第2回ー旅行
少女は窓の隙間からこぼれ落ちる光の塵を見つめながら、ふいに物思いに沈み、ゆっくりと目を閉じた。
老人は彼女の表情を見つめ、手にしていた茶杯をそっと置いた。
「どうしたんだい? パンとミルク、口に合わなかったかい?」
老人はやさしく問いかけた。
「ううん……ただ、昨夜のお話のことをまだ考えていて。もしあの男の子の光が消えてしまったり、誰かに奪われたりしたら……その子はもう星の国へ帰れなくなるんじゃないかなって。そうしたら、その子はどうするんだろうって……」
少女が小さな声でそう言い終えると、部屋の中は静まり返った。
老人はすぐには答えず、ただ遠くを見つめたまま、黙っていた。
心の奥をあたためてくれるような、かすかに震える茶の香りが、空気の中にゆっくりと広がっていく。少女はその香りを嗅ぎながら、ふいに胸の奥が少しだけ酸っぱくなるような気がした。
彼女はもう何も言わず、ただ静かに老人を見つめていた。
――チュン。
天井の隙間から、一羽の珍しい紫がかった青色の鼻鳥がひっそりと飛び込んできた。羽はかすかな光を帯び、まるで霧の中の水滴のように軽やかで、その小さな体はふわりと老人の肩へ舞い降りた。
老人はその頭をそっと撫でた。鼻鳥はわずかに羽を揺らし、目を閉じて、安心したように肩の上で休み始めた。
少女は息をひそめ、まるで夢の中の生きものを驚かせてしまうのが怖いかのように、じっとその小鳥を見つめた。
「きれい……その羽、まるで月の光に染まった霧みたい」
少女が小さく感嘆の声を漏らし、もう少し何かを言おうとしたその時、老人はそっと指先を伸ばして、彼女の唇に軽く触れた。
「しーっ……この子は鼻鳥っていうんだ。とても臆病でね、少しでも驚くと、くたくたになって飛べなくなるまで飛び回ってしまうんだよ」
少女は目を大きく見開き、息をこらしたまま、その小さな鳥を見つめた。まるで夢の中の生きものを驚かせてしまうのが怖いかのように。
老人はそんな少女の様子を見て、やわらかく微笑んだ。
「さあ、パンがまだあたたかいうちに、ひとくち食べなさい」
老人は少し間を置いてから、窓の外の光へ視線を向けた。
その光は、ずっと遠くから差し込んできたようで、まるであの物語の中の夜明けのようだった。
「昨日の話は、まだ終わっていないんだよ。あの男の子と女の子は、行き先も決めないまま、ただ手をつないで、一緒に森へ向かっていったんだ」
老人はそう語った。その口調は、何かをそっと空気の中へ置くようだった。
少女はうつむきながら静かに耳を傾け、まるで自分自身までその光に導かれて、物語の中へ引き込まれていくようだった。
霧が立ちのぼり、木々の影が揺れ、森の匂いがそっと二人を包みこんでいった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「ここ、すごく暗い……なんだか、何かが私たちを見てるみたい……」
少女は小さな声で言った。その声には、わずかな震えが混じっていた。
森は静かに二人を包みこみ、霧は足元にまとわりつくように漂っていた。枝葉のあいだには風もなく、光もなく、あるのはただ闇だけだった。
男の子は彼女の言葉を聞き、その指先がかすかに震えているのにも気づいた。
「僕の手を握って、心の中で光の形を思い浮かべて」
男の子は振り返り、少女にやさしくそう言った。
少女は彼を見上げ、ひと目だけ見つめてから、小さくうなずき、手を伸ばして彼の手を握った。
男の子の掌から淡い光が立ちのぼった。それは霧の中の火種のように揺れながら、ゆっくりと彼女の腕を包み、あたたかさが少しずつしみ込んでいった。
少女はその光を見下ろし、まるで何かにそっと引き寄せられるような目をしていた。
「ありがとう、ヴィガ……」
少女は小さな声で言った。
男の子は驚いたように目を大きく見開き、彼女を見つめた。
「どうしてそんなに驚いてるの?」
少女はくすりと笑いながら尋ねた。
「いや……今、君が僕に『ありがとう』って言ってくれたから……それに……」
