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月の道  作者: 月上まもる
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最終章 月の道

 自宅に戻った美咲は、巫女衣装に着替えて、玄関から出て来た。美咲の背中には、古ぼけた弓が背負われていた。

 その時の佑也は、口をポカーンとして、美咲を眺めてみていたことだろう。だが、佑也は直ぐにヤバいと気づき、隣の千夏を見た。危うく、弱みを握られるとこだった。

 だが、それも杞憂だった。

 千夏も口をポカーンとして、美咲を眺めていた。

 佑也の方が千夏より、立ち直りが早かったのは、僅か二年とはいえ、亀の甲より年の功、といったところだ。

 美咲が怪訝な顔で言う。

「どうしたの、二人とも、呆けた顔をして」

 千夏がモゴモゴと言う。

「だって、美咲先輩があまりにも……」

 佑也が、照れ隠しに、言葉を被せた。

「急げ! 俺の肩に掴まれ」

 美咲も千夏も、ハッとして、美咲は、小走りに佑也の元にやって来た。千夏は、千夏でシロを、再び、抱え込む。

 

 玄関から出て来た美咲は、神々しかったのだ、あまりにも。

 その圧倒的な美しさに先ずは圧倒される。

 だが、直ぐに、いや、最初から、体感している。美咲からは、哀しみも、喜びも、怒りも、嘆きも、あらゆる感情が読み取れるのだ。それは、佑也に、ある種の怖さを、パニックをもたらした。

 この存在には、触れたらいけない、関わってはいけない。

 畏敬の念。

 

 佑也は、自分の肩に置かれた美咲の手の温かさに気づいた。

 思わず、隣の美咲を見た。

 そこには、厳しい顔つきであるものの、普段、学校の教室で会う美咲がいた。

 佑也は、首を回して、千夏を見る。

 千夏の顔は、不安と恐怖で満ちていた。

 そうだ、この三人の中で、一番、不安なのが千夏だろう。

 美咲は、龍神の巫女としての使命感を感じているのだろう。使命感は人に勇気を与え、時に、恐怖すら跳ねのけてしまう。

 佑也は、佑也で、覚悟を決めていた。

 何時から?

 そう、リンネと出会ったときから、リンネを魔女と感じた時から。

 自ら、この争いに参加したのだ。

 最初は、リンネのことをもっと知りたいという気持ちだった。

 だが、廃工場、天文台とフラムの実験の有様を見ていくうちに、……いや、美咲の鬼気迫る様な変わりようを見ているうちに、自分も何かしなければいけないと思っているうちに、今日まで来たのだ。いずれにしろ、自分で望んだことだ。

 だが、千夏は?

 千夏の祖母が、七十年前のフラムの実験の被験者で、その影響で、千夏は、小さい頃から体が弱く、また、記憶を呼び覚ます特殊な能力があることは分かった。

 でも、だからと言って、また、新たな危険に身を晒すことはないだろう。

 千夏は、どうして、危険なセラフィスに行く?

「ニャー」

 その時、シロが、佑也を急かすように、鳴いた。

「そうですよ、先輩。早く、行きましょう、セラフィスに」

 そう言う千夏の顔は、いつもの千夏だった。ちょっと、人を小馬鹿にしたような、そして、何よりも、何故か、見る者を安心させる、見る者の迷いを断ち切る様な。――そうだ、決めるのは千夏だ。

 佑也は、呟く。

「行くぜ」

 美咲と千夏が大きく頷いたのが気配で分かる。


「理子ちゃんと武君は何処にいるのかしら?」

 もちろん、美咲と佑也、千夏がセラフィスに来たのは、先ずは、武と理子への治療、実験をやめさせる為だ。実験の内容は、武と理子も頑として話さないが、体に良くないことは明らかだった。エーテリウムを体に注入するのとは、また、別の話だということは想像がつく。

 佑也は、言う。

「研究棟だろう」

「研究棟?」

「研究棟には、普段、足を踏み入れない。だが、俺がエーテリウム治療を受けるのは、研究棟の地下一階だ」

「なーるです~」

 千夏は、すっかり、いつもの千夏だ。

 普段は、このムカつく言い方も、今日は何故か、心強く感じる。

 佑也たちは、研究棟の地下に、駆け込んだ。

 地下は、一階しかなく、部屋数は、十室程だった。

 佑也たちは、人の気配が無いことに、すぐ気が付いた。だが、念の為、部屋を全部、あらためた。しかし、誰もいない。

 佑也たちは慌てて、階段を上がり、一階、二階、三階と、手分けして、武と理子を探したが、やはり、見つからない。フラムの姿はもちろん、リンネの姿もない。

 研究棟を出ると、美咲が言う。

「本棟かしら?」

「だろうな」

と、佑也は答えた。「だが、その前に先ずは、中庭だ」

 千夏が聞く。

「どうしてですか?」

「不可解な工事の話はしただろう?」

 千夏が、パッと目を輝かす。

「建物の壁面にテントが張られてて、太いパイプを通してるって」

「ああ、先ずはそのパイプの行き先だ」

と、佑也は言った。「急ぐぞ」

 佑也は、嫌な予感を感じていた。日頃の様子から、武と理子の治療が研究棟の地下で行われていたことは確実だった。そこに居ないということは、実験は終了したか、あるいは最終段階に入ったということを意味していた。

 セラフィスの中庭で、壁面に伸びる太いパイプの位置を、佑也たちは確認した。工事が終わったのだろう、テントは取り外されていた。白く塗装された表面は新しく、周囲の古びた建物の壁とは不釣り合いな存在感を放っている。

 パイプは、西壁に設定されていた。佑也たちは、本棟入口に周り、そして、本棟の地下一階に行った。フロアマップには、方位記号も記されていた。

 佑也たちは、西側に配置されている部屋に回ったが、直ぐ物音がして来た。佑也たちは、その部屋に駆けつけると、佑也は、そのドアを開けた。幸い、鍵はかかっていなかった。

 実験室の扉を開けると、まるで別世界が広がっていた。天井が通常の二倍はある広大な空間で、壁一面には複雑な配管と制御装置が設置されている。部屋の中央には、巨大な円形のプラットフォームがあり、そこに二つの特殊な装置が据え付けられていた。

 理子と武は、それぞれの装置に横たわっていた。透明なチューブが両腕に繋がれ、赤白い液体が静かに流れ込んでいる。二人の周りには、赤白い炎が幻想的な光を放ちながら揺らめいていた。

 実験室の奥では、フラムが腕を組んで立っている。彼の隣には、白いワンピースの少女――七海澪が静かに佇んでいた。

 部屋の片隅の作業スペースでは、リンネが黙々とデータを記録していた。リンネが、部屋に入って来た佑也たちに気づき、チラッとこちらを見る。

 だが、実験経過を告げるリンネの言葉は、淡々としたものだった。

「実験は予定通り進行しています」

「ああ、理想的だ」

 フラムは満足げに頷いた。「七十年越しの成功が、ここまで来ている」

 佑也と美咲は、思わず、声を挙げた。

「武!」

「理子ちゃん!」

 佑也と美咲の声が響いた。

 リンネは一瞬作業の手を止め、振り返ることなく、

「実験中です。邪魔をしないでください」と、冷たく告げた。

 だが、その声には僅かな迷いがあるように、佑也には思えた。

 武と理子の瞳からは赤白い光が漏れ、まるで人形のように無機質な表情で三人を見つめている。プラットフォームの周りを旋回する赤白い炎は、二人を守るかのように激しく揺らめき始めた。

 チューブにつながれてる武と理子を見て、佑也には、強制的に実験を中止してしまっていいのか、判断がつかなかった。

 やがて、リンネが呟くように言った。

「武君、理子ちゃん、もう終わりましたよ」

 佑也は、リンネの「終わりました」という言葉に、底知れない不吉さを感じた。

 その時、武と理子の体から、不規則な赤白い炎が噴き出し始めた。まるで二人の不安と恐れが実体化したかのように、炎は部屋の空気を冷やしながら渦を巻いていく。

「近寄らないで!」

 理子の声が震えている。彼女の周りの炎が、自分を守るように壁を作り始めた。

 制御パネルから警告音が鳴り響き、リンネの指が慌ただしくキーボードを叩く。モニターには不安定な波形が次々と表示されていく。

「お願い、実験を止めて!」

 美咲が叫ぶ。

 その声に反応するように、武の体から赤白い炎が激しく放出された。チューブの中を流れる液体が脈動を始め、その振動が装置全体に伝わっていく。

 不意に、リンネが声を張り上げる。

「危険です! これ以上感情を刺激しないでください!」

 だが、既に手遅れだった。

 二人の周りの赤白い炎が徐々に膨張し、防御の壁を作り始める。それは意識的な行動というより、本能的な自己防衛のようだった。炎は時折不規則に暴れ、天井まで届くほどの柱となって立ち昇る。

「みんな、帰って」

 武の声が震えている。「僕たちには、この治療が必要なんだ」

 その言葉とは裏腹に、彼の周りの炎が更に激しく揺らめき、制御パネルの警告音が高く鋭い音を立て始めた。プラットフォームの床には赤白い霜が走り、実験室の温度が急激に低下していく。

 佑也と美咲が途方に暮れて立ち尽くしていると、不意に、千夏が、武と理子の元に歩み寄った。

「千夏ちゃん、危ないわ!」

 美咲の制止の声も聞こえないかのように、千夏は赤白い炎の壁に向かって歩き出した。炎は千夏を拒むように揺らめくが、彼女は躊躇することなく壁をくぐり抜けた。

 千夏は理子と武に繋がれたチューブに手を伸ばす。触れた瞬間、赤白い液体が脈動するのが、千夏の手のひらに伝わってきた。そして――。

「あっ」

 千夏の意識が、七十年前の記憶の中へと吸い込まれていく。

 同じ実験室。だが、より古い装置が並んでいる。チューブは既に黄ばんでいて、中を流れる赤白い液体も今ほど透明ではない。ベッドに横たわる少女の姿が見える。ボブカットの黒髪に、白いワンピース。目を閉じていて、その表情には苦痛の色が浮かんでいる。

「被験体〇〇二、守屋詩織。実験結果、失敗」

 誰かの声が記憶の中で響く。だが不思議なことに、少女の唇は微かに笑みを浮かべていた。その笑顔には、どこか安らぎのようなものが感じられる。


 千夏の意識が吸い込まれた七十年前の記憶は、現在の地下室に再現された。

 地下に突如として再現された映像に、佑也は目を見張る。これは、青蝶堂の時と同じだ。だが、あの時は、髪の長い少女、今はフラムの傍に立っている七海澪だったが――。だが、いずれも、何処か、古臭い感じの服だ。

「こ、これは」

 気が付けば、武と理子も、再現されたボブカットの黒髪に、白いワンピースの少女に、目を見張っていた。

 その時だった。

 実験室のドアが開いたかと思うと、一人の少女が入って来た。

 その少女は、ボブカットの黒髪で、白いワンピースに身を包んでいた。七十年前に実験を受け、そして、七海澪と同様、今を生きる守屋詩織だった。

 フラムの表情が微かに強張り、澪の瞳が細くなる。

 澪の声が震える。

「……詩織」

 詩織は中央のプラットフォームに歩み寄り、理子と武の間に立った。彼女の存在だけで、赤白い炎の荒れた動きが落ち着いていく。

 詩織が、チューブを手に取る。

「七十年前と同じチューブ、同じ赤白い液体」

 詩織の声は優しく、どこか懐かしむような響きを持っていた。

「でも、私の中の感情は決して消えなかった」

 その言葉が、チューブを伝わって武と理子の中へと流れ込んでいく。二人の体が小刻みに震え始めた。それは拒絶ではなく、何かが目覚めようとする震えだった。

 武が目を見開く。

「これは、詩織さんの」

 理子の声が掠れる。

「こんな痛みが……」

 チューブを通じて、七十年前の記憶が二人の中に流れ込んでいた。実験の痛み、苦しみ、そして――詩織が守り抜いた感情の温かさが。

 不意に、七海澪の嘲笑するような声が響いた。

「七十年前の失敗作が、今の実験の邪魔もする」

 武も理子も、七海澪と守屋詩織の存在は知っていた。そして、フラムが、七海澪を成功作と呼び、守屋詩織を失敗作と呼ぶことも。現に、七海澪が、今のフラムの実験を手伝っていることが、その証拠だと思っていた。

