第二十章
夕暮れ時の霧空大社。石段の途中で、ノアは立ち止まっていた。長い金髪が風に揺れ、翡翠色の瞳が境内の方を見上げている。
「まったく」
ノアは額に手を当て、深いため息をつく。石段の横には、苔むした狛犬が佇んでいる。その表情が、どこか皮肉っぽく見えた。
「九尾の婆に『最上佑也を献上する』なんて言っちまったものの」
風が吹き、参道の杉木立が静かにざわめく。ノアは石段に腰を下ろした。
「『献上』って何だよ。婆は一度あの少年に会ってるだろうに……。自分でもう一度会いに行けばいいものを。確かに私の魔力があれば連れてくのは朝飯前だが、今時そんなの通用するかよ。自由だの人権だのうるさい時代じゃないか」
境内から風鈴の音が聞こえてくる。
「そもそも私が神崎美咲に目をつけたのは、魂が純粋なのと、メイが封印されたペンダントを持ってて、咲子の孫で、メイとも仲が良さそうだったからだ。咲子が協力を約束してくれたのに、九尾の婆はどういうわけか最上佑也に目をつけてやがった……」
風鈴が再び鳴る。今度は少し寂しげな音色だった。
「ええい、とにかく先ずは神崎美咲だ。あの少女に話を持ちかけてみよう。そろそろ巫女訓練が終わり、帰路に付くはずだ」
ノアがそう決心し、腰を挙げようとした瞬間、少女の軽やかな声がかかった。
「あら、ノアさん」
見上げると、美咲の姿があった。
ノアは、美咲に話しかける。
「これはこれは、龍神の巫女殿」
「なんですか、そんな、かしこまった言い方をして。ちょっと、気持ち悪いわ」
美咲はそう言いながら、ノアの横に腰かけた。
ノアは、苦笑する。
「まあ、そうだな」と、ノア。「今日は、ほら、例の頼みがあって来た」
「例の頼み?」
「メイの封印を解くって奴だ」
美咲が目を輝かす。
「あら、封印解除の法、分かりましたか?」
ノアは、美咲が喜ぶ様子を見て、内心、胸を撫でおろす。この娘はやはり協力的だ。
ノアは、ちょっと、考えて、言う。
「ああ、分かったと言えば、分かったのだが」
美咲が、呆れた様に言う。
「なんですか、煮え切りませんね」
「うむ」
ノアが頷いた、その時だった。
圧倒的な魔気、いや、霊気が、ノアを襲った。
境内の方向からだ。
九尾の婆か!
ノアは、思わず、腰を上げながら、境内へと続く石段を見上げる。
すると、そこには、二人の少女の姿があった。
一人は、青蝶堂の少女だ。だが、この少女の霊気ではない。
もう一人の少女も、身長は青蝶堂の少女と同じくらい。髪は腰まであり、丸顔が愛らしいが、間違いない。――霊気の持ち主は、この少女だ。
ノアの困惑を余所に、かれんが、いつの間にか、ノアと美咲の段まで来ていた。千夏も続いていた。かれんが微笑んで、言う。
「ノアさん、ですよね?」
「ああ、私はノアだ。だが、お主と会ったことはあるかな?」
「いいえ、お会いするのは初めてですわ。ただ、お噂は、美咲さんから聞いております」
かれんは、そう言うと、美咲にウインクした。
美咲は内心呟く。――私は、かれん先生にノアさんのことは話していない。かれん先生のことだ。霧見の鏡でご覧になったか、或いは、光頭様から聞いているのだろう。
かれんが続ける。
「私は、水無月かれん。霧空大社の巫女をしております」
「ほう」
ノアは平静を装いながら、再び、途方に暮れていた。
何だ、この少女は!
圧倒的な霊力。まあ、そういう存在は、いつの時代も、どこの国にもいる。
だが、どうやら、私のこと、メイのこと等、一通り、知っているようだぞ?
ノアは、チラッと美咲を見て、思う。
この神崎美咲がここで巫女修行をしている、とのことだが、この少女が、その先生役と見て間違いはないだろう。つまりは、今現在、神崎美咲の守護者でもある訳だ。……駄目だ。もともと、神崎美咲に手荒なことをするつもりはなかったが、魔術も何も、この少女には、通用する気がしない。……出直すか? 馬鹿な、出直してどうする?
