第3回ー永夜の国
少女は好奇心に胸をふくらませながら、老人のあとを追って歩いた。海風が頬をなで、かすかな塩気を含んだ爽やかな涼しさを運んでくる。
「足もとに気をつけるんだよ。ここの木道は海水に削られていて、ところどころ脆くなっているからね」
老人は振り返り、やさしい声でそう注意した。
「はい、ありがとう、おじいさん」
二人は翠の小道をたどり、垂れた枝葉をくぐり抜けながら、岸辺へ通じる岩の洞へと入っていった。足もとの岩肌はわずかに湿っていて、海水の冷たさが靴底越しにじんわりと伝わってくる。
「もう少し先だよ。もうすぐ着く」
老人は小さな声で言った。
やがて、洞の出口から陽の光が差し込み、少女は思わず手をかざして目を細めた。
老人の指さす先へ視線を向けると、遠くの海の上に、小さな渦がひっそりと生まれつつあるのが見えた。
渦は少しずつ勢いを増し、海面がざわめくように波立ち始める。
すると突然、巨大な水柱が海から天へ向かってまっすぐ立ちのぼった。まるで空そのものを貫いてしまいそうなほどの勢いだった。
「……あれは?」
少女は目を大きく見開き、信じられないものを見るようにその光景を見つめた。
老人は遠くの水柱を見つめながら、何かを思い返すような、ゆるやかな口調で言った。
「こういう景色はね……この季節にしか、そっと姿を見せないんだよ」
その声には、どこか神秘めいた響きがあった。
「この竜巻は海の底から、いろいろな魚や貝を巻き上げて、陸まで運んでくるんだ。ほら、もう飛び魚が現れた」
水柱が立ちのぼったその瞬間、無数の飛び魚が銀の矢のように海面を突き破り、空に美しい弧を描きながら、静かに岸辺へと落ちていった。
珍しい貝殻や巻き貝もまた、水柱とともに降り注ぎ、砂浜の上できらきらと輝いていた。まるで陽の光が、そのひとつひとつに銀色の衣をまとわせたかのようだった。
少女は思わず口元を押さえ、ひとときも見逃すまいと、目を離さずにその壮大な景色を見つめていた。
「すごい……本当にすごい! おじいさん、この海には、こんなにも不思議な力が隠れているんですね!」
老人はほほえみながら、静かにうなずいた。
「そうだね。この景色を見るたびに、若かったころの不思議な日々を思い出すんだ。この海の水も風も、まるでまだ語り終えていない物語を、いくつも抱えているみたいでね」
少女は老人の背中を静かに見つめ、それから足もとの砂浜に散らばる光る貝殻へと目を落とした。胸の奥に、かすかなときめきが広がっていく。まるで、その語られなかった物語たちが、海風に揺られながらそっと漂っているようだった。
二人はしばらく岸辺に立ち止まり、波の音と陽の光に包まれながら、静かに肩を並べていた。まるで世界そのものが、その終わらなかった記憶に耳を澄ませているかのようだった。
やがて二人は、飛び魚を何匹かと貝殻を拾い、満ち足りた笑みを浮かべながら、一緒に小屋へ戻っていった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
小屋の中には、先ほどから煮込まれていた香りがまだ漂っていた。かぼちゃと生姜の匂いが空気の中をゆっくりと流れ、海風と混ざり合って、やわらかな静けさを生み出していた。
老人は扉を開け、鍋の火加減を確かめてから、ほほえみながら言った。
「少し座っていなさい。昼ごはんは、わしが用意するから」
少女はこくりとうなずき、椅子に腰を下ろして頬杖をついた。けれどその視線は、いつのまにかまた窓の外へ流れていき、心はひそかに、まだ終わっていないあの物語へと引き戻されていた。まるで海風にそっと導かれるように。
「おじいさん、それで……レイリスとヴィガは、そのあとどうなったの? 二人は無事だったの?」
少女は声をふるわせながら尋ねた。その口調には、心からの案じる気持ちがにじんでいた。
老人は手にした茶杯をそっと置き、静かにうなずいた。その口元には、どこか意味深な笑みが浮かんでいた。
「レイリスとヴィガは、たしかにたくさんの困難に出会った。けれど、そのぶん二人の絆は、もっと深くなっていったんだ……」
老人の声は低く、遠い記憶をなぞるようだった。
「あの日、二人は濃い霧に包まれた森へ足を踏み入れた。レイリスはかすかな光を灯しながら前を歩き、ヴィガはそのすぐ後ろをついていった。両手で荷物をしっかり抱えながらね。森の奥に満ちていた闇と静けさは、何かよくない気配を予告しているようでもあった……」