 だが、何だろう、このチューブを通して感じる、詩織の温かさ。

 いつの間にか、武と理子の周りの赤白い炎が、まるで迷うように揺らめき始めていた。そして、詩織は、無造作に、武と理子の腕から、チューブを抜いてしまった。

 七海澪もフラムも、いつの間にか、部屋の中央の、武と理子がいる円形のプラットフォームの傍に立っていた。

「フラム先生」

 詩織の声が静かに響く。「私は、なぜ失敗作なのですか?」

 フラムは穏やかな表情を崩さずに答えた。「君の場合は残念ながら、力の安定性が十分ではなかった。それだけのことだよ」

 詩織が、軽く、首を振る。

「フラム先生は、いつもその答え。私、昔から不思議だったんです。私の力は、澪と比べて、そんな不安定じゃないのにって。でも、フラム先生には恩義があるから……」

 ふと、詩織は、武と理子に語りかけた。

「私が恩義っていうのは、戦後直後で、食べ物も無かった時代に、聖花園に引き取ってくれたこと。そして、私と澪は当時十七で、実験治療に参加するには、ちょっと、歳を取り過ぎてたのに、実験治療に参加させてくれたことよ。貴方達みたいに、お金を払ってセラフィスで治療を受けているのとは別の話」

 フラムが苛立ったように口を挟む。

「余計なことを言わないでいい」

 詩織は、再び、フラムに向き直る。

「先生、私、確信が持てました」

「確信?」

「先生の言う、安定が何だってことか」

 詩織は話を続けた。

「私、先日、夕暮れ時にセラフィスの廊下を歩いていました。その時、前方から佑也さんが武君の車椅子を押しながら、歩いてきました。私は傍によけて、窓の外に目をやったら、窓ガラスに笑う佑也さんと武君の姿が映って、とても自然な姿でした」

 澪が眉をひそめる。

「それがどうしたというの?」

 詩織は澪を見つめて、続ける。

「その時、澪も通りかかりました。窓に映るあなたの姿には、一切の揺らぎがない。完璧すぎる。人形のようでした」

 フラムの表情が微かに強張る。

「そう、これが先生の言う『安定』なのですね。感情という揺らぎを完全に消し去ること」

 詩織は武と理子を見つめる。

「私の力は、そういう意味では、確かに不安定かもしれません」

 澪が口調を荒立てる。

「詩織、あなたはまだ分かっていない。私たちは、より高次の存在になれた。フラム先生のおかげで」

 詩織は微かに首を振った。

「より高次。――先日、不思議な方に会いました。その方は『成功だか失敗は、自分で決めればいい』と」

「ふむ」

 フラムは興味深そうに詩織を見つめる。

「しかし、治療には確かな指針が必要だ。個人の解釈で結果が左右されては困る」

 詩織の声が強さを増す。

「私は今、ただここに在るだけです。それが私の答えです」

「詩織さん……」

 武と理子の声が重なる。その声は迷いに満ちたものだった。

 澪が慌てた様に言う。

「この子たちの治療に、あなたの不安定な力は悪影響ね」

「本当にそう? それを決めるのは武君と理子ちゃんよ」

 詩織は澪を真っすぐ見つめる。

 澪が睨み返す。

「詩織、見せてあげるわ。完璧な力とは、どういうものかを」

 澪の周りに赤白い炎が渦巻き始める。

 詩織も静かに身構えた。彼女の周りにも赤白い炎が立ち昇る。だがそれは澪のものとは違い、どこか温かみのある輝きを放っていた。

 フラムが、小馬鹿にしたように言う。

「詩織君、止めときなさい。君と澪では、投入しているエーテリウムの量が違う」

 詩織が微笑む。

「そんなこと、分かってます。でも、不思議と澪には勝てる気がするの」

 澪がカッと叫ぶ。

「ふざけないで」

 澪は、真っ直ぐに立ち、両手をゆっくりと上げた。

 すると、赤白い光が実験室内を満たしていく。

 澪の冷たい炎が、まるで氷の壁のように次々と形を変えながら詩織を追い詰めていく。

「やはり、貴方は失敗作ね」

 澪の冷徹な声が響く。

 完璧に制御された炎が、詩織の赤白い光を押しつぶすように襲いかかる。

「えっ」 

 詩織が思わず、膝をつく。

 澪の力が、予想以上だったのだ。 

 詩織の周りの赤白い炎が、まるで少女の不安な心そのものように揺らめいている。

 その時、それまで、美咲と佑也の足元にいた、シロが、タタッと詩織の元に歩み寄った。

「あっ」

 詩織の目が、シロの姿を捉えた瞬間、不思議な温かさが彼女の中に広がる。

 シロの記憶が、まるで光のように詩織の中に流れ込んでくる。

 聖花園から湖月邸に退避して来た子供たちと遊ぶシロ。

 その子供たちの中には、詩織が聖花園で遊んだ子供の姿もあった。

 湖月邸で過ごした穏やかな日々。

 そして、守られるべき、澪との大切な想い出。

「そうか、私たちは、ただ守られていただけじゃなかった」

 詩織の声が、静かな確信に満ちていく。

「みんなの心は、ちゃんと繋がっていたんだ」

 シロが、ニャーと、小さく鳴いた。

 その声が、かつての聖花園の子供たちの笑い声と重なったかのように。

「その笑顔は、何を、何を見ているというの?」

 澪の声が、わずかに揺らぐ。

 詩織の赤白い炎が、まるで生命を得たかのように変化し始める。

 その中に、シロの記憶が織り込まれていくように、温かな光が混ざっていく。

「見えるでしょう、澪」

 詩織の瞳が、優しく澪を見つめる。

「私たちが大切にしていたもの。あなたも、きっと覚えているはず」

 予測不能の動きで、詩織の炎が澪の氷の壁をすり抜け、溶かしていく。

 形勢がいつの間にか、拮抗していた。


 だがしかし、フラムの顔には笑みが浮かんでいた。フラムは、いつの間にかリンネの横に移動していた。傍に立ったフラムに、リンネが声をかける。

「フラム先生、この魔力の干渉、事前の想定を大きく超えています」

 リンネが不安げに計測機器の画面を見つめながら告げる。

「セーフティ・プロトコルを発動させましょう。このままでは」

 フラムは穏やかな表情のまま、リンネの言葉を遮った。

「いいや、このままでいい」

「でも、これは実験計画にない事態です。詩織さんと澪さんの魔力の衝突が、予期せぬ共鳴をもたらしたのかもしれません」

 フラムの口元に、薄い笑みが浮かぶ。

「計画外? リンネ、部屋中央のプラットフォームをよく見てみなさい」

 中央に据えられた円形の装置に、赤白い光が渦を巻いている。

 詩織と澪の魔力の衝突が生み出す波動が、まるで何かに導かれるように、その中心へと吸い込まれていく。

「これは」

 リンネの眉が寄る。「まさか、実験室全体を……」

「ええ、そうです」

 フラムの声が静かに響く。

「この空間全体が、アポピスの力を覚醒させるための装置なのです。澪と子供たちの力に、詩織の不安定な魔力が加わることで――確かに、想定外の効果を生み出している」

「では、この戦いも先生の計算のうちだったのですか?」

と、リンネの声が震える。

 フラムが得意げに応える。

「人の感情ほど、純粋なエネルギーはない。憎しみも、愛情も、全てが力となる。だが、それだけに、その制御は、神ならぬ我々には無理なので、計算には入れない。が、想定はするものです」

 フラムは、ただ、詩織と澪の戦いが生み出す赤白い渦を、満足げに見つめ続けていた。

 リンネは、このフラムという男はつくづく恐ろしい男だと思った。

 ――熾凰儀式。

 フラムの研究の集大成の発現まで、あと少しなのは事実ではないか。私は魔女として、魔科学者として、この実験の行方、熾凰儀式の発動を見守りたい――。


 一方、その部屋中央のプラットフォームでは、それぞれの装置から、武と理子が上半身を起こしていた。体からチューブが抜け、自由がもたらされたのだ。更に、理子は、スルリと全身を抜け出させてしまっていた。

 武が、理子の全身が装置から自由になっている様子を、不思議そうに見つめる。

「理子ちゃんどうして、そんなに簡単に。僕は抜け出せない……」

 理子は装置の外に立ちながら、武に手を差し伸べた。

「武くん、私たち、間違ってたと思う」

「でも、フラム先生は僕の足を治してくれるって」

 武の声が震える。

 理子は静かに首を振る。

「私ね、詩織さんの炎を見てて気づいたの」

 彼女は自分の手のひらを見つめる。

「この赤白い炎って、私たちの願いを映し出すみたい」

「願い?」

 武の目が揺れる。

「そう。私は『治りたい』って思ってた。でも今は分かる」

 理子の声が強さを帯びる。

「本当は『みんなと一緒にいたい』って思ってたんだって」

「でも、僕の足は……」

 武が自分の足を見つめる。

「これを治せるのは、フラム先生だけなんだ」

「違うよ、武くん」

 理子が一歩近づく。

「私たち、『治る』ことだけを考えすぎてた。だから装置に縛られてたの」

「縛られて?」

 武の目が、チューブが外され、自由になった自分の体をみつめる。

「ねえ、武くん。あなたが本当に望んでるのは何?」

 理子の問いかけに、実験室が静まり返る。

「足が治ることだけ? それとも」

 武は黙ったまま、しばらく自分の足を見つめていた。

 やがて、小さく呟く。

「サッカーがしたいんだ。みんなと一緒に」

 理子は優しく微笑んだ。

「そうだよね。治るためじゃない。みんなと一緒にいるため」

「でも今のフラム先生は、違う何かを私たちに望んでる」

 だが武は、まだ自分の体を動かせずにいた。

「でもでも僕は……」


 その頃、セラフィスの上空で、満月の光を浴びて、一人の魔女が竹ぼうきにまたがり、物思いに沈んでいた。

 ノアは、シルバーホワイトの長い髪を夜風に漂わせている。黒を基調とした装いに深い青のマントを重ね、その端には星々を散りばめたような輝きが宿る。竹ぼうきの上のノアからは、魔女としての自信が漂っていた。

「メイを救い出せるのは、今宵しかないはず――」

 ノアは月明かりに照らされたセラフィスの建物を見下ろした。

 建物からは赤白い光が漏れ、何かが起きているのは明らかだった。

 だが、肝心の九尾の狐の気配はまだない。

「焦ってはだめ」

 ノアは自分に言い聞かせるように呟く。

「きっと来るはず。今までの準備は、全て今宵のために――」

 シルバーホワイトの髪が、満月の光を受けて幻想的に輝く。魔女は静かに、運命の時を待ち続けていた。


 不意に、フラムが静かに手を上げた。すると、中央プラットフォームから赤白い光が強く脈打ち始めた。詩織と澪の魔力の残響が、まるで音叉のように共鳴し、実験室全体に広がっていく。

