第九章
夕暮れ時の水月神社。美咲は境内の掃除を終え、いつものように池の前で静かに瞑想していた。夏休みになって、美咲は、毎日、水月神社に来るようになっていた。
諏訪湖からの風が、神社の古い木々を揺らし、かすかな音を立てている。夏は真っ盛りの筈なのにどこか物悲しさが混じっていた。
龍神様とは、あれ以来、会っていない。鈴も鳴らしていない。ただ、水月神社で時を過ごす、そういう日々を過ごしている。但し、祖母が残した古い巫女装束を身につけて。
美咲は池の水面に映る自分の姿を見つめる。最近、龍神様の力を少しずつ、感じ取ることが出来ているような感じがする。池の水面に映る月影のように、確かでいて捉えどころのない感覚。
その時、空気が僅かに震えるのを感じた。巫女の血を引く者としての直感が、何か異質なものの接近を告げている。池の水面が、風もないのに小さな波紋を描き始めた。
不思議なことに、その気配に敵意は感じられない。むしろ、懐かしさのような、温かみのような感覚さえあった。まるで、遠い記憶の中の誰かが、そっと手を差し伸べているかのように。美咲は思わず、その方向に顔を向ける。
「誰かいるの?」
声に出した瞬間、境内の空気が一瞬凍りついたように感じた。鳥のさえずりも止み、木々のざわめきさえ消えた。まるで時間が止まったかのような静寂が、神社全体を包み込む。
しかし、その気配はすぐに消え失せ、残されたのは不確かな予感だけだった。池の水面は元の穏やかさを取り戻し、鳥たちの声も戻ってきた。
夕陽が水面に映り込み、赤く染まった景色の中で、美咲は静かに目を閉じる。確かに誰かが自分を見ていた。そして、その存在は間違いなく、人間ではない――。そんな確信が、美咲の心の中に静かに広がっていった。
翌日、美咲は、久々に青蝶堂を訪ねた。
ペンダントの中のメイとは、何処にいても、また、巫女の装束を身に着けていなくても、会話を出来るようになっていた。ただ、メイは、時々、ペンダントをお留守にしているようだった。そのことを、美咲がメイに聞いたら、メイは、私は魔女だから、と答えるだけだった。
夕暮れの光が差し込む静かな時間帯だった。美咲は入り口の風鈴を鳴らし、懐かしい空気に包まれながら店内に入った。古書の香りが、いつものように穏やかに迎えてくれる。
「あ、美咲さん!」
カウンターから千夏が顔を上げ、明るく手を振った。黒髪をサイドテールにまとめた千夏は、相変わらず青蝶堂によく似合う存在だった。
「理子ちゃんの古い医学書、まだ探してるんですか?」
「うん。今日こそ見つけられるといいんだけど」
「そう言えば、先日、最上先輩が来ましたよ」
「へえー最上君が。ああ、この前、この街の戦後の歴史探してるっていうから、紹介したんだけど、迷惑だったかな?」
「全然」と、千夏。「商売繁盛、大歓迎ですよ。それに」
千夏は、先日の佑也との出来事を話そうと思ったのだ。
「それに?」
「あっ、話すと長くなるので、まず先に、本を探して下さい」
「そうね、そうするわ」
美咲は本棚の間を縫うように進みながら、背表紙を丹念に確認していく。千夏は品出し作業の手を休め、美咲の横で一緒に探し始めた。
「おじいちゃんの代からある本だと、このへんかな」
千夏が指差した棚には、明治から大正にかけての医学書が並んでいる。医学書と言っても、民間伝承に分類されるものも含まれている。
二人で本を見ながら、面白い記述を見せ合う穏やかな時間が流れていた。
そして、千夏が『諏訪地方医療史』を手に取った瞬間、店内の空気が微かに粘つき始めた。古時計の秒針は不自然な動きを見せ、夕暮れの光はシロップのように粘性を帯びていった。
ついで、不意に、千夏が手に持っていた本から、突然強い残響を感じ取ったように体を震わせた。街の喧騒が、まるで遠い海の底から聞こえてくるように遠ざかっていく。風鈴の音も、しっとりと溶けていくような余韻を残して消えていった。
