第十六章
土砂降りの夕方、セラフィスの廊下を、佑也は歩いていた。
完治したはずの足が、雨のせいか、何故か痛い。
佑也は、足を止めて、ここはどこだろう、と辺りを見回した。
リハビリが終わって、着替え、考え事をしながら、歩いていたら、いつの間にか、普段、足を踏み入れないエリアに来てしまったらしい。いや、セルフィスの秘密を探ってやろう、という気持ちがあるから、無意識に、普段行かない場所に足を運んだのだろう。
ふと、佑也の耳に、ピアノの音色が、微かに、聞こえてきた。
音色の方に、足を進めると、ショパンの夜想曲だと分かる。まるで、完璧な演奏が、雨音に溶け込むように響いてくる。音色に引き寄せられて来た部屋のプレートには、音楽室と書かれていた。
佑也は、ちょっと迷ったが、俺はここの患者だ、と呟くと、音楽室のドアを開けた。
音楽室の右手奥には、グランドピアノがあって、そこには、白いワンピースを着た少女の姿があった。首元と袖にレースが施されていて、古めかしいが、とても上品な装いだ。
七海澪だ。青蝶堂に現れた少女だ、間違いない。
澪は演奏を止めることなく、静かに口を開いた。
「この曲を七十年間、毎日弾き続けてきたの」
その言葉の意味を佑也が理解する前に、ピアノから赤白い炎が立ち昇った。幻想的な光が室内を照らし、不思議なことに、佑也の足の痛みが完全に消えていた。
澪は弾き終えると、真っ直ぐに佑也を見つめた。
「あなたなら、フラム先生の実験を完成させられる。あなたの純粋な魂は、七十年前の私と同じ輝きを持っているから」
窓を打つ雨音が一層激しさを増す中、澪は続けた。
「武と理子も、私と同じ道を進む。そして、あなたも」
今日の七海澪の声は優しい。それが何故か佑也を苛立たせる。
「武と理子が? どういう意味だ?」
「ええ。彼らも私のように完璧になれる」
澪の顔に不気味な笑みが浮かぶ。その表情は、少女の優美さと相反する何か冷たいものを感じさせた。佑也が尚も問いただそうとした瞬間、廊下の照明が不規則に点滅し始めた。その光の明滅の中で、澪の姿が霧のように薄れていき、やがて完全に消失した。
音楽室に残されたのは、雨音と、かすかに残る赤白い炎の余韻だけだった。佑也は、自分の足の痛みが消えたことが、何故だか、疎ましかった。