「計測値が急上昇しています」

リンネが警告するように声を上げる。「制御システムの許容範囲を超えています!」

 モニター画面上の数値が跳ね上がり、警告音が鋭く響く。リンネの指が素早くキーボードを叩き、安全プロトコルの起動を試みるが、フラムは穏やかな表情のまま彼女の手を制した。

「今夜の満月は、七十年前と同じ位相です」

 フラムの声には陶酔めいた響きがあった。「すべての条件が整った。これ以上の好機はない」

 実験室の床から天井まで這い上がるように光の帯が伸び、赤白い光が渦を巻き始める。理子と武の体から漏れ出す赤白い炎が、その渦に吸い込まれていく。

「魔力干渉が限界値を突破!」

 リンネの声が震える。「このままでは建物の構造が持ちません!」

 フラムは満足げに微笑んだ。

「構いません。むしろ、これこそが求めていた反応です」

 フラムは実験室の中央へと歩み出る。床に描かれた幾何学模様が赤白く輝き、その光は次第に強さを増していく。リンネの必死の警告も、もはやフラムの耳には届かないようだった。

「さあ、七十年の時を経て」

 フラムは両手を広げ、天井を見上げる。

「ついに、アポピスの真なる力が目覚める時が来たのです」

 実験室全体が赤白い光に包まれ、ガラスが軋むような音を立て始めた。計測機器の警告音が轟音となって響き渡る中、フラムの姿だけが、まるで光の渦の中心に立つ司祭のように、厳かな佇まいを保っていた。

 そして、実験室の空気が突然、重たくなった。

 壁面に、赤白く光る水滴が浮かび始める。それは重力を無視するように、壁を這い上がっていく。天井からも、逆さまの雨のように水滴が湧き出し、しかし落下することなく宙に浮かんでいた。

「これは」

 美咲が息を呑む。

 次々と現れる水滴が、まるで意思を持つかのように、渦を巻き始める。実験室の中央に向かって、無数の光る粒子が集まっていく。その様は、夜空に舞う蛍のようでもあり、激流の渦の様でもあった。

 リンネの声に緊張が混じる。

「フラム、実験室内の湿度が急上昇しているわ。この現象は」

 水滴は次第に大きな流れとなり、天井付近で鳥の翼のような形を描き始めていた。実験室全体が、幻想的な赤白い光に包まれていく。

 機器のディスプレイに映る数値が跳ね上がり、警告音が鳴り響く中、フラムはその光景を満足げに見つめている。

 実験室内の異変に、佑也が、美咲と千夏に、言う、

「あの水滴、ただの結露じゃない。フラムの実験が、次の段階に入ろうとしてる」

「分かってる。でもどうすれば?」

「あの四人がこの部屋にいたらいけないのは分かりますが……」

 千夏の視線の先は、中央のプラットフォーム付近だった。

 実験室の中央では、七海澪と詩織の魔力の衝突が続いていた。その傍らで理子が、武はカプセルの中にいたまま、赤白い光に包まれたまま身をすくめいる。

「でも、どうすればいいの?」

 美咲が噛んだ唇を緩める。「理子ちゃんはともかく、武くんは、カプセルから出れないみたい」

「澪さんと詩織さんには、怖くて近づけない……」

 三人の視線先の先の澪は、まるで人形のように無表情で詩織を追い詰めていた。

「澪さんを止めようとしても、あの炎で」

と、美咲が声を挙げる。

「ああ」佑也が頷く。「正面から戦っても勝ち目はない。それに実験室を破壊するわけにもいかない。地下室が崩れたら、みんなが危険だ」

 三人は息を潜めて周囲を見回す。制御用の機器が並ぶ壁際に目が留まった時、美咲が小さく息を呑む。

「あれよ」美咲が囁くように言う。「制御システムさえ止められれば」

「水で機器を破壊する?」佑也が瞬時に理解を示す。「龍神様の力なら、できるかもしれない」

「ええ。水の力を、ほんの少しだけ」

と、美咲が決意を込めて頷く。「これ以上、フラムの暴走を見過ごすわけにはいかない」

 実験室の異様な空気の中、三人は静かに目配せを交わした。

 美咲は、内心、呟く。

 龍神様、お願い!

 美咲は深く息を吸い込むと、静かに両手を胸の前で合わせた。龍神様の力を借りる時の仕草だ。彼女の周りを、かすかな光が取り巻き始める。

 その瞬間、実験室の空気が一瞬凍りついたように感じた。

 不意に、実験室中に、美咲に、リンネの冷たい声が響く。

「残念ですが、それは、させられません」

 美咲の前に、リンネが立ちはだかっていた。翡翠色の瞳が厳しく光る。

「どうして……」

 美咲の声が震える。「リンネさん、あなたも、これは危険だって分かっているはずです」

 リンネは静かに首を振った。その仕草には、どこか哀しみが滲んでいた。

「ええ、危険です。でも」

 彼女は一瞬、目を伏せる。「この実験には、大きな意味があるのです」

 彼女の手から、赤白い光が放たれる。それは美咲の周りを取り巻いていた光を、まるで蜘蛛の巣が獲物を包み込むように、少しずつ締め付けていく。

「や、やめて」

 美咲が苦しそうに呟く。龍神様の力が、どんどん遠ざかっていく。

「申し訳ありません」

 リンネの声に感情が揺らぐ。「でも、熾凰儀式は完遂させていただきます」

 佑也が美咲の前に出ようとした瞬間、実験室全体が大きく揺れ始めた。天井の水滴が、まるで生き物のように蠢きながら、より鮮やかな赤白い光を放ち始める。


 フラムが、満足げに微笑んでいた。

「さあ、始まりましたね」彼は穏やかに言う。「七十年の時を経て、ついに」

 実験室の中央で渦巻く赤白い光が、さらに強さを増していく。リンネの術に封じられた美咲は、なす術もなく、その光景を見つめることしかできなかった。

 そして、実験室中に、警告音が轟くように鳴り響いた。

 モニター画面の数値が急激に跳ね上がり、赤く点滅している。

「これは」

 リンネが画面に駆け寄る。「諏訪湖からの水圧が急上昇! セーフティバルブが作動しません」

 実験室の配管から、異様な振動音が響き始めた。地下水を流す管が、まるで生き物のように唸りを上げる。

「湖が」美咲が顔を上げ、天井を見つめた。「龍神様が、怒っている」

 佑也も感じ取っていた。九尾の血に流れる感覚が、北東の方角から押し寄せる異常な気配を察知している。諏訪湖の方向だ。

 佑也が、美咲と千夏に声をかける。

「ちょっと様子を見てくる」

 佑也は瞬時に判断を下した。九尾の力で空間を歪め、実験室から外へと姿を消す。

 セラフィスの上空に出た佑也の目に映ったのは、信じがたい光景だった。

 満月に照らされた諏訪湖は、まるで怒り狂う獣のように荒れ狂っていた。月光に照らされた湖面が不規則に盛り上がり、波が打ち寄せては引いていく。しかし水蒸気も水柱も立ち上ることはない――まるで湖そのものが、何かに抗うように波打っているようだった。

「これは、龍神様の」

 佑也は直感的に悟った。これは単なる自然現象ではない。諏訪湖に宿る龍神の力が、何かに反発しているのだ。

 実験室に戻った佑也は、緊張した面持ちで報告する。

「湖が荒れている。龍神様が怒っているみたいだ」

 実験室の壁を伝う振動が強まり、配管からは轟音が響き続けている。リンネの表情に焦りの色が浮かぶ。

 普段は冷静なリンネが、珍しく、声を張り上げる。

「圧力が限界値を超えています。このままでは」

 だが、フラムはもはやそんな警告など耳に入っていないようだった。彼の全身から赤白い光が漏れ出し、その瞳は狂気じみた輝きを放っていた。

 リンネは、その冷静とも言えるフラムを見て、制御パネルを見つめ直しながら、小さく呟く。

「熾凰儀式。アポピスの力と龍神の力が交わる時の力を制御し、具現化するもの」

 リンネは画面に映る数値の変動を見つめる。

「諏訪湖の水には龍神の力が宿っている。その力とアポピスの力をぶつけ合わせることで、より高次の力へと昇華させる」

 リンネは実験室を見渡す。武、理子、そして澪。三人の体から漏れ出す赤白い炎。そして予想外の存在、詩織の力も、プラスされている。

「アポピスのエネルギーの準備は整った。あとは」

 その時、リンネの目が大きく見開かれた。

「まさか、これがフラムの」


 軽く目を閉じていたフラムが、目を見開いたかと思うと、自らがアポピスになったかのように告げる。

「準備は整いました」

 フラムの声が響く。

「準備だと?」

 佑也が困惑を覚えながらも、フラムの声が禍々しく、響いて、しょうがない。

 そして、フラムは中央のプラットフォームへと歩み寄りると、その中心に立った。

 彼の周りから赤白い光が渦巻くように立ち上る。その圧倒的な魔力が室内を満たし、まるで重力そのものが歪むような感覚が広がる。

 次の瞬間、武、理子、澪、そして詩織の体が、意思とは無関係に宙に浮き上がった。フラムの魔力に引き寄せられるように、四人は彼の周りへと集められていく。

 フラムの声が静かに響く。

「さあ、リンネ」

とフラム。「熾凰儀式の発動です」

 リンネは一瞬躊躇したように見えたが、すぐに決意を固めたような表情を浮かべ、制御パネルに手を伸ばし、小さなボックスカバーを開けた。中には、赤いレバーがあった。

 リンネは、一つ、大きく息をすると、その赤いレバーを下げた。

 そして、カチッという小さな音が、実験室中に響き渡った。


 その瞬間、実験室全体が轟音とともに震動し始めた。

 諏訪湖の水が、巨大な配管を通って一気に流れ込んでくる。フラムの周りを取り巻く赤白い光が、まるで生き物のように蠢きながら広がっていく。

「アポピスの力よ、目覚めよ」

 フラムの声が響き渡る中、四人の体から放たれる赤白い炎が激しさを増していく。それは苦痛なのか、あるいは力の解放なのか、武と理子の表情が歪む。一方、澪は無表情のまま、ただ静かに炎を燃やし続けている。

 突如、実験室に引き込まれた大量の水が、フラムの放つ灼熱の力によって一気に蒸発を始めた。生み出された水蒸気は、建物の壁面を這う巨大なパイプへと吸い込まれていく。その轟音は、まるで巨大な生き物の咆哮のようだった。

 フラムが高らかに命じる。

「屋上へ。儀式の完遂には、月の光が必要だ」

 フラムの周りに渦巻く赤白い光が広がり、武、理子、澪、そして詩織の体を包み込む。まるで重力から解放されたかのように、フラムを中心に五人の体が宙に浮かび上がった。リンネもまた、その光に包まれ、ゆっくりと浮遊を始める。