「千夏ちゃん?」
美咲が呟いた言葉は、普段より大きく響いた。まるで空気そのものが、音を増幅させているかのように。
その時、千夏の手にある本が、かすかな赤白い光を放ち始めた。
赤白い光は、千夏の手からゆっくりと立ち昇り、靄のように店内に広がっていく。その瞬間、二人の前に一人の魔女が姿を現した。
魔女は二十代前半の姿だった。魔女は、シルバーホワイトの長い髪を漂わせ、黒を基調とした装いに深い青のマントを重ね、その端には星々を散りばめたような輝きが宿っていた。翡翠色の瞳には数百年の時を重ねた深い知性が宿る。透き通った肌に浮かぶ微笑みは優しげでありながら、どこか計算づくの冷たさを感じさせた。
魔女が、美咲を睨みつける様にして、言う。
「私はノア、メイの友輩。今日は、美咲、貴女に話があって、姿を現した」
「私に?」
美咲は、昨日の水月神社での、人間ならざるものの気配を思い出す。
「もしかして、昨日、水月神社に来たかしら?」
ノアが、軽く、微笑む。
「ほう、分かるか」
その時、千夏が手にしていた『諏訪地方小児疾病記録』が強く明滅を始めた。靄の中に、まるで古い映画のように、景色が浮かび上がる。
江戸時代末期の宿場町。着物姿の二人の若い女性が、路地裏で傷ついた子供たちを手当てしている。片方の銀髪が風になびく――それはノアだった。そしてもう一人、優しく子供の頭を撫でる亜麻色の髪の女性。
「……メイ」
ノアの囁きに、映像が流れるように変化していく。明治、大正、昭和と、時代は移り変わる。街並みは変わり、人々の装いも変わっていく。しかし、子供たちを見守る二人の姿だけは、まったく年を重ねることはなかった。
「私たちは、江戸時代末期にこの国にやって来た。……西洋から来た魔女」
ノアの言葉に合わせるように、新たな光景が靄の中に現れる。
突如、映像が激しく歪んだ。病院のような建物――聖花園の内部が映し出される。白衣の男性が、赤白い炎を手にしている。その傍らで苦しむ子供たち。
「あっ!」
千夏が身を強張らせた。その光景の中に、若かりし日の祖母・節子の姿を見つけたのだ。
「やめて」
千夏の声が震える。彼女の能力が制御を失い始め、店内の古書が次々と反応を示し始めた。様々な時代の記憶が、無秩序に靄の中に溢れ出す。
「私たちは、子供たちを守ろうとした。でも――」
ノアの瞳に深い悲しみが宿る。その視線の先で、亜麻色の髪の魔女・メイがペンダントの中に消えていく場面が、静かに浮かび上がっていた。
「もう、十分です」
美咲は千夏の前に立ち、毅然とした声でノアに告げた。
「これ以上、千夏を苦しめないで」
抗議の声を上げたのは、しかし、千夏だった。
「美咲さん、いいの! 私も見たい!」
もはや記憶の奔流は止められない。古書から放たれる光が、青蝶堂を幻想的な光景で満たして行った。千夏の能力の暴走により、青蝶堂の古書から次々と記憶が溢れ出していく。靄の中で、様々な時代の光景が重なり合い、混沌とした様相を呈し始めた。
江戸時代の子供たちの笑顔、大正時代の街並み、昭和の聖花園での暗い記憶――それらが渦を巻くように店内を埋め尽くしていく。古書から放たれる赤白い光は、まるで生き物のように蠢きながら広がっていった。
「千夏!」
美咲が振り返ると、千夏は蒼白な顔で、全身をガクガクと震えていた。あまりに多くの記憶に触れすぎて、彼女の能力が制御不能に陥っている。
その時、ノアが、一瞬で、千夏の傍らに移動すると、彼女をきつく抱きしめた。
「大丈夫」
ノアが静かに呟くと、彼女の魔力が銀色の光となって広がり、荒れ狂う記憶の波を少しずつ抑え込んでいく。その仕草は、まるで暴れる子供を宥めるような強さに満ちていた。
美咲はその光景に、言葉にならない何かを感じ取っていた。目の前のノアは確かに魔女だ。しかし、その腕の中で震える千夏を守るような仕草に、偽りはない。それは七十年前、聖花園の子供たちを守ろうとしたメイと同じに違いない、と。
