第十八章
夕暮れが差し込むリハビリ室。バランスボードに片足で立つ佑也の横で、武が歩行器に手をかけて懸命に歩を進めていた。リンネは二人の間を行き来しながら、時折アドバイスの言葉を投げかけている。
リンネが佑也に声をかける。
「そろそろメニューを切り替えましょうか」
リンネの声に頷いた佑也が、バランスボードから降りようとした瞬間だった。
「佑也先輩!」
武が声をかけてきた。「すごいね、もうバランスボードでブレなくなってきたんじゃない?」
明るく笑いかける武の表情に、一瞬の翳りが差すのを佑也は見逃さなかった。左足首の捻挫から順調に回復している佑也に比べ、脊髄損傷からのリハビリに苦心する武。その焦りが、笑顔の奥に垣間見える。
「いや、まだまだだよ。武こそ、この前より随分歩幅が大きくなった――」
佑也は率直に言った。サッカー部の練習から遠ざかっている今、武との何気ない会話が、心地よかった。
「えへへ、そうかな?」
武の笑顔が少し本物に近づく。
武は、佑也が不安定なマット上での歩行練習に移る様子を見ながら、自分の歩行器での訓練に戻った。時折、武は佑也の方に視線を向けていた。さらにその二人を、リンネは深い翡翠色の瞳で静かに観察していた。
佑也が本日のメニューを終えて汗を拭うと、リンネが近づいてきた。
「佑也君、回復が順調ですね」
リンネは優しい微笑みを浮かべながら、続ける。
「実は、佑也君をフラム先生に紹介したいと思っているんです」
その言葉に、近くで休憩していた武の耳が微かに動いた。武の表情に、かすかな期待と不安が交錯する。
佑也は首を傾げる。
「フラム先生? どうしてですか?」
「特別なリハビリメニューがあるんです。最上さんのような回復力のある方に、是非、試していただきたくて」
リンネの声は穏やかだが、どこか確信に満ちていた。
「でも、今のリハビリでも順調なのに……」
「ええ、でもご紹介するのは単なる回復促進ではありません。むしろ、あなたの運動能力をさらに高められる可能性があるんです」
佑也は一瞬考え込んだ。これまでセラフィスで見聞きした不可解な出来事が、頭をよぎる。むしろ、それを確かめる機会かもしれない。
「分かりました。お願いします」
普段着に着替えた佑也を、リンネは、研究棟の三階に案内した。リンネは、階段を上がって、奥に突き進むと、特別研究室というプレートの部屋の前で、立ち止まって、ノックをした。
リンネに続いて、特別研究室の中に足を踏み入れた佑也は、一瞬、その部屋の雰囲気に息を呑んだ。大きな窓からは柔らかな光が差し込み、整然と並べられた本棚、実験器具、そして壁一面に掲げられた医学や解剖学の図版が、ある種の威厳を醸し出していた。
リンネが、軽く会釈しながら、佑也をフラムに紹介する。
「こちらが最上佑也さんです」
窓際の机からフラムが立ち上がる。フラムは、温和な笑みを浮かべながら近づいてきた。
「ようこそ。リハビリの経過は順調だと聞いていますよ」
フラムの声は低く落ち着いていて、どこか心地よい響きを持っていた。
「はい、有難うございます」
佑也はにこやかに笑いながら、確信する。
間違いない、上信越学園で特別授業をしているフラム先生だ。だが、フラム先生は、佑也のことには気が付かないようだった。
フラムは、机に置かれた資料に目を落としてから、続けた。
「今日は特別なメニューを提案したいと思ってね。君は確か、何かスポーツをやっていたよね?」
「サッカーです。怪我も試合中でした」
「そうだったね」
フラムは頷き、机の引き出しから青い表紙のファイルを取り出した。
「実は、単なる回復ではなく、君の運動能力を更に強化できる可能性があるんだ」
「そんなことが可能なんですか?」
佑也の声には疑いの色が混じっていた。
フラムは微笑みながら説明を始めた。
「長年の研究で、人体の潜在能力を引き出す特殊な治療法を開発してね。まだ実験段階だが、これまでの被験者には顕著な効果が出ている」
佑也は眉を寄せた。
「具体的にはどんな治療なんですか?」
「特殊な薬剤を使用した点滴治療さ。従来の理学療法と組み合わせることで、細胞レベルでの活性化を促す」
フラムの説明は専門的で、かつ分かりやすかった。
――冬は、全国選手権に行きたい。
佑也は、我知らず、興味関心が惹かれていた。
「料金は、どのくらいかかるんですか?」
「君の場合は特別に無償で大丈夫だ」
と、フラムは穏やかに答えた。
「どうしてですか?」
佑也の声には警戒心が滲んでいた。
フラムが温和に続ける。
「君のような若いアスリートのデータは、研究にとって非常に貴重なんだ。将来の治療法発展のために、協力してもらえないだろうか?」
佑也は窓の外に目を向けながら、答えた。
「少し考えさせてください」
フラムは優しく微笑んだ。
「もちろん。ただし、一週間で結論を出してほしい。これは、どの候補者の方にも、そう、お願いしてる」
研究室を後にする時、佑也の頭の中には様々な疑問が渦巻いていた。無償の治療、期限付きの決断、そして何よりフラムの態度があまりにも完璧すぎる――。
全てが整いすぎていて、かえって不自然に感じられた。
佑也がドアから特別研究室を後にすると、フラムがリンネに語り掛けた。
「あの少年は、何か、疑っているようだね」
リンネが軽く微笑む。
「それはそうでしょう。こんなうまい話はありませんから」
リンネは窓際に立ち、夕陽に照らされた中庭を見下ろしながら答えた。
フラムが軽く眉をひそめる。
「なんだなんだ、それじゃ困るじゃないか」
リンネの唇に、かすかな笑みが浮かぶ。
「先生は彼の魂が純粋なことをお忘れですわ」
「それが何の関係が?」
リンネは窓から離れ、フラムの方へ向き直った。「先程、私が最上佑也をフラム先生に引き合わせることを岡崎武に見せました」
「ほう」
フラムは興味深そうに身を乗り出した。
リンネが続ける。
「ただでさえ、自分より回復が順調な最上佑也が実験に参加するかもしれないと思って、ヤキモキしたことでしょう」
「でも、武君は既に実験に参加しているじゃないか」
「はい。でも、そろそろ、最終段階に入っていい頃かと――」
フラムが低く笑う。
「なるほど、それはそうだ。そっちが本命か――」
「もちろん、最上佑也だって実験に参加する可能性はありますわ」
「どうしてだね?」
「彼は優しいんですよ」
リンネの声は柔らかく、しかし確信に満ちていた。
フラムは怪訝な表情を浮かべたが、それ以上の追及はしなかった。
夕暮れの光が研究室に差し込み、二人の影を壁に長く伸ばしていた。その影の長さが、フラムが実験に費やした年月の長さを現している様だった。




