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月の道  作者: 月上まもる
18/31

第十七章

 水無月家の巫女訓練は、システマティックなものだった。

 美咲は、初めてかれんを訪ねた翌日から、霧空大社で、巫女修行を始めた。

 巫女訓練の目的は、四つに整理され、それぞれにトレーニングメニューが付属し、かれんのパソコンに整理されていた。

 美咲は、初めて、霧空大社を訪ねた日に、巫女訓練四目的を印刷したものを渡されていた。そして、訓練が始まる明日までに頭に入れる様に、と言われた。そして、トレーニングをする時は、そのトレーニングの目的を常に考えるようにとも。


巫女訓練四目的

 一.体の芯を作ること

    姿勢の土台となる体幹の強化

    安定した動きの基礎を作る

    正しい姿勢の維持を可能にする

 二.呼吸と動きの調和

    基本動作と呼吸の連動

    動きのメリハリの創出

    緊張とリラックスのバランス調整

三.重心の理解と制御

    動きの中での重心移動

    立ち位置や歩み、回転時の安定性

    足裏感覚を通じた地面との繋がり

    バランスの維持

 四.空間認識との把握

    周囲の空間への意識

    動と静の調和

    リズムとタイミングの制御

    音楽との調和

    感情や物語性の表現


「かれん先生、一つ、お願いがあります」

と、美咲は、その日の修行が終わった後、かれんを呼び止めた。

 呼びかけたのは、修行を始めてから二日目の終わりのことである。

 かれんが、美咲に問いかける。

「何でしょう?」

「修行に、一人、美術部の後輩を加えて頂きたいのですが……」

「理由はありますか?」

「はい」と、美咲。「理由は三つあります」

「どうぞ」

「先ず、重心のトレーニングなど、かれん先生とペアになってやるトレーニングあります。あれを、端から、第三者的に見てみたいのです」

「なるほど」

「次に、後輩の名前は、千夏というのですが、千夏の祖母は、七十年前のフラムの実験の被験者で、千夏はその影響で、不思議な力があります」

「不思議な力?」

「はい。フラムの実験に関係した書物や、或いは、物に触ると、映像化して、ホログラムの様に見せることが出来ます。ただ、自分では制御できません。もしかしたら、かれん先生のトレーニングを受けることによって、その制御が出来るようになるかも、と」

「三つ目は?」

「千夏のお祖母さんは、青蝶堂という古本屋を経営されているのですが、千夏は毎日のように店番をやっていて、それに、私と同じ美術部で、全然、体を動かすことをしてなくて。私も、かれん先生の元で、巫女修行をしてみて、体を鍛えること、動かすことの大切さが分かって来たような気がします。それで、千夏にも……」

 すると、かれんは、間を置かずに、美咲に問うた。

「一番大切な理由はどれでしょうか?」

 美咲は、ちょっと、考えて、言った。

「最後に言った理由でしょうか。千夏もトレーニングした方がいい様に思いました」

「一番の理由を、どうして、最後に言いましたか?」

「それは」

と、言いかけて、美咲は、どうしてだろう、と考えた。

 しばらく考えてから、美咲は、かれんに言った。

「一つ目に言った理由が一番、私の修行にとって合理的なように思えたからです。また、二つ目の理由は、かれん先生が千夏に興味を持たれるかもと思ったからです」

「そうですね」と、かれん。「私にもそのように、順番の理由は思えました」

 かれんは、居ずまいを正した。

「時として巫女は、切羽詰まった状況で、祈りを捧げなければならないかもしれません。ちょうど、七十年前の咲子様がそうだったように」

 美咲は、思わずハッとして、かれんを見つめなおした。

 かれんは続けた。

「大切なことから、伝える。何が大切かを瞬時に判断する。そういう習慣を、普段からつけた方がいいかもしれませんね」

「はい」

と、美咲は、かれんに頭を下げた。

 そして、かれんは微笑んだ。

「千夏さんの参加、もちろん、OKですよ。私には、三つとも、なるほどな理由に思えました」


【千夏の独白】

 体が弱いって言うのは、私の人生の一部みたいなものだった。小さい頃から、よく熱を出して学校を休んでいた。ああ、そういうもんなんだ、ってずっと思ってたし、それは、今も変わらない。