 佑也は、フラムの声を聞くと、美咲、千夏に言う。

「俺たちも屋上に行こう」

 美咲と千夏が頷く。シロが千夏の両腕に飛び込んだかと思うと、美咲と千夏が、その手を、佑也の肩にかける。

 佑也が念じる。

 建物の壁面を伝う巨大なパイプからは、赤白い炎を帯びた水蒸気が勢いよく上昇を続けていた。

 やがて、フラム、、武、理子、澪、詩織、そして、リンネの姿が、セラフィスの屋上、上空に現れた。ついで、佑也、美咲、千夏、シロの姿が現す……。

 夜空に向かって放出された水蒸気は、やがて、何らかの姿を形作り始めていた。

 そして、それは、直ぐに分かった。

 巨大な一羽の不死鳥が生まれようとしていた。

 フラムの声が高らかに響く。

「今ついに、我が生涯を捧げた研究、人の魂と魔法の究極の融合が成ろう!」


 不意に、美咲の胸元のペンダントが輝きだした。

 メイがペンダントから叫ぶ。

「子供たちの魂が危ない! 七十年前と同じ。物凄い禍々しい魔力を感じる」

「子供たちってのは、武と理子のことか?」

「そう!」

「やべえじゃねーか」

 佑也は、思わず、口走るが、どうしていいかまるで分からない。

 七十年前には、メイがいて、子供たちの魂とともに、ペンダントに避難した。だが、今は……。

 その時、シロがニャーと鳴いて、歩み出した。

 目的地は、空中浮遊しているフラムの足元のようだ。フラムの周りには、武、理子、澪、そして詩織の体も浮遊している。

「危ない、シロ!」

 佑也が止めようと、さっとシロの元に駆け寄り、抱え上げようとする。

 千夏が叫ぶ。

「いいんです、佑也先輩!」

「えっ」

 佑也が動きを止める。

 千夏は、かれんの言葉を思い出す。

「でもまあ、連れて行ってしまえば、後は、シロが勝手にやります」

 しかし、千夏には、かれんの言葉を思い出すまでもなく、今は、シロの意図が、手に取る様に分かった。シロに、湖月邸に引き取られた子供たちの記憶があるように、千夏にも祖母から受けた聖花園の記憶があるからだ。

 毅然とした千夏の言葉に、佑也もまた、かれんの言葉を思い出していた。

「千夏さんは、この一か月で随分、逞しくなられました。千夏さんをお信じ下さい」

 佑也は、内心、呟く。

 そうだ千夏は、聖花園ののことを約十年は、いや、もしかしたら、生まれた時から考え続けてきたんだ。

 やがて、シロは、トコトコと走り出したかと思うと、

「にゃおー」

と、咆哮しながら、フラムに向かって、ジャンプした。

 すると、シロの姿は、見る見る巨大になって、フラムに対峙した。

 フラムが、平静を装う。

「ふむ、これが、日本の化け猫というものか。だが、何が出来る? まるで、魔力を、威圧感を感じないぞ」

 フラムの言葉に嘘はなかった。

 シロの意図は、フラムを攻撃することではないからだ。

 フラムの横の、澪がせせら笑う。

「どうした、化け猫。ここにお前の餌はないぞ」

 だが、武と理子と、詩織には、見えていた。シロの胸の辺りに、五名の子供たちがいることを。詩織にはもちろん、武と理子にも、それが、七十年前の子供たちだということが分かる。

 子供たちが、おいでおいでをする。

「そこは危ないよ。こっちに来なよ」

「おいで」

「そこは危ないよ」

 武と理子は、顔を見合わせて、頷く。

 武が、子供たちに向かって、聞く。

「でも、どうやって?」

「簡単だよ。走り幅跳びをするような感じで、エイッと」

「よし、分かった!」

 武は、詩織を振り返って、言う。

「詩織姉ちゃんも、行こう」

「でも、私は……」

 詩織はそう言いながら、澪を見る。

 澪の表情はせせら笑ったままだ。どうやら、シロの胸元の子供たちは、見えていないようだった。でも、私には見えている……。

 詩織は、武に向かって、頷いた。

「私も行くわ」

 武と理子が、嬉しそうに、頷く。

 武、理子、そして、詩織の三人は、シロの胸元に向かって、ジャンプした。

 詩織が呟く。

「さよなら、澪」


 武、理子、詩織の三人の魂を受け入れたシロの体は、今度は、見る見る間に小さくなっていく。セラフィスの屋上の地面に、また、元の姿に戻ったシロは、トコトコと、千夏の元に戻った。

 千夏がシロを、抱え上げる。

「やっぱり、お前は、化け猫でしたね~」

「にゃー」

「う~、こんなに可愛いのに」


 そして、遂に、空中では、不死鳥がその完全な姿を現した。

 不死鳥は巨大な翼を広げ、月光を浴びて輝きを増していった。その姿は諏訪湖の上空いっぱいに広がり、羽ばたくたびに金色の光が波紋のように広がっていく。

 不死鳥の瞳が、七海澪の赤白い炎と同じ色に染まっていった。

 その瞬間、不死鳥は大きく羽ばたき、無数の光の羽根を街中に振り撒いた。赤白い光を放つ羽根は、まるで雪のように静かに街を覆っていく。

 街では、光の羽根に触れた人々が次々と幻覚に襲われ始めていた。通りを歩く人々が足を止め、目を見開いて空を見上げる。子供たちは高熱に顔を赤く染め、「赤白い炎が見える」と叫び始めた。

 フラムの姿は、いつの間にか、屋上の一角に在った。

 フラムの足元には、澪、武、理子、そして、詩織の体が横たわっていた。その四人の体を、満足げにフラムが見渡す。 

 フラムは陶酔したように、不死鳥を見上げて、語り続ける。

「人の魂と魔法の究極の融合。これこそが、私が求めていた姿だ。純粋な魂を持つ者から始まり、やがて全ての人の魂がアポピスの力と融合する。人類は新たな次元へと進化を遂げるのだ」

 フラムの傍らには、リンネの姿があった。

 リンネは最初、フラムからこの計画を聞いた時、なんて、絵空事を、と馬鹿にしたものだった。――だが、遂に、フラムは成したのだ。


 不死鳥の瞳からは、さらに強い光が放たれた。

 街並みが揺らぎ、徐々に七十年前の姿へと歪み始める。新しいビルが古びた木造建築に、舗装された道路が土の通りに変わっていく。そこかしこに聖花園の面影が浮かび上がり、現実と過去が混ざり合っていく。

 混乱に陥った人々の中で、特に子供たちの反応が強かった。セラフィスに入院している子供たちは、まるで共鳴するように赤白い光を放ち始める。その純粋な魂が、不死鳥の力を更に増幅させていく。

 フラムは歓喜に満ちた声で続ける。

「見事です。七十年前、私は人の魂と魔法を融合させる実験に失敗した。だが今、澪という完璧な触媒を得て、ついに究極の形へと昇華する。この諏訪の街全体を、魂と魔法が溶け合う実験場とするのだ」

 街はますます歪んでいく。人々は現実と幻想の境界が曖昧になっていることにも気付かず、まるで七十年前からそこにいたかのように振る舞い始めていた。遠くで汽車の警笛が響き、豆腐屋の自転車がチリンチリンと通りを行く。そこかしこで赤白い炎の幻影が揺らめいている。

 フラムの声が高らかに響く。

「やがて全ての魂が、アポピスの力と一つとなる。人々は感情という束縛から解き放たれ、純粋なエネルギーとして進化を遂げる。これこそが、私が求め続けた究極の姿なのだ」

 不死鳥は更に羽ばたき、より多くの光の羽根を街に降り注いでいく。

 その光は、まるで七海澪の持つ冷たい赤白い炎のように、人々の魂の奥底まで染み渡っていった。街全体が、フラムの壮大な実験場と化していく中、諏訪の夜空には金色に輝く不死鳥が君臨し、その姿は月光を浴びてますます神々しさを増していった。


 セラフィスの屋上から諏訪湖を見渡した美咲は、深く息を吸った。目の前では巨大な不死鳥が羽ばたき、金色の光を街中に降り注いでいる。

 美咲は両手を前に掲げ、まるで諏訪湖の水を掬うような仕草をする。

「水の力、月の力、そして龍神様の力――」

 彼女の唱える言葉に呼応するように、諏訪湖の水が青い光を放ち始める。不死鳥の放つ金色の輝きに対し、それは深い白みを帯びた神々しい光だった。遠く離れた湖面から立ち昇った光は渦を巻き、やがて九つの水龍となって空へと昇っていく。

 美咲は声を振り絞る。

「私たちの世界を、勝手に歪ませない!」

 美咲の命令と共に、水龍たちは唸りを上げる様にして飛翔し、不死鳥に向かって突進する。水と炎が激しくぶつかり合い、夜空に閃光が走る。不死鳥は金色の羽根を広げ、水龍たちを弾き返そうとするが、九つの水流は諦めることなく、次々と不死鳥に襲いかかっていく。


 セラフィスの上空で、一人、竹ぼうきにまたがっていたノアが呟く。

「なんだか、凄いことになって来たねえ。フラムは、不死鳥を生み出しちまうし。あの巫女もやるじゃないかい。七十年前の巫女の孫だとか聞いたけど。血筋かねえ」

 すると、突然、目の前に、着物姿の九尾の狐が現れた。

 ノアが、ギョッとする。

 ギョッとしたノアに向かって、九尾の狐が、呟くように言う。

「何をびっくりした顔をしてるんだい。メイを助けるんだろう?」

 ノアが、こっくり頷く。 

「さあ、愈々だよ! ついておいで」

 九尾の狐は、そう言うや否や、セラフィスの屋上の美咲の傍に、降り立った。ノアも続く。美咲が、九尾の狐に視線をやる。

 九尾の狐が言う。

「私のことは気にしないでいい。まあ、今の貴女にはそんな余裕ないだろうけど」

 九尾の狐は、続ける。

「ちょっと、ペンダントを借りるよ。何、心配しなくていい。霧空大社の巫女の前で約束した話さ。貴女も、私のことは信用してないだろうが、あの巫女のことは信用してるんだろう? まあ、黙って、フラムとの戦いに集中してればいい」

 そう言うや否や、九尾の狐は、右手の親指と中指を弾いて、指パッチンした。

 すると、美咲の胸元からは、ペンダントが浮き上がり、チェーンも美咲の頭をくぐり抜けて、ペンダントは、九尾の狐の左の掌に納まった。

 ノアが、思わず、メイに呼びかける。

「メイ、愈々だよ!」

 ペンダントが、金色に輝く。

「愈々って何がよ?」

「何がって、メイをペンダントから出してやるに決まってるじゃないか!」

「でも、どうやって?」

 そう聞かれて、ノアは黙り込み、九尾の狐に尋ね直す。

「でも、どうやって?」

 九尾の狐がフフンと鼻を鳴らす。

「私しゃ、この話を聞いた時から、何か引っかかってたんだ。それで、この地を色々歩いて、一つ、仮説を立てたんだ」

「仮説?」

「龍神がメイを封印した、アンタらは頭からそう思っている。でも、本当にそうなのかい?」

 ノアが、モゴモゴと口走る。

「でもだって、七十年前、確かに。私も、その現場にいたんだ」

 九尾の狐は、首を横に振りながら、言う。

「メイを封印したのは、龍神の力と、そして、アポピスの力なんじゃないかい?」

「あっ」

 ノアが思わず、声を挙げる。――それは、確かに、その可能性はある。

「つまり?」

 九尾の狐が、龍神の水龍と不死鳥の口から吐き出された火矢がぶつかり合う地点を見やる。ノアも、九尾の狐の視線の先を見て、ゴクリと唾を飲む。

「あの激突している地点にペンダントを投げ込むと?」

 九尾の狐が、フフンと微笑する。

「それしかないだろうねえ。他にアイデアがあれば、言ってみい?」

 ノアは黙り込む。

 再び、ペンダントが輝いて、メイが言う。

「……でも、怖い」

 九尾の狐が、鼻で嗤う。

「何を生娘みたいなことを」

 ノアがようやく言葉を絞り出す。

「でも、確証はないんだろう?」

「だから、この前も言っただろう? 龍神の封印の解除? そんな、龍神本人だって分からないものを分かってる者がいると思う方がおかしい」

 ノアが、グッと押し黙る。

 ノアが、メイに言う。

「メイ、アンタのことだ。アンタが決めな!」

「……私は、怖いなあ」

 九尾の狐は、ノアに言葉を投げる。

「まあ、確かに、先日までならそうだった。メイが決めることさ。でも、今は違う。何せ、この九尾の狐様の契約が絡んでるんでね」

 ノアが、九尾の狐の意図を察して、口走る。

「あっ、ちょっと待て!」

 メイが声を挙げる。

「止めて!」

 九尾の狐は、二人の声を無視すると、指パッチンしながら、ペンダントを空中に向かって、放り投げた。

 すると、ペンダントは、自ら意思を持つ者かのように、龍神の水龍と不死鳥の火矢がぶつかり合う地点に入り込んだ。ペンダントは、龍神の水龍と不死鳥の火矢のせめぎ合いを審判するものかのように、空中に停止したように見えた。

