、所々に置かれた真鍮のブックスタンドが柔らかな光を反射している。古びた床板はところどころきしみ、木の温もりを感じさせる。店内の風鈴が涼やかな音を奏でる中、カウンターの向こうで千夏が古い写真を眺めていた。
青のデニムのショートパンツに白のロゴTシャツを着た千夏は、手元の写真に身を乗り出すようにして、鼻を鳴らしながら、熱心に見入っている。シンプルな黒のヘアピンで留めた黒髪が、時折、千夏の興奮する様に併せてか、揺れていた。
美咲と千夏は、上信越学園の美術部で、美咲が三年、千夏が一年だ。
美咲に気づいた千夏が、その愛くるしい瞳を輝かせて、美咲に声を弾ませる。
「あ、美咲さん! ちょうどいいところに」
千夏は嬉しそうに手招きする。カウンターには明治時代の諏訪の古写真が広げられ、千夏は新入荷の整理をしているところだった。
「実は今朝、月輪寺の住職から連絡があって。寺の倉庫を整理していたら、戦後すぐの写真が見つかったんですって。私の祖母も写ってるそうだから、もしかしたら――」
千夏は言葉を選ぶように一瞬躊躇い、そして続けた。
「美咲さんのお祖母様も写ってるかもしれません。見に行ってみませんか?」
古書店の奥から差し込む午後の光が、千夏の横顔を優しく照らしている。彼女の瞳には、どこか特別な光が宿っているように見えた。
「月輪寺というと?」
「ええ、あの聖花園のことで関わりがあった寺です。祖母から少し聞いたことがあります」
千夏の声には、どこか秘密を共有するような響きがあった。美咲は直感的に、これが単なる古写真探しではないことを悟る。静かな古書店の空気の中で、美咲は、どうしようかと思案した。
「きっと、大切な何かが見つかるような気がするんです」
千夏は柔らかな声で続けた。「美咲さんと一緒に、あの時代の物語を紐解いてみたくて」
美咲は、胸元のペンダントをギュッと握りしめた。
そうだ、このペンダントを咲子におねだりしたのは、自分自身なのだ。
美咲は、千夏とともに、月輪寺に行ってみることにした。
急な石段を前に、美咲と千夏は足を止めた。夏の日差しが強く、石段の両脇の木々が心地よい木陰を作っている。
「この寺は、当時、苦しんでいた子供たちの救済に深く関わっていたんです」
石段を一段ずつ上りながら、千夏は静かに語り始めた。
「祖母から聞いた話では、聖花園の子供たちを、このお寺が保護していたことも」
「おーい」
その時、山門の向こうから住職の姿が現れた。優しい笑顔の中に、どこか厳かな雰囲気を漂わせる中年の僧侶だ。
「お待ちしていました。藤堂さんから連絡は受けています」
住職は二人を見るなり、深々と会釈をした。
「実は昨日、倉庫の奥から大変興味深いものが見つかりまして」
その声には、何か重要な発見をした人特有の高揚感が混ざっている。
「どうぞ、こちらへ」
境内に入りながら、美咲は遠くに諏訪湖を眺めた。諏訪湖は、夏の日差しを浴びて、美しく輝いていた。その美しさは、この世には善意しかないと主張しているようで、何処か、美咲を気後れさせた。
古い本堂の一室で、重たい音を立てて箪笥の扉が開く。埃の舞う空気の中、住職が古びた箱を取り出した。慈しむように箱から取り出されたのは、二枚の古写真だった。
住職が、当時を懐かしむような感じで、二枚の古写真を、美咲と千夏に差し出した。
「どうぞ、ご覧ください」
一枚の写真には、聖花園の様子が写っていた。ちょっと、畏まった感じもするし、くだけた感じもする写真だった。門の所に、看板がかかっている。
美咲は、写真に写る、一人の人物に目を留めて、思わず、アッ、と叫んでしまった。
その人物は、白衣をまとい、子供たちに囲まれて笑顔で立っていた。だが、どう見ても、その人物は、先日、上信越学園の教壇に立っていたフラム先生の姿だった。
美咲は、でも、と思う。
私だって、ペンダントがあったとはいえ、光頭様の目には、咲子の孫と、一目で分かったのだ。写真の人物は、フラム先生のおじい様かもしれない。写真の中のフラムの祖父は、とても温厚な笑みを浮かべていた。
そして、もう一枚の写真。
月輪寺の本堂前で撮られたその写真には、巫女装束の祖母・咲子が、十数人の子供たちと共に写っていた。子供たちの表情には暗い影、深い傷跡が見て取れたが、それでも咲子の優しい笑顔に寄り添うように、かすかな希望の光を宿している様に見えた。
そして、咲子の姿は、とても、慈愛に満ちていて、神々しくすらあった。
これが、伝説の巫女の所以?
