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月の道  作者: 月上まもる
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第十章

 夏の陽射しが照りつける諏訪の町。諏訪湖から吹き上げる風が、蒸し暑い空気を僅かに和らげていた。駅前の雑踏に、一人の女性が佇んでいる。濃紺の着物に身を包んだ三十代後半。しっとりとした大人の色気を漂わせながら、一歩一歩、優雅に歩を進めていく。漆黒の長い髪は、風に揺れるたびに陽光を煌めかせる。

 その姿に、行き交う人々の視線が自然と吸い寄せられた。しかし不思議なことに、誰一人として彼女のことを覚えていられない。視界から外れた瞬間、記憶が霞むように消えていくのだ。

 女性は人気のない路地に入ると、すっと長い髪に手を伸ばした。一筋の黒髪を抜き取り、掌の上に載せる。その髪が風に舞い上がると、瞬く間に黒い靄となって広がり、やがて六つの人影を結ぶ。

 それぞれが本体と寸分違わぬ姿をまとって、静かに頭を下げる。九尾の狐は薄く目を細め、諏訪の町を見渡した。龍神の気配、魔女の痕跡、そして七十年前の記憶が刻まれた場所々々が、彼女の感覚に鮮やかに浮かび上がっていく。

 九尾の狐が呟くように囁く。

「行きなさい」

 その一言と共に、分身たちはそれぞれの方角へ、音もなく消えていった。


 霧空大社の境内は、昼下がりの陽射しの中でひっそりとしていた。杉木立の間を吹き抜ける風が、木々のざわめきだけを運んでくる。

 霧空大社は、古くから諏訪の信仰の中心として深い霊力を湛えてきた。特に境内の古い石台に置かれた青銅の円鏡には、湧き水が蓄えられており、「霧見の鏡」と呼ばれ、様々な霊力を宿すると言われている。

 また、「月見の杉」と呼ばれる古木には、不思議な伝説が残されており、この神聖な場所には、今も語られぬ物語が息づいているという。

 九尾の狐の分身は、霧見の鏡がある石台にゆっくりと歩みを進めた。湧水の水面が風に揺れるたび、不思議な光の粒が舞い散るように見える。

「まあ」

 少女の声に、九尾の狐は振り返る。巫女装束に身を包んだ十四、五歳ほどの少女が、月見の杉の陰から姿を見せていた。水無月かれんである。

「お待ちしていました」かれんは静かに告げる。「霧見の鏡が、あなたの来訪を告げてくださいました」

 九尾の狐は薄く笑みを浮かべた。この少女には面白い才があるようだ。霧見の鏡に映る影から、来訪者の気配を読み取れるとは。評判通りか。

「争いごとさえ霧に包んでしまうこの社で、あなたは何を求めているのですか?」

 かれんの問いかけに、九尾の狐は月見の杉に視線を向ける。樹皮には幾筋もの光が走り、何か古い記憶を伝えようとしているかのようだ。

 九尾の狐が怪しく答える。

「七十年前、この地に訪れた者たちの足跡を探っている」

 その言葉に、かれんの瞳が揺れる。

「フラム博士のことですね」

 九尾の狐は静かに頷いた。霧見の鏡の水面が再び波立ち、かすかな光の輪を広げる。龍神の力と九尾の力が交錯するこの場所で、過去の記憶が少しずつ形を成そうとしていた。


 水月神社の境内に、夏の陽光が降り注いでいた。白砂を敷き詰めた参道は、まぶしいほどの輝きを放っている。九尾の狐は、朱塗りの鳥居をくぐり、ゆっくりと石段を上っていく。境内の空気が、龍神の力で満ちているのを感じ取っていた。

 神社の奥にある池の畔で、一人の少女が座り込んでいるのが見えた。神崎美咲である。深い瞑想に沈んでいるのか、目を閉じ、両手を膝の上で組んでいる。

「なるほど」

 九尾の狐は小さく呟く。祖母・咲子から受け継いだ力が、着実に育っているのが分かる。池の水面が、微かに揺れ動く。美咲の瞑想が生み出す波紋が、同心円を描いて広がっていく。その波紋が九尾の狐の足元に届いた瞬間、美咲の目が開かれた。