 小学生の時、祖母が七十年前のフラムの実験の被験者だったって知った。世界が一瞬止まったような気がした。その日から、私の中で何かが変わった。

 古い記録を探し始めたのは、もしかしたら、そこに私の体を良くするヒントがあるんじゃないかって思ったからだ。だから、青蝶堂の店番も、ただの手伝いじゃない。誰かが持ってくる古い本の中に、何か手がかりがあるかもしれない。そんな気持ちで毎日を過ごしていた。

 高校に入学したとき、私は迷わず歴史部に入ろうと思っていた。地元の歴史を調べることで、七十年前の真実に近づけるかもしれない。そう考えたからだ。

 ところが、部活紹介の期間で運命は変わった。

 美術室の壁に掛かっていた一枚の油絵。

 美咲先輩の作品だった。確かモチーフは洗濯物だったような。でも、その色使いに圧倒された瞬間を、私は一生忘れないと思う。

 青蝶堂には、チベットの宗教画がある。その神秘的な色彩が、美咲先輩の絵と重なった。原色の響き合い――。その鮮やかさは、後になってゴッホの作品を思い出させた。ゴッホは南国で、チベットは寒い地域。でも、どちらも極端な気候が、同じような原色のハーモニーを生み出す――。不思議と、納得できた。

 けれど、美咲先輩は違う。温暖な日本にいながら、そんな極端な色彩を描き出す。それは、もしかしたら、狂気の一歩手前にいるからなのかもしれない。そう思った瞬間、私は、美術部の門を叩いた。

 今夜、美咲先輩が青蝶堂に来たとき、店はもう閉まっていた。二階の座敷で話を聞くうちに、先輩の目が異様に輝き始めた。巫女の訓練をしないか、って。水無月かれんって子が凄いんだって、まるで子供のように興奮して話す。

 「かれん先生が」って言うから、てっきり年上かと思ったら、中学三年生だって。正直、そんな訓練に興味なんてなかった。でも、美咲先輩は二十分も三十分も、目を輝かせたまま話し続けた。

 その時、横で黙って聞いていたおばあちゃんが口を開いた。

「私はこの年まで生きてきたけど、こんなに目を輝かせて他人様のことを喋る人を見たことがありませんよ」

 私が内心、マルチにはまらなくて、良かったじゃん、って思った瞬間、

 おばあちゃんが真面目な顔で「明日から行きなさい」って。

 その言い方が、お願いなのか命令なのか、よく分からない。

 すると美咲先輩が「アドバイスですね」だって。

 おばあちゃんは美咲先輩をじっと見て、「もしかして咲子様の……」

 ――気づくの遅いって。

 「神のお告げですねえ」とおばあちゃん。

 もう、年寄りはすぐそうやってことごとしくするんだから。でも、神のお告げって、要するに神様からのアドバイスなんだって思ったら、急に腑に落ちた。

 まあ、水無月かれんって子に興味は出てきた。明日から霧空大社に行ってみようかな。由緒ある神社だし、悪くないかもしれない。それに、私の体の秘密も、もしかしたら霧空大社で何か分かるかもしれないし……。


巫女訓練・ある日のこと(その一)

 朝靄に包まれた霧空大社の境内。苔むした石段の上で、美咲と千夏は背筋を伸ばして立っていた。

「足の裏で大地を感じて。天から頭を引っ張られているイメージで」

 かれんの静かな声が響く。夜明けの空気は冷たく、二人の吐く息が白く霞む。美咲は目を閉じ、かれんの言葉に従って意識を集中させる。足の裏から大地の感触が、しっかりと伝わってくる。

 その時だった。

 閉じた瞼の裏に、一瞬、光が走った。

 美咲が目を開けると、目の前の景色が変容していた。

 朝もやの中に、若い巫女の姿が浮かび上がる。凛とした姿勢で、まっすぐに前を見つめるその横顔に、美咲は息を呑んだ。

「お、おばあちゃん?」

 かすかな声が漏れる。その巫女は、祖母・咲子の若かりし日にしか思えなかった。祖母も、同じように朝もやの中で、背筋を伸ばし、大地と天を結ぶように立っている。その姿は、今の自分とどこか重なって見えた。

 千夏が、怪訝な顔で、美咲に声をかける。

「美咲さん?」

 千夏の声で我に返る。景色は元に戻り、若き日の咲子の姿は既に消えていた。だが、背筋を伸ばす感覚は、以前より確かなものになっていた。まるで、祖母の記憶が自分の体に染み込んだかのように。