 その様子を、ノアと美咲と佑也、そして、千夏が固唾を飲んで見守る。

 九尾の狐も、興味津々と言った形で見守る。

 そして、遂に、しばらくして、ペンダントは、龍神の水龍と不死鳥の火矢の審判が終わったかのように、再び、セラフィスの屋上の美咲の足元に戻って来た。

 一同が、そのペンダントを見守る。

 だが、しばらくしても、ペンダントは沈黙したままだった。

 すると、ペンダントが金色に輝いて、メイの泣き声が聞こえて来た。

「えーん、怖かったよう」

 ノアが、九尾の狐に、喰ってかかる。

「なんだい、なんだい、御大層に偉ぶって。何も起きないじゃないかい!」

 九尾の狐は、怪訝な顔をしながらも、ノアに取り合わず、

「返しとくよ」

と、言うと、右手で指パッチンを二度して、ペンダントを、美咲の胸元に返してしまった。

 千夏が、興味深げに、九尾の狐の手元をみる。

 ノアが呟く。

「ちぇっ、そんな子供だましを」


 龍神と不死鳥の戦況を見つめている、佑也が呟く。

「駄目だ、水龍が負けている」

 千夏が視線をやると、徐々に、水龍が、不死鳥の火矢に押され始めていた。

 佑也が、美咲に声をかける。

「大丈夫か? 美咲」

「駄目みたい。アポピスの力が思ったより強い、というより、あの不死鳥は、龍神様とアポピスの力の融合だから、どうも、分が悪いみたい」

「そうか」

 一同が黙り込んでしまったと思ったら、シロが、千夏の足元から、ノアの足元に駆け寄って、

「にゃー」

と、鳴いた。

「何だい、この猫は。ああ、さっきの化け猫かい」

 その様子を見ていた、九尾の狐が、ククッと笑い出した。

「そういうことかい」

 ノアが、ムッとして、九尾の狐に言う。

「今度はなんだい?」

「ノアよ、お前さんには、見えたのかい?」

「何がさ?」

「先程、化け猫の時のシロの胸元に向かって、子供たち二人と詩織がジャンプするのがさ」

 ノアが、きょとんとする。

「何を言っているんだい」

「私には見えました~」

と、千夏が言う。

「俺にも見えたぜ。シロが、ここに来た理由はそういう理由かと。武と理子の魂を守るために、ここに来たんだってな。千夏と美咲と話し合った」

 九尾の狐が、ノアに向かって言う。

「ノアよ。そういうことだ」

「ふん、ガキ二人と詩織という少女が、その化け猫に避難したからなんだっていうんだい?」

「あれを見てみな」

と、九尾の狐が、屋上の一角を、指さす。そこには、澪、詩織、武、理子の身体が横たわっていた。

 九尾の狐が続ける。

「つまり、シロに飛び込んだのは、魂ってことさ。――フラムの言う、魂と魔力の融合なんて出来てない、ってことさ」

 ノアが、ちょっと、考えて、言う。

「でも、七海澪はどうなる? 七海澪の魂は、あの不死鳥と融合したんじゃないのかい?」

「七海澪はそうかもしれない。だがねえ、七十年間もアポピスの赤白い液を体内に注射してきたんだ。カウント外でもいいんじゃないのかい?」

 ノアがグッと詰まりながらも、声を絞り出す。

「フラムの実験はそういうことかもしれない。成功したんだか失敗したんだか、判定中でいいさ。だが、ああやって、水龍が不死鳥の火矢に比べて、劣勢なのは確かじゃないかい」

 ノアの言う通り、水龍の勢いは徐々に後退しているのは事実だった。

 不意に、千夏が、声を挙げた。

「あっ、私、九尾の狐さんが、おっしゃりたいことが分かった気がします~」

 九尾の狐が、ほう、と目を丸くする。

「青蝶堂の娘、言うてみい?」

 千夏が言う。

「魂だ何だは、とりあえず、置いておく。……すると、不死鳥の本体は、あくまで水蒸気がベースってことですよね?」

 九尾の狐が、感心したように呟く。

「ふむ、そういうことだ」

 佑也が、千夏に訊く。

「ということは?」

 千夏が佑也に言う。

「佑也先輩、北アルプスの白馬岳に行ってください!」

 美咲が叫ぶ。

「佑也くん! 時間がない!」


 佑也は千夏の言葉の意味を理解し、すぐさま空間を歪めた。

 一瞬の光の乱れと共に、佑也の姿が消える。

 次の瞬間、佑也は白馬岳の山頂に立っていた。眼下に広がる雪原を前に、彼は九尾の力を解き放つ。まるで巨大な布を掴むように、両手を大きく広げ、空間そのものを掴み取る。

 佑也が呟く。

「雪も、氷も、ちょっと貰っていくぜ!」

 もう一度空間が歪み、佑也は大量の雪と氷を伴ってセラフィスの屋上に戻った。頭上では金色の不死鳥が、美咲の水龍たちを次々と蒸発させていく。

 佑也が叫ぶ。

「美咲! この雪と氷を、水龍に!」

「有難う!」

 佑也が、水龍に向かって、雪と氷の塊を投げる。

 そして、美咲が、それに合わせる様に、両腕を大きく開くと、前方に投げる様な仕草をした。

 龍神の力で操られた九つの水龍が、今度は白馬岳の雪と氷と融合していく。

 冷気を帯びた水龍は、不死鳥の放つ熱を中和しながら、その姿に迫る。

 不死鳥が、徐々に、苦悶の叫びを上げはじめた。

 水蒸気が、冷やされて、水に戻っているからだ。

 不死鳥からすると、自分の体が溶けていく。

 不死鳥のその華麗な姿は崩れ、夜空に消えていった光の羽根が、一斉に冷たい水滴となって降り注ぐ。

 街を覆っていた七十年前の景色が、現実の姿へと戻っていく。

 セラフィスの屋上では、不死鳥は完全にその姿を崩壊してしまった。赤白い炎は、離散してしまい、夜空には満月だけが、静かに輝いていた。

 美咲が、安堵の声を漏らす。

「良かった……」


 すると、千夏の足元に戻っていたシロが、大きく息を吸い込んだかと思うと、徐々に、その姿を大きくしていった。

 武と理子と詩織の魂を吐き出そうというのだ。

 九尾の狐が叫ぶ。

「シロ! 未だだ!」

 シロは、怪訝な顔をしながらも、元の小さな姿に、その姿を戻した。

 千夏が、九尾の狐に聞く。

「どうしてですか? 子供たちの魂を戻さないと」

 佑也と美咲も、物問いたげに、九尾の狐を見る。

 九尾の狐が、珍しく、怖い顔をして、言う。

「不死鳥が子供騙しだってことは分かったろう?」

 三人が頷く。

「あんなモノの為に、フラムが、再び日本に来たと思うかい?」

 佑也と美咲が、グッと唇を噛み締める。

 九尾の狐が続ける。

「フラムの姿はどこだい?」

 そう言われて、佑也と美咲が、先程まで、屋上のフラムがいた場所をみやると、フラムとリンネの姿がない。あるのは、澪、詩織、武、理子の体が横たわっているだけだった。四人とも意識がないようだった。

 不意に、千夏が、上空を、不死鳥がいた辺りを、指さした。

「あっ、あれ、見て」

 佑也が見上げると、不死鳥が消えた空間で、赤白い光の粒子が舞い散っていた。月明かりに照らされ、まるで星屑のように瞬きながら、夜空に広がっていく。

 だが次の瞬間、その光の粒子たちが一斉に動き始めた。まるで引き寄せられるように、建物の外壁を覆う巨大なパイプへと流れ込んでいく。

 美咲が呟く。

「パイプが光を吸い込んでる」

 美咲の声に、佑也も目を凝らした。渦を巻きながら収束していく赤白い光は、確かにセラフィスの壁面を這うパイプの中へと吸収されていった。最後の光が消えると、パイプは不気味な唸り声を上げた。不死鳥の力はパイプの中へと吸い込まれていったのだ。


 地下実験室に、フラムと共に、場所を移したリンネの胸の内では、決意が固まっていた。花火大会の夜の、佑也と美咲との魂の触れ合い。アポピスの力を粗略に扱い、神への畏怖を知らぬフラムの傲慢さに対する反発。

 そして、化け猫シロが見せた真実。化け猫の、武と理子の魂を守ろうとする純粋な意志。フラムには、シロの胸に飛び込む、武、理子、詩織の魂が見えていなかったに違いない。いずれにしろ、魂と魔力の融合という実験は失敗ではなかったのか?

 

 巨大な円形プラットフォームが実験室の中央に鎮座している。

 その上に据え付けられた二つの特殊装置――武と理子のためのカプセル――が、赤白い光を放っていた。天井まで伸びる無数のパイプが、まるで巨大な蜘蛛の巣のように張り巡らされている。

 フラムが宣言する様に言う。

「さて、準備をしましょうか」

 彼は白衣の裾をひるがえし、プラットフォームの中央へと歩み寄った。

 何を思ったか、フラムが、強引な行動に出る。

「カプセルはもう必要ありませんね」

 その言葉とともに、フラムは躊躇なくカプセルを剥ぎ取った。金属が軋む音が実験室に響き渡る。露出した配管から、赤白い液体が滴り落ちる。

「先生、それは……」

 リンネの声に、フラムは優しく微笑んだ。それは、いつものフラムらしい温和な表情だった。だが、その目には異様な輝きが宿っている。

「直接注入の方が効率的だからね。面倒な手順は省略させてもらおう」

 フラムは無造作に、片方の手を、武のカプセルが配置されていた床に滑らせ、もう片方の手を、理子のカプセルが配置されていた床に滑らせた。

 だがしかし、リンネはもちろん、気づいていなかった。

 フラムが、それぞれの手で、それぞれ二本の管を手にしたことを。

 一本の管は、武や理子にも届けた赤白い液体を。そして、もう一本の管は、不死鳥が倒された場合に備えて、不死鳥から放出されたエネルギーを吸収するために、フラムが密かに設置した管だったのだ。

 時は熾凰儀式の失敗から、わずか数分後。建物の壁面を伝う巨大なパイプからは、まだ赤白い炎を帯びた水蒸気が勢いよく上昇を続けていたが、徐々に、不死鳥のエネルギーに押し返される形で、今は、パイプの流れは完全に上から下へと変わっていた。

 フラムが、熾凰儀式の失敗、いや、実験自体は成功したと思っているのだろう。やや上機嫌な声で、リンネに告げた。

「リンネ君、エーテリウムの注入を頼むよ」

 その声に、リンネは静かに頷いた。

 制御パネルに向かう彼女の指先が、わずかに震えている。――リンネはリンネで、実験システムに、ある細工をしていた。武と理子、今は、フラムの元に届けるエーテリウムを冷却してしまおうというのだ。冷却された液体は効果を失い、ただの生理食塩水と同様となる。