不意に、かれんがノアに微笑みかけた。
「メイさんの封印の件でしょう? 進展はありましたか?」
ノアが、かれんの意図を図りかねて、かれんを見つめる。
かれんが続ける。
「ところで、我が主・天之霧命、霧空大社の主祭神はご存じですか?」
「知らん」
ノアが首を横に振るのに併せて、美咲も千夏も、首を振る。
美咲は内心、呟く。……すみません、こんなお世話になっておりながら。
かれんが、にっこりする。
「そうですよねえ。一般の方にはなかなか馴染みのない神様ですもの。でも、それには理由があるんです」
「理由?」
「ええ、その役割にあります。天之霧命の役割は、神々の調停なんです」
かれんは、ノアに視線を戻すと、続けた。
「ほら、我が国は、西洋の一神教と違って、多神教、八百万の神々でしょう? 当然、揉め事も起きる訳です」
「なるほど」
「その一々に、天照大御神様が、お出になる訳にもいかないじゃありませんか」
「ふむふむ」
「それでちょっとしたことなら、天之霧命様の出番となる訳です。あっ、一応、申し伝えておきますと、天之霧命様には、龍神様の様な力はありませんし、オモイカネ様のような智慧者という訳でもありません」
ノアが怪訝な顔をする。
「それじゃあ、どうやって、神々の揉め事を調停するんだ?」
かれんが、可笑しそうに笑う。
「そうなんですよ! だから、我が主・天之霧命様は、毎度毎度、ご気苦労なさる訳ですよ!」
ノアは、再び、振り出しに戻ってしまった様な気がした。
なんだか、役に立たなそうな神ではないか。だが、それに反して、この巫女の圧倒的な霊気。……分からん。
ノアは、何だか、面倒になってしまった。元々は、メイのことである。それを、自分ばかり、奔走して。ノアは、美咲の胸元に向かって、呼びかけた。美咲の首の周りには、ペンダントのチェーンが見え隠れしている。
「おい、メイ!」と、ノア。「お主のことだぞ、どうする?」
すると、美咲の胸元が輝いたかと思うと、メイの呆気らかんとした声がする。
「美咲、どうしよう?」
美咲は、ボールを渡されて、苦笑する。
「えー、私も分かりませんよう」
しかし、美咲はちょっと、考えて、ノアに、尋ねた。
「そもそも、ノアさん、メイの封印を解除する方法って何なんですか? 何か、とっかかりはある様な口ぶりでしたが」
ノアは、メイと美咲の能天気さに馬鹿らしくなって、これまでの経緯を話した。
・七十年考えたが、メイの封印解除の為に、九尾の狐に頼ることにしたこと。
・九尾の狐の望むものとして、西洋の美術品などを見せたが、結局、純粋な魂で、と、話がまとまったこと。
・紆余曲折があって、最上佑也という少年の魂が、九尾の狐のお眼鏡にかなったこと。
・九尾の狐には「献上する」と、約束したが、では、具体的にはどうしたらいいか、分からないこと。
・最上佑也を、九尾の狐の前に連れて行けばいいことは分かるが、何も、首に縄をつけて連れて行けばいい、という訳でもなさそうなこと。
ノアは、喋ってしまうと、すっきりした様子で言った。
「まあ、こんなものだ」
美咲と千夏は、えー、最上君が純粋な魂って、おかしい――と、騒ぎ出したが、かれんが喋り出したので、二人は、押し黙った。
かれんは、ノアの話を聞くと、おもむろに口を開いた。
「話は分かりました。おおよそ、察しはつきますが、先ずは、九尾殿のご意向を確認しましょう」
「おお、それそれ」
と、ノアが応える。「どうも、あの婆は苦手だ」
かれんが、キッとノアを見つめる。
「ノアさん、駄目ですよ。九尾殿ご本人の前で、その言い様は」
「分かっているわ、そんくらい」
かれんは、淡々と続ける。
「ところで、ノアさん、一つ確認です」
「何だ?」
「九尾殿は、湖月邸で猫カフェをされている、で間違いないですか?」
「ああ、間違いない。先日、訪ねたばかりだ」
千夏が、歓喜の声を挙げた。
「猫カフェ、行きたいです~」
「猫カフェ、私も行きます」
と、美咲も声を挙げる。
かれんが、にっこり笑って、言う。
「それでは、皆で行きましょう。私はちょっと着替えてきますので、しばしお待ちを」
美咲と千夏は、家路につくとこだったので、普段着だったが、かれんは、巫女姿のままだったからだ。
ノアは、石段を小走りに上がっていくかれんの背中を見つめながら、溜息をついた。
「何だか、本当にこれで良かったのかねえ」