 美咲が声を挙げる。

「あなたは」

 美咲の声には警戒の色が混じっている。しかし同時に、この訪問者が持つ古い力の性質に、どこか懐かしさを感じているようでもあった。

「龍神の巫女として、随分と成長したようじゃないか」

 九尾の狐は優雅に微笑む。「でも、まだ力の半分も引き出せないだろうね」

 その言葉に、美咲の表情が引き締まる。池の水面が再び波立ち、今度は少し激しい波紋を描き始めた。

「私に何の用があるのですか?」

 九尾の狐は、怪しく、笑う。

「ただの御挨拶よ」

 九尾の狐は池に映る自身の姿を見つめながら言った。

「七十年前、あなたの祖母が背負った運命が、今、あなたに繋がろうとしている。それを、この目で確かめに来ただけ」


 月輪寺の本堂に、夏の風が静かに通り抜けていく。九尾の狐は、セーラーカラーのブラウスと紺のプリーツスカートに身を包んだ少女の後ろ姿を見つけた。

 古びた縁側に腰を下ろし、庭を見つめている姿は、どこか時代から取り残されたような印象を与えた。黒いボブカットの髪が風に揺れ、その衣服は、古びた感じで、その分、その少女の純粋さを際立たせている。

 九尾の狐は、少女の背中に語り掛ける様に呟いた。

「七十年前と何も変わらないのね、この場所は」

 少女は、九尾の狐の声に振り向き、九尾の狐を視界に留めると、目を細めた。

「あなたは――」

 その声には不思議な響きがあった。まるで遠い記憶の中から語りかけているかのように。

 九尾の狐は、謡うように言う。

「私は、単なる時の通りすがりさ」

 少女は、ちょっと、考えて言う。

「私のことを、フラムさんは『失敗作』と呼んでいます」

 その言葉に、九尾の狐は深い関心を示した。深い眠りに封じられているはずの存在、実験体〇〇二。しかし、その姿からは冷たい赤白い炎の気配は感じられない。ただ、純粋な少女の温かみだけが漂っていた。

 九尾の狐は、少女に優しく言った。

「成功だか失敗かは、自分で決めればいいのさ」

 その言葉に、少女の瞳が大きく見開かれる。

 風が再び吹き、木々のざわめきが境内に広がる。少女のスカートの裾が、かすかに揺れていた。


 青蝶堂の古びた木戸を開けると、懐かしい本の香りが漂ってきた。夏の陽射しが、色褪せた建具を通して柔らかな光を投げかけている。

 千夏は、古い和机に向かって本の整理をしていた。十六歳とは思えない落ち着きのある仕草で、一冊一冊丁寧に埃を払い、背表紙を確認している。冷房が聞いているからか、季節外れの臙脂のカーディガンは、古書店の趣のある内装に不思議と馴染んでいた。

「いらっしゃいま――」

 振り返った千夏の声が、途中で止まる。九尾の狐の姿に、一瞬、目を見開いた。しかしすぐに、穏やかな笑みを浮かべる。

「なぜか、時の佳人の来客を感じていました」

 千夏はそう言って、手にしていた本を静かに机に置いた。

「今朝から、古い本たちが落ち着かない様子でしたから」

 九尾の狐は、店内を見渡した。棚には戦前からの古書が並び、それぞれが持つ記憶の断片が、かすかな光となって漂っているのが見える。

「祖母が偶に自慢してました。この店には、時の佳人も来るんだと」

 その言葉に、九尾の狐は薄く笑みを浮かべた。千夏の持つ特殊な感性は、聖花園の血を引く者としての証なのかもしれない。

 夏の風が店内を通り抜け、古い本のページをそっとめくっていく。その音は、まるで七十年前の記憶が、今ここで目覚めようとしているかのようだった。


 諏訪湖からの風が、廃屋となった湖月邸の朽ちた庭木を揺らしていた。かつての豪邸は、苔むした石垣と雨に打たれて色褪せた漆喰壁だけを残していた。

 諏訪湖畔の旧家湖月邸は、明治時代から続く由緒ある屋敷だった。七十年前、聖花園と呼ばれる施設から逃げ出した子供たちを匿ったという噂が残る場所である。今は廃屋となっているが、朽ちた漆喰壁の向こうに、まだ何か大切な記憶が眠っているかのようだ。