 リンネは、細工を作動させるスイッチを、震える手で押す。赤白い液体を冷却するシステムが、作動するのを確認する。一呼吸置いてから、注入スイッチを押す……。

 フラムは、不死鳥のエネルギーとエーテリウムを取り込むことで、魔力の増大を期待する……。

 リンネは、生理食塩水を注入されただけのフラムが、怪訝な声を挙げることを予想する。そして、その後は、フラムと対峙しなければならない……。

 だが、事態は、フラムも意図しない、リンネも意図しない、予期せぬ方向へと転がり始めた。

 不死鳥から解放された大量のエネルギーに押し返される形となった水蒸気が、冷却された配管内で渦を巻き始める。熱と冷気の極端な温度差が、新たな力の流れを生み出していく。システムの警告音が鳴り響く中、制御パネルの計器が次々と振り切れていく。

「素晴らしい……!」

 フラムの声が歓喜に満ちている。想定していたよりも、物凄い魔力の増大を感じるからだ。フラムの体が赤白い光に包まれ始めた。リンネの細工が引き起こした温度差が、逆説的に赤白い炎の力を増幅させている。フラムの体内で、アポピスの力が暴走的な共鳴を始めたのだ。

 リンネが、異常事態に気づいて、叫ぶ。

「先生、やめてください!」

 リンネの叫びも空しく、フラムの姿が光の渦の中に溶けていく。実験室全体が赤白い輝きに包まれ、天井を這うパイプが轟音を立てて震動する。あらゆる配管から解き放たれた赤白い炎が、まるで意志を持つかのようにフラムへと収束していく。

 制御システムの警告音が甲高く響く実験室で、かつてのフラムの姿が一瞬、闇に溶けた。次の瞬間、赤白い光が渦を巻いて凝縮し、そこにアポピスの力と完全に融合した存在が姿を現した。リンネの抵抗は、皮肉にもフラムの魔王化を完遂させる結果となったのだ。


 諏訪湖からの冷たい風が、セラフィスの屋上を吹き抜けていた。佑也、美咲、千夏の三人は、突如として建物全体を揺るがす振動に身を寄せ合った。

「これは」

 佑也の声が震える。足元から伝わる振動は、まるで巨大な生き物の鼓動のようだった。

 暗雲が月を覆い始める中、セラフィスの屋上上空に巨大な人影が浮かび上がった。それは人の形を留めていながら、明らかに人ではなかった。フラムの姿は赤白い炎に包まれ、その瞳は冷たく燃え上がっていた。アポピスの力と完全に融合した姿は、まさに魔王と呼ぶにふさわしかった。

「フラム先生……」

 美咲が震える声で呟く。美咲の目に映るフラムからは、もはや温厚な先生の面影は消え失せていた。フラムの周りを渦巻く赤白い炎は、まるで巨大な蛇が舞い踊るかのように蠢いていた。その炎は時折、不気味な形相の巨大な蛇の顔となって三人を睨みつけた。

「うー、私にも分かります~。これはやばいですよ~」

 千夏がうめき声をあげる。

 三人の顔は、フラムの人を超越した雰囲気に、すっかり、顔面蒼白になっていた。

 いつの間にか、建物の振動は納まっていたが、それでも、三人は、自ら踏みしめる大地が、セラフィスの屋上が、崩れ落ちる感覚に捕らわれていた。

 フラムの周囲の空気が歪み、夜空に浮かぶ満月までもが波打って見えた。

「七十年。待ち続けた時が、ついに結実する」

 フラムの声が、重く天空に響き渡る。その声は人のものでありながら、どこか蛇を思わせる不気味な響きを帯びていた。

「魂と魔法の究極の融合、私がその完成形だ」

 フラムは両腕を広げ、その瞬間、彼を包む赤白い炎が紅炎へと変化し、そして、爆発的に膨れ上がった。

 千夏が思わず、美咲の後ろに身を隠すようにした。 

 フラムの姿は今や、巨大な紅炎の渦の中心で、まるで全てを支配する魔王のように君臨していた。月明かりの下、フラムの瞳が不気味な輝きを放つ。その視線は三人の魂を貫くように冷たく、そこには人としての温もりは微塵も残っていなかった。

「これが、七十年の実験の果てなのね」

 美咲の声には悲しみが滲んでいた。美咲の目には、かつて慕っていた温かな先生の面影が、紅炎の中に消えていくのが見えた。

 魔王と化したフラムが紅炎を纏って空中に浮かんでいた。そして、フラムが何やら呟くと、その紅炎は、火蛇となって、美咲たちを襲う。

 フラムに対峙するように、美咲は両手を前に掲げ、青白い光を放つ水月結界を展開していた。結界は月光を受けて水晶のように輝き、美咲たちを優しく包み込んでいる。

「龍神様、どうか力を……!」

 美咲の祈りに応えるように、諏訪湖の水面が蒼く輝き始めた。湖から立ち昇った九つの水龍が、月光に照らされて神々しい青白い光を放ちながら、フラムへと襲いかかる。

 しかしフラムは片手を掲げ、その周りを巨大な火蛇が渦巻くように現れる。水龍と火蛇が激突する度に、蒸気爆発が起こり、夜空に轟音が響き渡った。

「そんな程度の力で、私を止められると思うのか?」

 フラムの冷笑と共に、より巨大な火蛇が結界に向かって突進する。美咲は必死に両手を突き出し、水月結界を保とうとするが、衝撃で膝が震え始めた。

 佑也が、傍で、戦況を見守っている九尾の狐に声をかける。

「おい、九尾さんよ。何とかならないのか?」

 九尾の狐は、水月結界越しにフラムを見つめている。

「ならんな」

「何だい、御大層な割には、九尾さんも、大したことねーな」

「勘違いするな。わらわが全力を尽くせば、あのフラムとて、打ち倒せぬではないわ」

「おいおい、じゃあ、やってくれよ」

 九尾の狐が、フフンと鼻を鳴らす。

「だから、最初から言っておるだろう。今回の戦い、わらわは参戦せぬと」

 ノアが、うっぷんを晴らすように、口を挟む。

「無駄無駄。九尾殿はそういうお方なのじゃ」

 九尾の狐が、ちょっと、考えて、言う。

「だが、案じるな。見たところ、フラムのあの魔王と化した状態は、六時間は持たぬ。まあ、二時間程度だろう」

「何でだ?」

 九尾の狐が、誰にともなく、嘲笑する。

「そもそも人は神に成れぬものだ。あのフラムは、恐らく、先程、壁のパイプに引き込まれた不死鳥の残存エネルギーと実験で使う赤白い液体を、急激に体に同化させた結果であろう。どうだ? 考えただけで、体に悪そうではないか?」

 佑也は、九尾の狐の説明に納得していた。何しろ、今のフラムの状態は、常軌を逸している。九尾の狐が何百年生きているか分からぬが、その見立ては、佑也には、正しいように思えた。

 佑也が、九尾の狐に言う。

「ということは、つまりは、この場は、撤退か?」

 九尾の狐がフフっと笑う。

「話が早くていい。一時撤退だ。わらわならそうする」

 佑也は、隣の千夏と顔を見合わせる。

 千夏も頷く。

 佑也は、美咲に声をかける。

「おい、美咲、聞こえてたろう。撤退だ。合図をしたら、俺の肩に掴まれ」

 だが、しかし、美咲の答えは、意外なものだった。

 そして、美咲の答えに迷いは感じられなかった。

「私は戦うわ。今、ここで」

 佑也が、苛っとして、尋ね返す。

「どうしてだ?」

「理子ちゃんと武君の身体はどうなるの?」

 佑也は、思わず、あっと叫んだ。

 そうだ。武と理子の身体は、澪と詩織の身体と一緒に、屋上の隅に横たわったままだ。逃げるにしても、フラムが、みすみす、自分達が武と理子の身体を回収することを許すとは思えない。

 佑也は、内心、自分を恥じた。その苛々を、九尾の狐にぶつける。

「九尾さんよ、武と理子の身体はどうなる?」

 九尾の狐が、さも当然の様に言い放つ。

「捨て置け」

 それは佑也の予想した答えだった。

 その時だった。

 一匹の火蛇が、水月結界を突破して、美咲の胸元に喰らいついた。

 喰らいついた先はペンダントだった。

 ペンダントが弾け飛ぶ。

 美咲が叫ぶ。

「佑也君。ペンダントをお願い!」

「おう!」

 佑也は、今は、美咲の判断に任せるしかなかった。

 中庭にでも落ちるかと思われたペンダントだったが、まるで生き物かのように、高速で浮遊した。佑也も瞬間移動で、追いかけるが、佑也の目的地が、ペンダントの元へ、なので、埒が明かない。

 そして、ペンダントは、山中の池に落ちた。その池は、水月神社の庭園にある池だった。

 佑也が、水月神社の池の畔に、たどり着いたと思ったら、池の中から、一人の老婆が姿を現した。神崎咲子だった。咲子の胸元には、今さっき、佑也が追いかけていたペンダントが、月の光を受けて淡く輝いていた。

 咲子は、ゆっくりとセラフィスの方角を見上げる。遠く夜空に紅炎が渦巻き、その中心でフラムの姿が浮かんでいるのが見えた。水龍と火蛇が激突する光景に、七十年前の記憶が重なる。

 咲子が、呑気とも思える感じで呟く。

「また、フラムさんですか。本当に人騒がせな人ですよ」

 咲子は池に目を落とした。月光に照らされた水面に、皺の刻まれた自分の顔が揺らめいている。白髪交じりの髪、年老いた姿に、思わずため息が漏れる。

「ああ、情けない。こんな姿では」

 佑也は、目の前の老婆に、勢い込んで確認する。

「美咲のおばあさんの、咲子さんか?」

 咲子は、たった今、佑也に気が付いた様に、応える。

「ええ、そうですよ」

「状況は分かるか?」

「そりゃあ、分かりますよ。龍神様の巫女ですからねえ」

 佑也が、大きく頷く。

「俺の肩に掴まれ。美咲の元まで、一っ飛びだ」

 咲子は、佑也をしげしげと眺めて、言う。

「便利な時代になりましたねえ」


 佑也と咲子が、セラフィスの屋上に戻った時、そこには魔女の姿となったリンネとノアが立っていた。

 リンネの姿は、研究員の白衣から一変していた。尖った黒い帽子の下から覗く青色の髪が夜風になびき、深い翡翠色の瞳が月明かりに輝いている。漆黒のドレスは裾で緩やかに揺れ、その腰には銀の飾り帯が月光を反射していた。

 リンネとノアは美咲の背後で向かい合うように立ち、両手を高く掲げている。その指先から銀色の光が糸のように紡ぎだされ、空中で複雑な幾何学模様を描いていく。魔法陣は美咲の水月結界を包み込むように、ゆっくりと回転していた。

 リンネが叫ぶ。

「これ以上は持たないわ!」

 叫んだリンネは、ようやく、佑也と咲子に気づいた。

 佑也とリンネが、視線を交わす。

 佑也がボソリと呟くように言う。

「いいのか? フラムを裏切って」

「私にも見えたのよ。武君と理子ちゃんが化け猫に飛び込むのが」

「……そうか、助かる」

 不意に、千夏が、大きな声をあげた。

「あっ、見て下さい。水龍と水月結界が」

 佑也の目が見開かれた。

 あまりの変化に、思わず息を呑む。今まで押されていた戦況が、一変していく様が目の前で起きている。

 水月結界の輝きが、まるで別物のように変容していた。月光を受けた結界の表面が、より深い青みを帯び、その厚みも増していく。まるで諏訪湖の底から湧き上がる清水のように、結界全体が生命力に満ちていった。