美咲は怪訝に思った。
確かに、咲子の姿は美しくはあるが。
美咲は、ふと、自らの横顔に視線を感じて、千夏を見返した。
千夏の瞳は、キラキラと輝いていて、何かの確信を持っている様だった。千夏はもっと、色々知っている様だった。
美咲と千夏の前には、いつの間にか、お茶が出されていた。
住職が優しく言う。
「お茶でも飲みなされ」
「ありがとうございます」
住職は、自らも、お茶を一口飲んでから、二枚の写真と、そして、七十年前に聖花園を舞台にして起こった事件について、語り出した。
一九四五年、諏訪の街も戦火に見舞われ、一面の焼け野原と化していた。食べ物を求めて人々が街をさまよい、特に戦災孤児たちは悲惨な状況にあった。路上で倒れる子供の姿も珍しくはなかったという。
そんな混乱の最中、ドイツから来た医師フラムが聖花園を開設した。清潔な寝床と温かい食事、そして何より希望を与えてくれる場所として、瞬く間に評判になった。写真の中のフラムは、まさにその頃の様子を写したものだった。
しかし、表向きの穏やかな日常の裏で、やがて、奇妙な噂が立った。聖花園では、何かの実験が行われている、と。それも、子供たちを使った実験が。
そして、それは、一九五〇年のその日、今日と同じような強い日差しの日に起きたという。
住職は、虚空を見つめる様にして、言葉を紡いだ。
「私はもちろん、その事件を見ておりません。祖父から、ポツリポツリと聞いただけです。祖父も実際に目撃した訳じゃなくて、子供たちから話す内容をそのまま、私に伝えてくれただけです。その内容は、非現実じみていて、とても実際に起こった内容とは思えない内容です」
すると、千夏が挑むような感じで、住職に尋ねた。
「どんな事件だったんですか?」
住職は、繁々と千夏を見つめてから、応えた。
「千夏さんは、節子さんから、聞いておるようですね」
住職は、視線を美咲にやると、聞いた。
「美咲さんは、咲子様から聞いておられますか?」
「私は何も」
と、美咲は、首を横に振った。
「そうですか。咲子様は咲子様なりのお考えがあるのでしょう。ですから、今日は、その事件の話は省かせて貰います。でも、祖父は私にこう言いました。――子供たちの空想としか思えない話だけれど、私は、その中に真実を感じ取ったから、お前に話している、と」
美咲は内心、考えた。
その聖花園で起きた事件とやらで、咲子おばあちゃまは、活躍し、伝説の巫女となったんだわ。美咲は、水月神社で見せられた小部屋の様子を思い出した。まるで絵巻物の一場面のような小部屋、そして、まるで礼拝物の対象であるかのように準備されている巫女の衣装。
住職が話を続けた。
「結局、事件が起きて、聖花園は閉鎖に追い込まれて、行き場を失った子供たちを、当時の住職が受け入れたのです。咲子様が写っている写真は、事件から半年後ぐらいに撮影されたもののようです」
咲子の隣に写る子供たちの表情には確かに深い傷跡が見て取れる。しかし、月輪寺での新しい生活の中で、少しずつ希望を取り戻していった様子も窺えた。
「私の話はこれで終わりです」
千夏は、その言葉を待っていたかの様に、住職に問いかけた。
「お写真、お借りしてもよろしいですか?」
「もちろんですとも。その為に、今日は来て頂いたのですから。お写真はお譲りします、あるべき人のもとへ」
「ありがとうございます」
と、千夏は頭を下げた。
千夏は、自分の手元の、聖花園とフラムの写真を軽く持ち上げると、
「私はこちらを頂きます」
と、言った。「美咲さんは、そちらの写真を」
美咲は、確かに、巫女姿の咲子の写真が欲しかった。おばあちゃんの本当に光り輝いている姿。母も喜ぶに違いない。でも――。
「よろしいのでしょうか。こちらは、月輪寺さんの貴重な記録な写真でもあると思うのですけれど」
すると、住職は、ニコヤカに笑った。
「当時の写真は、他に、幾らでもあります。その一枚は、祖父が隠し持っていたのですよ。何せ、当時の子供たちは、皆、咲子様のファンでしたから」