靄が徐々に薄れていき、店内の空気が元に戻り始める。古時計の針が、正しい時を刻み始めた。ノアは優しく千夏を椅子に座らせると、美咲の方へ向き直った。
「私とメイは魔女だ。だが、悪魔の下部ではない。善だとか悪だとかの範疇、価値基準で推し量るものではない」
ノアは美咲を見据えて、言った。
「私の言葉、分かるか?」
「貴女の言いたいことは分かるわ」
ノアは、美咲の物の言い様に、小癪さを感じたようで、フン、と話を鳴らした。
「フフッ」と、ノア。「まあ良い。私が言いたいのは、私はともかく、メイは、お前達、人間の価値基準に照らし合わせても、いい奴だ、ということを言いたいだけだ」
「それは分かってるわよ」
と、美咲。「龍ちゃん、って呼び方は止めた方がいいと思うけど」
ノアが、怪訝な顔をする。
「なんだ、メイに彼氏でも出来たのか?」
美咲は、まじまじとノアを見つめて、言う。
「知らないわよ、そんなこと」
どうやら、メイは、ノアとは会話してないようだ。ペンダントを留守にする時、移動できる場所は、限定されているらしい。龍神様の力の関係だろうか。
ノアが話を続ける。
「美咲は、メイが龍神によって、ペンダントに、そのペンダントに封印された経緯は知っているか?」
「ええ」と、美咲。「七十年前の出来事は聞いたわ。子供たちを守ろうとして」
「そうか、なら、話は早い。メイがそのペンダントに封印されたのは、とばっちりなのだ。だから、私は、その封印を解くためにやって来た」
美咲は、一つ、溜息をつくと、ペンダントに話しかけた。
「メイ、聞いてるの? 貴女の話、してるのよ!」
すると、ペンダントは、軽く輝き、メイの声が聞こえてきた。
「ちょっと、ノア」と、メイ。「貴女、何ていう登場してるのよ! お店をこんなに散らかしちゃって。後片づけしてから帰りなさいよ!」
ノアが苦笑する。
「私に片付け魔法はない」と、ノア。「それに、店を散らかした、記憶の奔流に叩き込んだのはその娘だぞ」
ノアはそう言うと、千夏を指さした。
ノアが続ける。
「お前、何者だ?」
千夏が、ブルブルと震える。
「し、知らないわよ」
ノアが、鼻を鳴らす。
「まあいい。自らではその力を制御出来ぬようだしな。恐らく、幾つか条件が重なると、己の意思とは関係なしに発動するのだろう」
千夏が、キッとノアを睨みつける。
「分かってるわよ、そんなこと!」
美咲は、話を聞きながら、ノアのことを考えていた。確かに、本人が言うように、悪魔とかそういう存在ではないのだろう。だが、また、メイとはちょっと違った感じがする。何というのだろう、親しみ易さがない、というか、気を許せない。考えてみれば、むしろ、人間らしいメイの方が、魔女としては、特殊なのではないだろうか。
美咲が、ノアに語り掛ける。
「ノア、話を戻しましょう。貴女、先程、メイの封印を解くためにやって来た、と言ったけど、封印の解き方を知っているの?」
すると、ノアは、しばらく、押し黙ってから、言葉を紡いだ。
「今、探してるとこだ」
ペンダントからメイの声がする。
「なーんだ、ノア」と、メイ。「期待しちゃったじゃない」
ノアがカッとなる。
「だから、今、それを調べてる、と言っている。それで、もしかしたら、その娘、美咲の協力が必要になるかもしれないから、今日は、来たのだ」
「ふーん」
と、美咲。「私が出来ることならするけど……」
ノアは、満足げに頷いた。
「その言葉、二言は無いな?」
美咲は、ギュッとペンダントを握りしめる。
光頭様が、巫女の衣装を私に着させてくれた、いや、咲子おばあちゃんが、私にペンダントを託したのも、メイの封印を解くためだろう。
「二言は無いわ」
そして、美咲の口からは次の言葉が自然と出た。
「龍神様の名にかけて」