「なんだか、分かった気がする」

 美咲はそっと呟いた。体の芯を通る一本の線。それは単なる姿勢の問題ではなく、巫女として天と地を繋ぐ、魂の軸なのかもしれない。

 朝もやの中で、美咲は静かに目を閉じ直した。足の裏から伝わる大地の感触。頭上から引っ張られる感覚。そして、確かに感じる祖母の記憶。それらが一つになって、美咲の中で新たな感覚と理解が芽生え始めていた。

 かれんは、そんな美咲の様子を穏やかな表情で見守っていた。彼女には見えていたのかもしれない。美咲の中で、巫女としての血が、少しずつ目覚めていく様が。

 朝日が霧を透かし始め、境内に柔らかな光が差し込んでくる。新しい一日の始まりと共に、美咲の修行は、静かに、しかし確実に深まっていく――。


巫女訓練・ある日のこと(その二)

 夕暮れ時の霧空大社。境内に残る夏の暑さを、竹林からの風が少しずつ運び去っていく。

「息を吸うときは、体が開いていくイメージ。吐くときは、芯に向かって集まってくる――」

 かれんの指導に合わせ、千夏は腹式呼吸を繰り返していた。古本屋の娘らしく、本で読んだ呼吸法の知識は豊富だ。けれど、実際に自分の体でやってみると、これが思いのほか難しい。

 かれんの声が千夏に飛ぶ。

「千夏さん、力が入りすぎているわ」

 かれんの声に、千夏は肩の力を抜こうとする。

 その瞬間――。

 体の内側から、見知らぬ記憶が波のように押し寄せてきた。

 それは、まるで古い本に触れたときのような感覚。でも、今までより遥かに鮮明で、生々しい。

「息を吸って、吐いて」

 かれんの声ではない。美咲でも、もちろん、自分の声でもない。

 脳内に直接響いて来る声だ。

 幼い子供たちが輪になって座り、呼吸を整えている。白衣を着た先生が、優しく声をかけながら回っている。一見、穏やかな光景――。

 でも、違和感があった。子供たちの呼吸に合わせて、赤白い光が明滅している。それは炎のようでもあり、霧のようでもある。

 その白衣の先生の声が響く。

「大丈夫。この呼吸で、病気も治るからね」

 その声には確かな優しさがあるのに、どこか冷たい。

「あっ」

 千夏は思わず、声にならない声を挙げる。

 千夏の体が小刻みに震え始める。これが聖花園の記憶。祖母から断片的に聞いていた、あの施設での出来事――。

「千夏!」

 美咲の声で我に返る。気がつけば、涙が頬を伝っていた。

「ごめん、急に、変な記憶が」

 かれんが静かに問いかける。

「記憶、ですか? あなたが持つ力は、本や場所に残る記憶を読み取る特別なもの。それが、この修行で、より繊細になってきているのかもしれません」

 千夏は深くゆっくりと息を吐き出す。確かに、本屋で感じる以上の鮮明さで、過去の記憶が見えていた。それは恐ろしくもあり、でも、知らなければならない真実のようにも思えた。

「私、もっと知りたいの。祖母の時代に、本当は何があったのか」

 美咲が黙って千夏の肩に手を置く。その温もりが、心強かった。

 夕闇が境内を包み始め、蝉の声が遠のいていく。千夏は再び目を閉じ、呼吸を整える。今度は、記憶に飲み込まれないよう、意識を保ちながら。

 体の芯を通る息。それは単なる呼吸法の練習ではなく、過去の真実へと導く道筋なのかもしれない……。


巫女訓練・ある日のこと(その三)

