第四章
今日は、セラフィスでの初めてのリハビリの日だ。セラフィスを初めて尋ねた前回は、施設の全般的な説明を受け、そして、医者の紹介状とMRI写真などを、セラフィスの医者に渡した形になっている。セラフィスではそれらの資料をもとに、リハビリをサポートしてくれる担当者を決める、とのことだった。
佑也が、ジャージに着替えて、受付のロビーで待っていると、若い女性の声がした。
「最上佑也さんはいらっしゃいますか?」
佑也は、顔を上げ、声の主を見た瞬間、自分の心臓が大きく跳ね上がるのを感じた。
視線の先には、白衣を纏った女性が佑也を見つめていた。歳は、二十代半ばくらいだろうか、すらりとした体躯に、深い翡翠色の瞳からは知性を感じる。髪は、明るいブロンドだった。
だが、次の一瞬、その女性が微笑んだ瞬間、不思議な幻影が佑也の脳裏を掠めた――。黒い尖った帽子の下から覗く青い髪、白い肌に翡翠の瞳を持つ、魔女の姿が、佑也に微笑んでいたのだ。
佑也は、慌てて、幻影を振り払う様に、首を振った。
いつの間にか、その女性が、佑也の前に立っていて、佑也に語りかけた。
その姿は、白衣を纏ったブロンドの女性だった。
「私がリハビリを担当させていただく、理学療法士のリンネと申します。よろしくお願いします」
リンネと名乗った彼女は、柔らかな微笑みを浮かべながら一礼した。その仕草には不思議な優雅さがあり、まるで長い年月を重ねた大人のような落ち着きが感じられた。
「よ、よろしくお願いします」
佑也は、ソファに座ったまま、思わず深々と頭を下げた。顔が熱くなるのを感じる。あの幻影は何だったのだろう。でも、確かに彼女には普通の人とは違う、魅惑的な何かがある。
「では、リハビリ室へご案内させていただきますね」
リンネが前を歩き出す。その後ろ姿を追いながら、佑也は自分の胸の高鳴りを抑えることができなかった。これまで感じたことのない、まるで魔法にかけられたかのような不思議な感覚が全身を包み込んでいく。
佑也は、魅入られる様に、リンネの後ろ姿を追った。
リハビリ室に入ると、リンネは佑也をベッドに案内した。
「では、まずは足首の状態を確認させていただきます」
白衣の袖をまくり上げ、リンネは佑也の足首に手を伸ばす。その指先が肌に触れた瞬間、佑也は思わずびくりと体を震わせた。
「痛みましたか?」
「い、いえ」
実際のところ、その震えは痛みからではなかった。リンネの手の温もりと、繊細な指の動きに、佑也は心臓の鼓動が速くなるのを感じていた。
「腫れの状態は、思ったより良好ですね」
リンネの声は落ち着いていて、その仕草には不思議な優雅さがあった。まるで長年の経験を重ねた熟練の医者のような的確さで、しかし、若い女性らしい柔らかさも併せ持っている。
佑也は、リンネの手の動きを見つめながら、先ほど感じた魔女の幻影を思い出していた。確かに彼女には、人並み以上の何かがある。その手つきには、ただの理学療法士としての技術以上の、神秘的な何かが宿っているように感じられた。
「次は、少し足首を動かしてみましょうか」
リンネの静かな声に、佑也は無言で頷いた。彼女の手の中で、自分の心も、足首も、優しく溶けていくような感覚があった。リンネは丁寧に関節可動域を確認していく。その仕草には、どこか儀式めいた厳かさがあった。
「ここで痛みはありますか?」
「少し」
「程度を十段階で表すと?」
「三くらいでしょうか」
淡々とした質問の合間に、リンネは時折、佑也の表情を観察していた。その翡翠の瞳には鋭い観察眼が宿っている。
「サッカーは、いつ頃から?」
突然の質問に、佑也は少し驚いた。だが、リンネの手が傷めた足首にアイスパックを当てながら、その表情は柔らかい。
「小学校からです。学校に部活があったから」
「へえー。サッカーは楽しいですか?」
「ええ、もちろん、でも今は」
「今は?」
「なんでもないです」
「そうですか。怪我をした時の状況は覚えていますか?」
「後ろからスライディングされて」
「そうですか。相手選手は謝ってきましたか?」