ヴィガの声は途中で止まり、まるで喉の奥に引っかかったように消えた。
「それに、何?」
少女は笑いながら、少しいたずらっぽい口調で問い返した。
「君が……僕の名前を呼んだ……」
ヴィガは小さな声でそう言った。その声には、ほんの少しの照れがにじんでいた。
少女は目をぱちぱちと瞬かせ、それから口元にいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「じゃあ、これからはあなたのこと、『ねえ』って呼ぶことにする!」
「だ、だめ……僕、その名前が好きなんだ……」
ヴィガは慌てて手を振り、必死に否定した。
「じゃあ決まりね! あなたはヴィガ、そして私はレイリス!」
少女は嬉しそうにうなずきながら、まるでその名前をこっそり心の中へしまい込むように微笑んだ。
「レイリス……」
ヴィガは彼女の名前を小さく繰り返した。
「行こう! ヴィガ、森の中に何があるのか見に行こうよ!」
レイリスは掌の光を振りながら、笑って霧の奥へ踏み込んでいった。
「待って、レイリス!」
ヴィガは慌ててそのあとを追いかけた。
霧は足元にまとわりつき、木々の影は闇の中で交差し、光の痕跡だけが前方で明るくなったり暗くなったりしていた。
ヴィガは息をひそめながら、濡れた葉の上を踏みしめて進んだ。鼓動は、まるで森そのものに増幅されているかのように大きく響いていた。
彼の胸の内には、かすかな不安が広がっていた――闇が光を呑み込もうとしている。レイリスは、あまり遠くまで行ってはいけない。
異変を感じながらも、彼は足を速めた。
暗い森の中、すべてが静まり返り、耳元にあるのは自分の荒い呼吸だけだった。
前方で、かすかな光がちらりと揺れた。ヴィガは息を止め、その見慣れた輪郭を見つめた。
ようやく、ヴィガは彼女の姿を見つけた。だがその瞬間、彼女の掌の光は弱まり始め、その瞳に浮かんだ驚きが、はっきりと彼の目に映った。
「ヴィ――」
言葉が最後まで続くことはなかった。闇は重たい幕のように、静かに降りてきた。
「レイリス!」
ヴィガは闇の中で叫んだ。
彼に見えたのは、彼女の掌に残るかすかな光が、怯えた表情とともに闇へ呑み込まれていく、その一瞬だけだった。
ヴィガは森の中で何度も彼女の名前を呼び続けた。けれど、返事はついに返ってこなかった。
光の退いた場所には静寂だけが残り、まるで森全体が息を止めてしまったかのようだった。
耳に届くのは、風に揺れる木々の音だけだった。
「おじいさん! レイリスはどうなったの!? そのあと何があったのか、早く教えて!」
少女は興奮した様子で老人の体を揺さぶった。
「おやおや……」
老人は驚いて、あやうく茶をこぼしそうになりながら、手を振って苦笑した。
「ごめんなさい、おじいさん。大丈夫? やけどしてない?」
少女は慌てて尋ねた。
「大丈夫、大丈夫。これくらいの小さなやけど、なんでもないさ」
老人は微笑みながら答えた。
「そうだ。今日の昼ごろになると、海の上の竜巻が魚を陸まで運んでくるんだ。一緒に見に行ってみるかい?」
老人はそう提案した。
少女は目を丸くして、驚いたように言った。
「えっ、本当に? 魚がここまで来るの?」
「そうだよ。さあ、一緒においで」
老人はスープの鍋に蓋をして、ことこと煮えるままにしてから、やさしい笑みを浮かべて外を指さした。
「そうだよ。さあ、一緒においで」
少女は目を丸くして、驚いたように言った。
「えっ、本当に? 魚がここまで来るの?」
老人は微笑みながらうなずいた。
二人は庭を抜け、古い石段を下りて、海辺のほうへ歩いていった。
太陽は空の高いところにのぼり、海辺の小屋からは香ばしい匂いが漂っていた。
彼らの出会いが紡ぎ出したこの物語が、いったいどんな未来へ続いていくのか――それは、まだ誰にもわからない。
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