 九尾の狐は、錆びた門扉をそっと押し開ける。手入れの行き届かない庭には、夏草が膝丈まで伸び、蝉の声だけが虚ろに響いていた。

 玄関に近づくと、七十年前の記憶が建物から染み出すように漂ってくる。廃屋となった今も、この場所は当時の痕跡を色濃く残していた。聖花園から逃げ出してきた子供たちを、この家の女主人が匿った記憶。その慈悲の心が、朽ちた柱や床板にしみ込んでいる。

 不意に、九尾の狐に語り掛ける声があった。

「おや、珍しい来訪者ですね」

 静かな声に、九尾の狐は振り返った。庭の片隅に、一人の老人が佇んでいる。琵琶の名手として知られる井波篤人だった。

 九尾の狐が、井波に語り掛ける。

「この屋敷にも、よくいらっしゃるのかい?」

「ええ」

 井波は朽ちかけた縁側を見上げながら答えた。

「私の琵琶の音色を、子供たちが好んでくれましてね。ここで何度か演奏させていただいたものです」

 その言葉に、九尾の狐は深い関心を示した。建物に染み込んだ記憶と、それを知る生き証人。この場所には、現代のセラフィスに繋がる重要な手がかりが眠っているのかもしれない。

 夏の陽射しが、朽ちた障子を透かして屋内を淡く照らしている。その光の中に、七十年前の子供たちの影が、かすかに揺らめいているように見えた。


 セラフィスの中庭。白亜の建物が、夏の陽光を鮮やかに反射していた。

 九尾の狐は、中庭に面したガラス窓越しに、一人の女性を見つめていた。青白い廊下に佇むリンネ・ハルトマンの姿は、一見すると清楚な医療スタッフそのものだった。深い翡翠色の瞳、明るいブロンドの髪、純白のスタッフコートに身を包んだ姿。

 しかし九尾の狐には、その表層の下に潜むものが見えていた。黒い尖った帽子、青い髪、白い肌。西洋の魔女としての本質が、かすかな残像のように揺らめいている。

 リンネは突然、窓の方を向いた。その瞬間、二つの幻術が交錯する。九尾の狐の姿を隠す幻術と、リンネの魔女の姿を隠す幻術が、一瞬だけ共鳴した。

 リンネの困惑した呟きが聞こえる。

「まさか。噂には聞いていたけど。貴女が何故、この場所に?」

「フラムの配下の魔女か」

 九尾の狐は静かに告げた。「七十年前とは違い、随分と手際が良くなったものだな」

 リンネの瞳が、かすかに揺れる。その眼差しには、好奇心と警戒が混在していた。

「私は七十年前にはいなかったわ」

 九尾の狐は意味ありげに微笑んだ。

「そうかい、それは、そうだったかもしれないね」

 リンネが鋭く言う。

「フラム博士の邪魔はさせないわ」

 すると、九尾の狐は可笑しそうに笑った。

「案じるな。ここはわらわからすれば、他所の地。好きにするがいい。だが、西洋の魔女よ、そもそも、七十年前、龍神の力に屈したのは己らではないか」

 リンネは、九尾の狐の答えに安堵したような表情を瞳に浮かべながら、言った。

「それこそ、余計なお世話よ。そしたら、今日は何の用よ?」

 九尾の狐は、怪しく、笑う。

「何、別件さ」

 二人の間に、一瞬の沈黙が流れる。それは、これから起こるであろう出来事の、静かな予兆のようでもあった。


 半刻後の、セラフィスの中庭。夕暮れ近い陽射しが、木々の間から斜めに差し込んでいた。九尾の狐は、娯楽室の一室で、ベンチに腰かけて何かスケッチをしている少年を見つめていた。