 水龍たちも姿を変えていた。今までの九体の水龍が、より鮮明な輪郭を帯び始める。体躯は一回り大きくなり、鱗一枚一枚が月光を浴びて光っていた。その動きも、より力強く、しなやかになっていた。

 フラムの放つ火蛇が水龍に噛みつくが、今度は蒸発することなく、水龍が火蛇を押し返していく。紅炎が、清らかな水の力の前に、徐々に押し戻されていった。

 形勢変化の理由は言うまでもない。

 佑也が美咲に目をやると、その光景に息を呑んだ。

 美咲の背後に、老婆姿の咲子が、まるで二人羽織のように寄り添っていたのだ。だが、美咲に比べて、咲子が頭一つ上にあるいうことは、咲子は浮遊しているのだろう。

 二人の周りには、淡い光の粒子が舞っている。咲子の髪が、まるで水中にいるかのようにゆっくりと揺らめいていた。その表情には、慈愛に満ちた微笑みが浮かんでいる。

 咲子の手が、美咲の両手に重なるように伸びていた。祖母と孫、二人の巫女の力が、今、一つに結ばれていた。

 フラムに怪訝な顔が浮かぶ。

 それは、水龍と水月結界の威力が増したからだ。だが、フラムに咲子が見えているかは、佑也には、無論のこと、分からない。

 やがて、美咲が叫ぶ。

「リンネさん、ノアさん、有難う! もう大丈夫」

 リンネとノアは、顔を見合わせて、頷き合う。美咲の言葉に嘘はなさそうだった。咲子の加勢で、フラムと充分に五分にやり合えそうだった。

 魔力は決して、無限ではない。リンネとノアは、魔法陣を解いた。

 一同が、ホッと息をついたと思ったら、九尾の狐の声が響いた。

「ようやく、役者が揃ったねえ」

 佑也が聞く。

「役者って何の役者だ?」

「決まっているじゃないかい。メイの封印を解く役者さ」

 ノアが声を荒立てる。

「もう、アンタの言うことなんて聞かないよ!」

 九尾の狐が、鼻を鳴らして、嗤う。

「安心おし。私しゃ、もう手を出さないよ。逆恨みみたいなことされても、馬鹿らしいからねえ。但し、これからのアドバイスでもって、契約完了とさせて貰う」

 ノアが、笑いながら、言う。

「何だい、随分、調子のいい話じゃないか。メイの封印を解くまでが、アンタの仕事だろうが」

「それでもいいさ。私にやれと言うなら、私がやるさ」

「やるって、また、ペンダントを投げろって言うんだろ? 水龍と火蛇の間に」

「ああ。それしかないね。理屈はさっき話した通りさ。今度は絶対さ」

 ノアが、可笑しくってしょうがない、という風に、笑い出す。

「今度は絶対、とは、よくいったものだよ」

 すると、意外な人物が口を挟んだ。

 咲子だった。

「私がこうして、いられるのも、あと僅かだよ……」

 美咲が、哀しそうに、言う。

「そんな、おばあちゃん、そんなこと言わないで」

「美咲や、美咲にも分かっているんだろう。私がもういなくなるって」

 美咲が黙り込んでしまう。

「そうなのか、美咲?」

と、佑也が聞くが、美咲は答えない。

 一同がシーンとしてしまった中、咲子が話を続ける。

「私はずっと考えてたんだよ。さっき、ペンダントが、水月神社の湖に落ちて、私がこうして蘇ってから、ずっとね。どうして、神様は、この場合の神様は、龍神様じゃなくて、天照大御神様ってことだけどね、どうして、こうして、私に時間をくれたんだろうって」

 千夏が、怪訝な声を出す。

「それはそうやって、美咲さんを助けるためじゃ」

 咲子が、ゆっくり、首を振る。

「それは違うよ、千夏ちゃん。神様は争いには、口を出さない、手を貸さないものさ。それをやり出したら、収集がつかなくなるからねえ」

 千夏が、無邪気に、言う。

「でも、今、現に龍神様が戦っているじゃないですかあ~」

「龍神様は、あくまで、その地の者の為に戦う、それも、巫女の力を通してね。巫女が存在してるのは、龍神様の力を具現化する為もあるが、そもそも、その争いに、龍神様が関わっていいかを、自然の理で決める為でもあるのさ」

 千夏は、適切な反論が思いつかなかったらしく、黙り込んでしまった。

 咲子が続ける。

「ちょっとだけ、昔話をさせて貰うよ。私は、二十歳で伝説の巫女なんてもんに、祭り上げられてしまって、生きづらくてしょうがなかった。生きづらいだけならいいけど、挙句には、人によっては、明らかに、化け物を見る様な目で私を見てね。慣れないうちは、夜、一人で泣いたもんさ」

「……おばあちゃん」

 美咲の呟きが、一同に響く。

 咲子が続ける。

「でもね、私にはメイがいた。だから、私は長生きできたのさ。メイが私の一番の親友さ。もう分かるだろ? どうして、神様が私に慈悲をかけてくれたか。それはメイの封印を解くためさ」

 ノアは、鼻をグスングスンさせながら、咲子に訊いた。

「咲子はどうしたらいいと思うのさ?」

「私は、九尾の狐さんの言う通りだと思うよ。今の空気が、全体の空気が、七十年前と同じなのさ。封印が解かれるとしたら、今しかない。本当、そう思うよ」

 九尾の狐が、得意げに声を出す。

「ほーら、見たかい。当事者の一人がこうやって、太鼓判を押してるんだ。今度こそ、絶対さ」

 ノアが、ペンダントのメイに話しかける。

「メイ、どうすんだい?」

 ペンダントが金色に輝いて、メイの声が聞こえてくる。

「うん、やってみる!」

 やってみる、とは、水龍と火蛇の間に、ペンダントを投げてくれ、という意味だろう。


 ――約十分前。

 すると、意外な人物が口を挟んだ。

 咲子だった。

「私がこうして、いられるのも、あと僅かだよ」

 美咲が、哀しそうに、言う。

「そんな、おばあちゃん、そんなこと言わないで」

「美咲や、美咲にも分かっているんだろう。私がもういなくなるって」

 美咲が黙り込んでしまう。

「そうなのか、美咲?」

と、佑也が聞くが、美咲は答えない。

 佑也は、内心、青ざめた。

 おいおい、ちょっと待て。ばあさんが来て、ようやく、戦力が拮抗したのに、ばあさんがいなくなったら、また、劣勢、ジり貧じゃねーか。

 今も現に、あくまで拮抗しているだけで、優勢になったわけじゃない。

 フラムと美咲のちょうど中間地点で、水龍と火蛇がやりあってる。

 佑也は知らず知らず、フラムと龍神の戦況をよく見るために、美咲たちから、距離をとって、屋上のフェンスの方に身を移していた。

 フェンスに身体がぶつかって、思わず、身体がよろける。

 よろけて、フェンスに捕まって、諏訪湖が目に映った。

 今宵は満月で、月の道が諏訪湖に出来ていた。だが、満月でも月の道は、佑也には寂しく感じさせた。その寂しさは、佑也に、水無月かれんを思い出させた。

「佑也」

 佑也が振り返ると、そこに、リンネの姿があった。「どうしたの、こんな所で?」

 佑也は、軽く首を振って、現実に戻らねば、と内心呟く。

「リンネ、ばあさんがいなくなったら、どうすればいい? また劣勢になるだろう?」

「そうね」

と、リンネ。「咲子がいなくなるのは、まずいわ」

「まずいが、どうしようも出来ないだろう?」

 二人は黙り込む。

 佑也は、天空のフラムに視線をやる。

 フラムの周りには、紅炎が渦巻いていて、見ようによっては、フラムをがんじがらめにしているとも言える。だが、時折、炎が見せる不気味な形相の巨大な蛇の顔は、おぞましい、といしか言い様がない。

 そして、その中心にいるフラムの顔は、喜びに満ちているように、佑也には見えた。

「あれが全能感ってやつかねえ」

「そうね」

 リンネもフラムを見やって、少し、寂しそうに言う。

「そういや、九尾の狐が言ってたんだけどさ」

 佑也は、九尾の狐の言葉を伝えた。「『そもそも人は神に成れぬものだ』って。フラムの今の状態は、不死鳥の残存エネルギーと赤白い液体を急激に同化させた結果だと」

 リンネは静かに頷く。

「ええ、その通りよ。さすがは九尾の狐ね」

 リンネの翡翠色の瞳が月明かりに輝く。

「今のフラムは確かに、まるで神のような力を持っている。でも、それは本物の神ではないわ」

 ふと、佑也は、今日言っていた、かれんの言葉を思い出した。

 ――万物の関わり合いは全て一様でその濃淡があるだけ。

 こっちは、正直、何言ってるかわからねえ。分かるようで分からんねえ。

 ――敵を知り己を知れば百戦危うからず。

 これはまあ、ベタだからよく分かる。

 佑也は、リンネに訊く。

「フラムはどんな奴なんだよ?」

「どんな奴?」

「そうだな、一九四五年にも、日本に来たんだろ?」

「ええ。私ね、日本に来る前にフラムのことを調べたの」

 リンネは一度深く息を吐いてから続けた。

「一九四五年、フラムが初めて日本に来た時、彼は本当に子供たちを救おうとしていたわ。でも今の彼は、神への畏怖の心が完全に失われている」

 佑也が、月の道を見ながら、考える。フラムのドイツから日本への道、七十年前から今への道は、どんな道だったのろうか。

「……ちょっと待てよ。龍神とフラムの力は拮抗しているんだ。ちょっとでいいから、フラムの力を落としてやればいい。その為には、フラムに昔を思い出させてやればいいんじゃないか? 力を落とすのはほんのちょっとでいいんだ」

 リンネが目を輝かす。

「今日、実験室で見た、守屋詩織の映像」

「ああ、千夏は、聖花園関連の書物やモノに触れると、映像化しちまうんだ」

「あの化け猫は?」

「聖花園が廃止されて、行き場を失った子供たちを引き取ったのは、月輪寺だけじゃない。湖月邸にも五名程、引き取られた。その時の主が飼っていた猫がシロさ」

「当然、シロは、その子供たちに可愛がられていたと」

「ああ、それで今は、化け猫になっちまって、武や理子の魂を守ってくれてる」


「佑也先輩、リンネさーん」

 千夏が、駆け寄って来て、言う。

「決まりましたよ!」

「何が?」

「何がって……」

 千夏は、言いかけて、佑也とリンネの顔をじっと見る。

「こんな所で何やってるんですか~」

「作戦会議だよ。対フラムの。話はまとまった」

「へえー」

「それで、何が決まったんだよ?」

「ああ」と、千夏。「メイさんを復活させる為に、ペンダントを、飛龍と火蛇の間に投げる、ってのは割かし、直ぐに決まったんですが」

「また、やるのか……」

「ええ、それしか案がないですから。それに、今回は、咲子おばあちゃんも太鼓判押したんで、メイさんもすんなり、同意です」

「じゃあ、問題ないじゃないか」

「だから、誰がペンダントを投げるかで問題になったんですよ」

 佑也が、ちょっと考える。

「そんなの、九尾の婆さんが投げればいいだろう?」

「ええ」と、千夏。「でも、さっき失敗した時、ノアさんが喰ってかかったじゃないですか?」

「……」

「それで、九尾の狐さんがヘソを曲げちゃって。でも、私の見立てでは、九尾の狐さんがヘソを曲げた理由はもう一つあって」

「もう一つ?」

「ええ。九尾の狐さんが提案した時には、皆、懐疑的だったのに、咲子おばあちゃんが、同意したら、もう、話はすんなり、すんなり、だったんですよ~」

 大人げね――。

「じゃあ、ノアでいいだろ?」

「ノアさんはノアさんで、未だちょっと懐疑的なんですよ。復活出来ないだけなら、まだしも、ペンダントが壊れたらどうするんだって」

 なるほど、確かに、その可能性はある。

「ん? それで何が決まったんだ?」

「だから、ペンダント投げるのは佑也先輩がいいだろうって」

 佑也がギョッとする。

「俺?」

「ええ、多数決で決まりました」

 ……欠席裁判じゃねーか。

 千夏が、ほがらかに告げる。

「ああ、でも、九尾の狐さんのご指導つきです。モノをチャチャっと投げる術の。羨ましいです~」

 

