第一章
初夏の午後、上信越学園三年二組の教室は、夏の眩しさに満ちていた。古びた扇風機が、ゆるやかな風を教室に送り続けている。
窓際の席に座る最上佑也は、机に肘をつきながら、グラウンドに視線を向けていた。佑也は、サッカー部に所属している。その傍らで、ふと目に入ったフラム先生手作りの講義資料に、つい、引き寄せられる。表紙には「東西医学の対話―新しい治癒の形を求めて―」と印刷されていた。
「ねえ、最上くん」
神崎美咲の声に、佑也は振り返る。
「今日のフラム先生の特別授業、東洋思想について話してくれるんだって。諏訪の龍神信仰のことも取り上げるみたいなの」
「へえ、珍しいね。ヨーロッパの先生が東洋の話を」
佑也が答えた瞬間、不意に、美咲は静かに資料を閉じ、姿勢を正す。その仕草には、何かを察知したような確かな意図が感じられた。
まだ誰も来ていないはずの教室の入り口に、美咲の視線が注がれる。そして数秒後、そこにフラム先生の颯爽とした姿が現れた。手には今日の講義で使用するプリントの束を持っている。佑也は、美咲の正確な予感に、いつものように小さな驚きを覚えていた。
「皆さん、こんにちは」
フラム先生の声が、教室に響く。黒板に「東西医学の対話」と丁寧な文字で書き込んでいく。長身のフラム先生は、アイロンの効いたスーツを着こなし、後ろで束ねた灰白色の髪と深い青の瞳が印象的だ。落ち着いた低い声で、かすかな英国風アクセントを残しつつ流暢な日本語を話す。
「今日は、私の母国ドイツと、この諏訪の地に伝わる治癒の考え方について、お話ししたいと思います」
フラムは、まるで物語を紡ぐように授業を始めた。西洋医学の分析的アプローチと、東洋医学の統合的な治療思想の違いを、わかりやすく解説していく。その語り口は、生徒たちを自然と引き込んでいった。
「西洋では、病は『敵』として捉え、これを『倒す』ことを考えます。一方、東洋では病と身体の『バランス』を重視する。実に興味深い違いですね」
黒板にいくつかの図を描きながら、フラムは続ける。
「特にこの諏訪の地には、龍神信仰という独特の治癒文化が残っています。水と光による浄化。実に示唆に富む考え方です」
その言葉に、美咲は思わず身を乗り出した。昔、水月神社の巫女であった彼女の祖母・咲子が、時々、龍神様の話をしてくれるからだ。
「現代医学は、確かに多くの病を克服してきました。しかし、まだ説明できない治癒の力が、人間には備わっているのです」
佑也の左足首が、かすかに疼いた。彼は無意識に、その部分に手を当てる。フラムの視線が、一瞬、そこに注がれる。
「人間の持つ治癒力。それは時として、科学では説明できないような、神秘的な力を見せることがあります」
フラムの声が、不思議な余韻を帯びる。
「この諏訪の地で、私は新しい可能性を探っているところです。セラフィス・リハビリテーション・センターでの研究は、まさにその試みの一つと言えるでしょう」
チャイムが鳴る直前、フラムは最後の言葉を投げかけた。
「治癒の力は、時として、魂の純度と深く関わることがあります」
その言葉が、なぜか佑也と美咲の心に強く残った。佑也と美咲は、それぞれの方法で、その意味を反芻していた。二人とも気づいていない。フラムの瞳に、紅炎が一瞬、揺らめたことに。