 最上佑也である。リハビリの合間のひと時を、一人で過ごしているようだ。スケッチブックに鉛筆を走らせる手つきは、意外なほど繊細だった。

 九尾の狐は、その姿に強い関心を示した。

「この子の魂」

 純粋な輝きを放つ魂が、まるで炎のように揺らめいているのが見える。しかしその炎は、フラムの実験体たちが見せる赤白い炎とは異なっていた。より自然で、暖かな光を湛えている。

 佑也は不意に鉛筆を止め、窓の方を見た。九尾の狐の存在に気付いたかのように。しかし、その視線は虚空を彷徨うだけで、姿を隠す幻術を見通すことはできない。

 その代わりに、彼の周りの空間が、かすかに歪んでいるのが見えた。無意識のうちに、九尾の血筋の力が目覚めかけているのだ。時空を操る力が、まだ制御されないまま漏れ出している。

 九尾の狐は、薄く笑みを浮かべた。

「なるほど。これは、我が霊力が引き寄せられる訳だ。純粋な魂と、九尾の血筋。二つの力を持つ器として」

 スケッチブックには、中庭に咲く夏の花々が、細やかなタッチで描き込まれていた。その絵からは、誰かに見せたいという願いが、かすかに伝わってくる。その純粋な思いこそが、やがて彼を試練へと導くことになるだろう。

 夕暮れの風が窓を掠め、カーテンを静かに揺らした。


 諏訪湖畔に月が昇り、水面に月の道を描いていた。湖を見下ろす小高い丘の上で、九尾の狐は静かに月を見上げていた。

 その傍らに、もう一つの影が寄り添うように現れた。

「遅くなって申し訳ありません」

 ノアの声が、夜風に乗って届く。

 九尾の狐が軽く笑う。

「何、時間前に来たのは私の方だ。気にするな」

「有難うございます。本日は、メイを救出する方法について、お話しできると」

 九尾の狐は月から視線を移すことなく、薄く微笑んだ。

「純粋な魂との取引、ということだ」

「ええ」

 ノアは手を翳すと、空気中に霞のような幻影が広がった。その中に、水月神社で瞑想する美咲の姿が浮かび上がる。

「龍神の巫女、神崎美咲。純粋な魂の持ち主です」

 幻影の中の美咲は、池の畔で目を閉じ、静かに手を組んでいた。その周りを、龍神の力が繊細な波紋を描いている。

 九尾の狐は怪しく笑いながら、呟く。

「確かに、美しい魂ね。でも、違う」

「え?」

 ノアの声が、驚きに震える。

「確かに彼女の魂は清らかで美しい。でも、私が求めているのは、もっと純粋な輝きを持つ魂」

 九尾の狐は、諏訪湖の波紋に目を落とした。

「純粋すぎて、それが災いになりかねないほどの」

「そんな」ノアは幻影を消し、困惑した表情を浮かべる。「他に、誰が?」

 九尾の狐は意味ありげな笑みを浮かべた。

「自分で探したらよかろう。探せもせぬものを、わらわに献上できようか?」

 ノアは、グッと唇を噛み締める。

 九尾の狐が続ける。 

「この街のどこかに、汝の想像を超えるような、純粋な魂が眠っているのじゃ」

 月光が九尾の狐の姿を銀色に照らし出す。その表情には、何か深い計算が隠されているようにも見えた。

「でも、急いだ方がいい」

 九尾の狐は付け加えた。「フラムも、その魂を狙っているかもしれないからな」

 ノアは息を呑む。状況は彼女の想定とは違う方向に動き始めていた。だが、メイの封印を解くには、この九尾の狐に頼るしかない。それが、この七十年間、考え続けた結論だった。

 ノアは、軽く頭を下げる。

「お任せあれ」

 湖面に映る月が、二人の影を静かに照らしていた。その光は、これから始まるノアの苦難の静かな予兆のようでもあった。

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