「いいえ。お互いに勝つ為ですから」
佑也は、あのシーンを振り返ると、自分が相手の立場なら、自分も、やはり、ファール覚悟でスライディングしたんじゃないかと思う。ストライカーの嗅覚の守備的利用って奴だ。
佑也は思わず、苦笑いをしていたのだろう。
リンネが声をかける。
「どうしました? 何だか楽しそうに」
「いや」
と、佑也は言葉を選ぶ。「負けた、負けた、負けた、ハイ、次、な感じです」
佑也の答えに、リンネは小さく微笑んだ。
「どうやら、怪我をした時のことは、引きずってないようですね。安心しました」
「まあね」
「それも、リハビリの第一歩です。リハビリ時には、リハビリに集中した方がいいです。サッカーの試合をする様に」
リンネの笑顔には、何か魔法のような温かさがあった。時計の針が進むのも忘れるような、不思議な空気が流れる。
「では、次は簡単な運動療法を始めましょうか」
アイスパックを外しながら、リンネの声が静かに響いた。
リンネの指導の下、佑也は足首の簡単なストレッチを始めた。ゆっくりと、つま先を上下に動かす。
「痛みは、どうですか?」
佑也は軽く痛みを感じながらも、条件反射的に、
「大丈夫です」
と、答えていた。
だが、その瞬間、佑也の眉間が一瞬、かすかに寄った。リンネの表情が、一変する。
「嘘をつくのは、やめていただけますか」
凛とした声に、佑也は思わず顔を上げた。そこには、先ほどまでの柔らかな表情はない。厳しさの中に、どこか魔女のような威厳を帯びた眼差しがあった。
「痛みを我慢することは、あなたのためになりません」
リンネは、ゆっくりと腕を組んだ。その仕草には、圧倒的な説得力があった。
「でも、一日でも早く……」
「焦れば焦るほど、回復は遅れます」
リンネの声は、冷静だが強い意志が込められていた。
「理学療法士として、はっきりと申し上げます。痛みは、体からのメッセージです。それを無視することは、最も愚かな選択です」
佑也は、黙ってうつむいた。確かに、彼女の言う通りだ。でも――。
「あなたの気持ちは分かります。しかし――」
リンネの声が、少し柔らかくなる。
「この戦いは、あなた一人のものではありません。私たちも、一緒に戦っているんですよ」
その言葉に、佑也は、静かに顔を上げた。リンネの瞳には、厳しさの中に、確かな温かさが宿っていた。
「今日のリハビリは、ここまでにしましょう」
リンネは丁寧に、冷たくなったアイスパックを片付けながら説明を始めた。
「自宅でのケアが、とても重要になります」
彼女は、一枚のプリントを取り出した。そこには、細かい指示が記されている。
「一日四回のアイシング、そして、お伝えした簡単なストレッチ。ただし――」
リンネは、一瞬、意味ありげな視線を佑也に向けた。
「痛みを感じたら、すぐに中止してください。決して無理はしないように」
「はい」
素直な返事に、リンネは満足そうに微笑んだ。
「焦らずに、一つ一つ、確実に。私たちは必ず、あなたを元の場所に連れて行きます」
その言葉には、不思議な説得力があった。まるで、魔法の呪文のように、佑也の心に染み込んでいく。
「次回は、三日後の同じ時間でお願いします」
リンネが診察記録を書き終えると、リハビリ室の空気が、ゆっくりと日常に戻っていく。だが、佑也の心の中では、彼女の言葉が、暖かな光となって静かに灯り続けていた。
帰り際、佑也は思った。この場所で、この人と出会えたことは、きっと偶然ではないのかもしれない。そして次の約束の日を、すでに心待ちにしている自分に気がついた。
「では、お気をつけてお帰りください」
リンネの見送りの言葉に、佑也は、軽く会釈して部屋を出る。もちろん、松葉杖に頼ることに変わりはないが、来た時より、遥かに心が軽くなっていた。
佑也の背中を、じっと、リンネは見送った。
「何だろう、とても興味深い」
そっとつぶやいた彼女の瞳が、一瞬、妖しく輝いた。翡翠の瞳の奥に、何か得体の知れない深い色が浮かび上がる。
白衣の裾が風もないのに微かに揺れた。