 夏の夕暮れ、諏訪湖からの風が境内を吹き抜けていく。石畳の上で、美咲と千夏は片足立ちの練習を続けていた。

 かれんが、美咲と千夏に声をかける。 

「重心を、ゆっくりと――」

 美咲と千夏は左足から右足へと体重を移していく。これまでの練習で、急な動きは避けるよう何度も教わっていた。まるで湖面の波のように、穏やかに、しかし確実に――。

 その時だった。

 二人の足の裏から、大地の鼓動のような振動が伝わってきた。

「これ……」

 美咲が息を呑む。

「感じる」

 千夏も小さく頷く。

 石畳から伝わる振動は、次第に明確なリズムを帯びていく。それは心臓の鼓動のようでもあり、大きな生き物の呼吸のようでもあった。

 美咲の髪が、風もないのに揺れ始める。千夏のTシャツの袖も、見えない力に反応するように波打つ。二人の周りの空気が、まるで水中のようにゆらめいていた。

 かれんが静かに告げる。

「止めないで。その感覚のまま、重心を運んでみて」

 二人は呼吸を合わせ、ゆっくりと動き始める。足の裏から伝わる鼓動が、体の内側に染み込んでいく。それは恐れるようなものではなく、どこか懐かしい、温かな感触だった。

 その時、諏訪湖の方角から、かすかな唸りが聞こえてきた。

「龍神様――」

 美咲の声が震える。

「私にも分かる」

 千夏も目を見開く。

 二人の重心移動に合わせるように、境内の空気が渦を巻き始める。桜の葉が舞い上がり、その渦の中で、一瞬、龍の姿が浮かび上がったように見えた。

 かれんが言葉を続ける。

「体の重心は、ただのバランスポイントではありません。それは、天地の力が交わる場所。龍神様の力を感じられるのは、あなたたちの動きが、自然の理に近づいてきた証かもしれません」

 陽が傾きかけた空で、雲が龍のように長く伸びている。境内に残っていた暑さは、どこかへ消え、不思議な清涼感が漂っていた。

 美咲と千夏は、まだ片足立ちのまま、その感覚を味わっていた。重心を動かすたびに、大地との繋がりがより鮮明になっていく。それは、ただの踊りの基本動作ではなく、この土地に眠る大いなる力との対話だったのだ。

 やがて、振動は静かに収まっていった。けれど、二人の体には確かな手応えが残されていた。これが龍神様の力――。その存在を、身をもって知る瞬間だった。

 かれんがにっこり微笑む。

「今日は、ここまで」

 かれんの声で、二人は我に返る。夕暮れの境内に、蝉の声が響き始めていた。


巫女訓練・ある日のこと(その四)

 霧空大社の境内を薄い霧が包んでいた。敷き詰められた砂利の上で、美咲と千夏は「八重の舞」の練習をしていた。

「今度は、動きと動きの間を感じて」

 かれんの声が、霧の中に溶けていく。美咲は緩やかに扇を開き、千夏は静かに歩を進める。二人の息遣いだけが、静寂に溶け込んでいく。

 その瞬間だった。

 霧が不思議な形に渦を巻き始め、境内の風景が歪んでいく。まるでガラスの向こう側を覗くように、景色が二重三重に重なり始めた。

 不意に、千夏の目には、聖花園の敷地を走り回る子供たちの姿が目に入った。

「これは」

 千夏の声が途切れる。彼女の目の前には、聖花園での実験風景が広がっていた。子供たちが輪になって座り、赤白い炎が明滅している。その隣では、巫女装束の咲子が祈りを捧げている。

 美咲には、別の光景が見えていた。龍神の力で戦う祖母の姿。メイとノアの必死の様子。そして、メイが、ペンダントの中へ消えていく運命的な瞬間――。

「動きを止めないで」

 かれんの声が、遠くから響いてくる。

 二人は息を合わせ、ゆっくりと舞を続ける。扇の開閉、歩みの緩急。その間が生み出す空間に、過去の記憶が次々と流れ込んでくる。

 恐れることはない――。

 二人は直感的にそう悟っていた。これは拒むべき幻ではなく、受け入れるべき記憶なのだと。

 扇が描く軌跡に、赤白い炎が寄り添う。歩みの間に、祈りの声が重なる。七十年の時を超えて、物語が紡ぎ直されていく。

 二人が記憶を見ていることを察知したかのように、かれんが言う。

「間とは、時空の隙間。そこには、過去も未来も、全ての記憶が眠っています――」

 霧が新しい形を作り、過去の光景が次第に薄れていく。けれど、二人の体には確かな感触が残されていた。踊りの中の「間」が作り出す神秘。それは、単なる間合いの取り方ではなく、時空を超えた対話の場所だったのだ。

 一陣の風が、境内を吹き抜け、最後の霧を連れ去っていく。

 美咲と千夏は、まだ余韻に浸りながら、静かに扇を閉じた。

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