第十九章
セラフィス研究棟地下一階「特殊検査室」。
特殊検査室の大きなテーブルには、真っ白な陶器の皿に載ったオレンジのタルトケーキが並んでいた。オレンジの鮮やかさが地下とは思えない程、照明に輝かされていた。
「さあ、どうぞ」
と、フラムは優しく微笑みかけながら、武と理子にケーキを勧める。
七海澪は部屋の隅で静かに本を読んでいる。
武は目を輝かせる。
「わぁ、すごく美味しそう!」
「うん、美味しそう!」
理子も小さく頷く。
フラムは穏やかな口調で語りかける。
「これは特別に取り寄せたものなんだ。君たちの治療の進捗を祝して」
リンネがポットから、各人のティーカップに、そっと紅茶を注ぐ。
武と理子は、顔を見合わせる。
二人の回復治療は、目覚ましい、とは言い難いものだったからだ。
だが、二人とも、質問したいのを抑えて、美味しいそうなケーキに取り組むことを選んだ。二人がケーキを味わった後、フラムは本題に入った。
「実は、君たちの治療をさらに効果的にする方法を見つけたんだ」
そして、フラムは丁寧に神経共鳴療法について説明を始めた。
「特殊な装置から、とても小さな電気の信号を送るんだ。その信号は、君たちの脳の奥深くにある自然治癒力のスイッチを、やさしく刺激する。ちょうど、体の中の電池を充電するようなものかな」
武と理子が、きょとんとした顔になる。
リンネが心配そうに声を上げる。
「先生、子供たちには難しすぎますわ」
「そんなことないよ!」
武が勢いよく反論する。小さな体を少し反らせて、大人びた表情を作ってみせた。
フラムは穏やかに微笑んだ。
「そうだぞ、リンネ君。インフォームドコンセントってやつだ」
武が首を傾げる。
「インフォームドコンセント?」
「あっ、私知ってる。武君が治療法をきちんと理解することだよ」
と、理子が嬉しそうに説明した。
フラムは優しく頷いた。
「そうだ。賢いぞ、理子ちゃん」
「でも、電気? 痛そう」
と、理子が不安そうな表情を浮かべる。
「その心配はご無用よ」
リンネは立ち上がると、壁に設置された大きな装置の前に立った。
「ご覧なさい」
リンネがスイッチを入れると、装置から柔らかな赤白い光が放たれた。まるで静かな炎のように、光は空気中をゆらゆらと漂う。実際は、赤白い光はリンネの魔力が生み出したもので、リンネの掌から直接出ているのだが、そうとは悟られない様に、装置を通しているのだ。
リンネが続ける。
「この特殊な光エネルギーが、電気の刺激を和らげてくれるの。まるで、お母さんに頭を撫でられているような、優しい感覚になるわ」
「私も定期的に受けているのよ」
いつの間にか、七海澪が本を読むのを止め、武と理子の傍に佇んでいた。
そして、澪は、柔らかな微笑みを浮かべ、続けた。
「最初は私も不安だったの。でも、本当に心地よい治療なのよ。体調も随分良くなったわ」
澪は理子の隣に座り直すと、そっと手を取った。
「痛みは全くないから。むしろ、ふわふわした気持ちよさがあるの」
「本当ですか?」
武が興味深そうに装置を見つめる。
「ええ。この赤白い光を見てごらんなさい」
リンネが再び装置を操作すると、より繊細な赤白い光が部屋中を舞い始めた。
「これが電気と同期して、体の深いところまでやさしく働きかけるの」
理子が思わず声を挙げる。
「きれい」
その声からは、先程までの緊張が少し溶けていた。
澪が優しく続ける。
「そうそう、怖がることはないのよ。私たち、みんなで見守っているから――」
フラムは満足げに武と理子の反応を見つめていた。
「今日はこの説明だけにしておこう。ゆっくり考えておいで」
「はい。少し考えてみます」
と、理子が答える。
武がちょっと、考えて、リンネに呼びかける。
「リンネお姉ちゃん」
「なーに?」
「一つ質問していい?」
「もちろんよ」
「佑也先輩は、この治療法、受けてるの?」
リンネは微笑しながら応えた。
「ううん、佑也君には、未だ早いわ。それに、この治療法は、合う合わないの体質があるの。武君と理子ちゃんは、特別なのよ」
「へえー、そうなんだ」
と、武が目を輝かせる。「でも、僕もちょっと、考えてみます」
「もちろんよ」
と、リンネは優しく答えた。
そして、しばらくして、武と理子は、礼を述べると、部屋から出て行った。
部屋を後にする二人の背中を、赤白い光が優しく照らしていた。その光は、まるで希望の象徴のように、静かに揺らめき続けていた。
二人を見送ると、フラムが思い出した様に、リンネに言った。
「そういえば例の患者の退院はいつだったかな?」
「明日ですわ、先生」
「なるほど。彼女を見れば、武君と理子君も決心するだろう」
「ええ、間違いなく」
セラフィスの中庭に盛夏の陽射しが降り注ぐ午後。
噴水の周りに設置されたベンチで、リンネが武と理子に話しかけていた。理子の長い黒髪が風に揺れ、武の車椅子に咲きかけのアジサイの影が落ちている。
ふと、三人に近づいてくる、親子の姿があった。
親子に気づいた理子が、武に言う。
「彩音は、私と同じ症状なの。一ヶ月前に入院した子」
理子の声に、武も母子連れの方を見た。
藤原彩音は理子と同じくらいの年頃で、以前の面影からは想像もつかないほど健康的な表情を浮かべていた。隣にはホッとした雰囲気の母親が付き添っている。
彩音の母が、リンネに頭を下げる。
「リンネ先生、ご報告に参りました」
リンネは穏やかな微笑みを浮かべる。
「もう退院できるまでに回復したんですね」
彩音が無邪気な笑顔で言う。
「はい! 神経共鳴療法って本当にすごいですね」
「本当にもう驚き――」
と、母親が言いかけて、ハッとしたように武と理子の存在に気付く。
母親は、彩音を窘める様に、言う。
「あっ、彩音。フラム先生から、神経共鳴療法のことは人前では話してはいけないって」
彩音は、ハッとして、小さく縮こまる。
「リンネ先生、ごめんなさい」
リンネは、穏やかに、彩音に笑いかける。
「いいんですよ。この二人は知っていますから」
「ねえ、リンネ先生」
と、武が首を傾げる。「どうして人前で言っちゃいけないの?」
「それは希望者が殺到するからですよ」
と、リンネは静かに説明する。
「でも、それっていいことじゃない?」
リンネは、ちょっと真顔な顔を作って、言う。
「そもそも、設備には限りがありますし、また、昨日も話した通り、適性が重要なんです」
と、リンネは武の目をまっすぐ見つめる。
「ああ、そうか」
と、武は少し考え込むように言った。
母親が、会話の合間をとらえて、お辞儀する。
「では、私たちはこれで」
彩音も、母親に倣うように、お辞儀する。
そして、彩音は理子の方に向き直り、明るく手を振った。
「バイバイ! また会えるといいね」
「うん。バイバイ!」
と、理子は、手を振り返す。
理子は彩音の後ろ姿を見送りながら、小さなため息をつく。
「たった一ヶ月で、あんなに元気になれるなんて」
武が呟く。
「神経共鳴療法って凄いんだね、本当」
武と理子は、思わず、顔を見合わせる。
実は藤原彩音親子が、実の親子ではなく、劇団から派遣された劇団員だということに、未だ小学生の武と理子が気づくはずも無かった……。