「極意を教えてやるよ。一度しか言わないから、よく聞きな」

 九尾の狐が、偉そうに、言う。

「九尾殿、よろしくお願いいたします」

 佑也が、真面目くさって応える。

 美咲や千夏には、先程、リンネと考えたフラム対策を伝えてある。

 同時決行ということになった。

 当然だ。

 咲子ばあさんが、いつまでいられるか分からないんだから、早いに越したことはない。

 それで、メイの封印が解かれた時の、メイとの感動のご対面役は、ノアに任せることにした。これは、誰にも異論がなかった。

 九尾の狐が続ける。

「そうだ、一つ質問だ。佑也は右利きかい? 左利きかい?」

「右利きだ」

「いいかい? モノを投げる時も、或いは、掴み取る時も、例え、それがどんなに距離があっても、右手の指パッチンさ。親指と中指を弾いて、パチンさ」

 そう言いながら、九尾の狐が、右手で指パッチンする。

 佑也も、併せて、やってやる。

 九尾の狐が続ける。

「そして、左の掌にスポッと納める」

 ふーむ、なるほど。

 佑也が、九尾の狐に尋ねる。

「掴み取る時は分かった。投げる時は?」

「だから、同じさ。左手で持っているものを、そのまま、右手で指パッチンしながら、放り投げてやればいい。但し、今回は、自分の左の掌を、飛龍と火蛇の間に置いちまうイメージを忘れずに」

「わー、分かります~」

 千夏が、横で、パチパチをする。

 九尾の狐は、目を細める。

「そうだろう。千夏は筋がいいからねえ」

 どうも、千夏と九尾の狐は、すっかり、打ち解けている。

 九尾の狐は、佑也に向かって、言う。

「先ず、咲子の胸元からペンダントを引き寄せるんだ」

「おう」

 佑也は、内心、呟く。

 引き寄せるのは簡単だ。

 佑也が、右手で指パッチンすると、咲子の胸元からペンダントが浮かび上がり、首元を抜けると、佑也の左の掌に納まった。

 ――なるほど、なるほど。

 九尾の狐が、次の指示をする。

「よし。次は、放り投げながらも、左の掌を、飛龍と火蛇の間に置くことを忘れるんじゃないよ」

 千夏も、リンネも緊張する。

 メイの復活が、魔王フラムとの対決の合図にもなるからだ。

 佑也は、美咲をチラッと見る。

 美咲は、ばあさんのサポートがあるとは言え、そろそろ、限界だろう。

 逆に言えば、フラムだってそうだろう。必ず、この作戦、成功するに違いない。

 佑也は、一つ大きく息を吸うと、言った。

「やるぜ」

 佑也にも、皆が、それぞれ頷くのが気配で分かる。

 佑也は、左肩そのものを外して、腕を放り投げるようなイメージをしてから、ついで、右手で、指パッチンしながら、左手でペンダントを放り投げてやる。

 すると、ペンダントは、吸い寄せられる様に、飛龍と火蛇がぶつかり合う空間に移動し、そこで、飛龍と火蛇の勢いに押されて、空中にとどまった。

 一同が、ゴクリと唾を飲み込むのが分かる。

 これで、メイの封印が解けなければ、メイは、もう二度と、陽の光を浴びることはないだろう。それだけなら、まだしも、――まだしも、と言ってはメイには悪いが――ばあさんも、直ぐに、姿を消してしまう可能性があった。佑也は、そっちが怖かった。千夏に言わせると、メイはばあさんの一番の親友だったそうだ。その話を、佑也は、リンネと作戦会議をしてたので、聞いてなかった。聞いていなかったが、その話をする千夏の顔は怖いくらいに真顔だった。

 佑也も、心から、祈った。

 ……頼む、メイ、復活してくれ!


 次の瞬間、飛龍と火蛇の力が交差する空間で、ペンダントが放つ光が不思議な輝きを放ち始めた。青白い光を放つ飛龍の力と、紅炎の光を放つ火蛇の力が、まるで螺旋を描くように、ペンダントを包み込んでいく。

 二つの力がペンダントの表面で出会うたび、幾層もの封印が、光の粒子を散らしながら一枚ずつ解かれていく。一際、大きな光のぶつかり合いがあったかと思うと、最後の封印が解かれ、光が拡散した。

 そして、光が収束すると、そこにはメイの姿があった。

 十八歳ほどの少女の姿をした彼女は、黒い魔女の帽子から覗く淡い亜麻色の髪を月光に輝かせていた。白磁のような透明感のある肌に、エメラルドグリーンの瞳が愛らしく輝き、その表情には無邪気な笑顔が浮かんでいる。

 深紅のドレスは膝上丈で、裾には金色の星模様が刺繍され、その上に重ねた白いレースのエプロンが可愛らしさを引き立てていた

 メイは、宙に浮かんだまま、ゆっくりとまばたきをすると、周囲を見渡した。その瞳に映る光は、七十年もの時を封じられていた孤独を微塵も感じさせない、温かさに満ちていた。

「ただいま、帰ってきたよ」

 その声は、春風のように柔らかく、聞く者の心を優しく包み込んだ。

 佑也たちの緊張が、まるで溶けていくように和らいでいく。メイの周りには、まるで春の陽だまりのような温かな魔力が漂い、近くにいる者の心を自然と和ませていった。


 そして、その時、既に、美咲の背後に咲子の姿はなかった。

 咲子の声が、メイの脳内に響く。

「メイ。今度こそ、本当のさよなら。七十年間、有難う――」


「よし、今だ!」

と、佑也が声を出そうとしたその瞬間。

 千夏の腕に抱えられて準備していたシロが、不意に、千夏の両腕から飛び降りる。あっ、シロ、と千夏が短く叫ぶが、もう遅い。シロは迷うことなく、再び、フラムに向かって、駆け出した。

 そして、数メートル、駆けたかと思うと、

「にゃおー」

と、咆哮しながら、フラムに向かって、ジャンプした。

 しかし、千夏が、過去の記憶を蘇らし映像化するには、過去の記憶を持つ媒介物がないと、それは出来ない。その担当が今回はシロの計画だった。

 佑也が、ヤバい、シロ頼みに作戦変更か、と思ったその時、空中に、キラリと光るものがあった、ペンダントだ。

 先ず、一度目。佑也は、指パッチンして、ペンダントを左の掌に納める。次に、二度目。もう一度、指パッチンして、今度は、千夏の首元に、ペンダントをかけてやる。

「千夏、受け取れ、ペンダントだ」

「佑也先輩!」

「よし、やれ」

「はい」

 千夏は、ペンダントを両の掌で抱え込むと、フラムをじっと睨みつけた。


 そして、シロの姿が、光に包まれる。

 その体は見る見るうちに巨大化し、やがて人の三倍程の背丈の巨大な白猫となって、宙に浮かんでいた。その瞳は青く輝き、体からは神秘的な光が漏れていた。

 千夏がペンダントを強く握りしめると、シロの周りの空気が歪み始めた。そこに、七十年以上前の映像が浮かび上がる。

 若きフラムが戦災孤児たちに優しく微笑みかける姿。道端に倒れている子供を抱き上げ、涙を流す場面。純粋な救済への願いに満ちた、かつてのフラムの姿があった。

「佑也先輩!」

 千夏の声に応え、佑也は九尾の幻術を展開する。映像は一層鮮明になり、空間全体に広がっていった――筈だ。幻術のコツは、先程、九尾の狐に聞いた。何でも、とにかくあらゆる要素を数値化させることらしい。数値化といっても、実際にデータを取ることじゃなくて、自分の中の想い、経験を脳内で数値化させることらしい。

 リンネもまた、翡翠色の瞳を輝かせながら、映像を鮮明化させる魔力を、千夏が描き出した映像に注ぎ込む。

 リンネが呟く。

「魔導士・フラムよ、貴方の実験に取り組む執念、魔科学者として敬意を現します。……しかし、人間は神になれないのではないでしょうか」


 紅炎に包まれたフラムの表情が揺らぐ。その瞳に、かつての自分の姿が映り込む。だが次の瞬間、フラムは苦しそうに顔を歪ませ、両手を振り上げた。

「愚かな!」

 フラムが声を張り上げる。

「我はアポピス。我が力を思い知るがいい」

 轟音と共に、巨大な紅炎が放たれる。

 その瞬間、リンネが前に飛び出し、翡翠色の魔法陣を展開。防御壁が形成される。続いてノアが青いマントを翻し、銀色の結界を重ね、メイもまた、薄紫の光の幕を張り巡らせた。

 フラムの攻撃は激しいが、三人の防御壁が崩されることはない。

 やはり、フラムの力は、魔王のそれではない。

 三人は、頷き合う。

 メイが声を張り上げる。

「美咲! 今よ! わたしたちが守るから!」

 美咲は深く息を吸い込み、背中から弓を抜く。諏訪湖の水面が大きく波打ち、湖底から光が立ち昇る。弓に手をかけた瞬間、純白の光が弓を包み込む。美咲は、まるで生まれた時からそうしていたかのように自然な動作で、弦を引く。

 光の矢が形作られる。それは通常の矢ではなく、龍神の力が結晶化したかのような輝きを放っていた。美咲は静かに息を整え、的を定める。フラムを包む紅炎が、標的のように揺らめいている。

 美咲が弦を放つ。

 光の矢が夜空を切り裂くように放たれ、フラムを中心に螺旋を描く。

 その光に触れた瞬間、フラムを包む紅炎が激しく揺らめいた。

 まるで苦悶の叫び声のような音を立て、炎の中に見える巨大な蛇の顔が歪む。光の矢の軌跡に導かれるように、フラムの体が宙に浮かび上がる。

 紅炎が龍神の光に飲み込まれていく。

 その過程で、炎は不思議な輝きを放った。純白の光に溶け込むように消えていく紅炎は、まるで夜明けの空に溶けていく星のようだった。

 フラムの姿が徐々に透明になっていく。その顔には、もはや狂気の色はなく、どこか懐かしいような、安らかな微笑みが浮かんでいた。まるで長い夢から目覚めたかのように、静かに目を閉じていた。

 フラムが最後に何かしら、呟いた。

「……」

 だが、その言葉は、フラムにしか分からない。

 フラムの呟きが風に乗って消えていく。

 フラムの体は光の粒子となって、夜空に向かって舞い上がっていった。紅炎も、巨大な蛇の姿も、全てが純白の光の中に溶けていく。

 やがて、辺りには深い静寂だけが残された。

 夜空には満月が静かに輝き、諏訪湖には一筋の月の光が、月の道が、出来ていた。


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