老人はそこまで語ると、ふと口を閉ざした。少女は息をひそめ、続きを待った。
「すると突然、レイリスの光が、まるで何かに奪われたかのように一瞬で消え、その姿も闇の中へぼやけていった。『レイリス!』とヴィガは必死に叫んだ。けれど、その声は夜の闇に呑まれて、返ってきたのはこだまだけだった……」
「前に話したのは、ここまでだったね?」
老人は少女のほうを見て、やわらかな声でそう言った。まるで、続きを聞く覚悟が彼女の中にあるかを確かめるように。
少女は小さくうなずいた。その目は、少しずつ翳りを帯びていく窓の景色に向けられたままで、まるであの海風の向こうに、レイリスの姿を探しているかのようだった。
「……知っているかい?」
老人は静かに息をつき、それから続けた。
「実は、レイリスは今の両親の本当の娘ではないんだ。あの子のほんとうの出自は、永夜の国の奥深くに隠されている」
「永夜の国?」
少女は驚いて問い返した。
「そうだよ」
老人は空をかすめていく渡り鳥を見つめた。まるで、長く閉ざされていた真実の気配をその先に見ているかのように、静かにうなずいた。
「あの国は世界の果てにある。永遠の闇に包まれた、神秘の国だ。レイリスはもともと、その国の姫だったんだ。けれど、口にすることもできないある秘密のために、この世界へ連れてこられ、今の両親の養女として育てられることになった」
「じゃあ……本当のお父さんとお母さんは?」
少女は思わず身を乗り出すようにして尋ねた。
老人は遠くを見つめたまま、深いまなざしで、どこか久遠の慈しみをにじませながら語った。
「本当の両親は、永夜の国を治める者たちだ。夜と星々を操る力を持っていた。けれど、あの子の運命は、あの星空の下には収まりきらないものだと、ずっと前から知っていたんだ。だからこそ、レイリスを守るために、この遠い地へ送り出した。闇の勢力の追跡から逃がすためにね……」
「だから……レイリスが『黒い穴に追われてる』って言っていたのは、そのことなの?」
少女はようやく、その言葉の意味に触れた気がした。
「そうだよ」
老人は茶をひとくち飲み、静かに言葉を継いだ。
「それは、あの子の力の一部でもあり、永夜の国が彼女の中に残した、ただひとつの印でもあるんだ。だからこそ、レイリスの運命は、今もなおあの国と深く結びついている。そしてそれこそが、この先あの子が必ず向き合わなければならない試練なんだよ」
少女はそれを聞き終えると、しばらく何も言えなかった。そんな運命を背負ったレイリスが、この先どんな試練に立ち向かっていくのか、想像することさえ難しかった。
その時、少女はようやく気づいた。この物語の奥底には――自分が思っていたよりも、ずっと重く、ずっと複雑なものが眠っているのだと。
老人は深く考え込んでいる少女を見て、あたたかな手を差し伸べ、そっとその肩を叩いた。
「お嬢さん……この物語は、たしかに簡単なものじゃない。けれどね、物語というのは、ゆっくり語られてこそ、本当の深みが見えてくるものなんだよ」
少女は顔を上げ、老人の少し疲れたような表情を見た。その瞬間、胸の中にあたたかな気持ちが広がった。
こんなにも長く、自分のために話してくれているのだから、きっとおじいさんも疲れているのだろう――そう思った。
「おじいさん、少し疲れてる?」
少女はやさしい声で尋ねた。
老人はほほえみながら、ゆっくりとうなずいた。
「うん……年を取るとね、長く話し続けるのは少し堪えるんだ。でも、黄昏どきになれば、この物語はもっと胸に響くようになるよ」
少女は小さくうなずいた。胸の中に、申し訳なさと感謝が一緒に広がっていく。
彼女は立ち上がり、そっと老人を支えた。二人は静かな陽だまりの中を歩き、小屋のソファへ向かった。
「じゃあ、黄昏になったら、また続きを聞かせてね」
少女はそう言って、瞳いっぱいに期待の光を宿しながら、やわらかく微笑んだ。
老人もまた微笑み返し、ソファに腰を下ろすと、静かに目を閉じた。体の力を少しだけ抜くようにして。
部屋の中には、茶の香りと海風が溶け合った静けさだけが残っていた。少女はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがてそっと窓辺へ歩み寄り、遠くの海を見つめた。その胸の中では、老人の語った物語が、静かに何度も繰り返されていた。
彼女にはわかっていた。黄昏が訪れたとき、また新しい答えが語られるのだと。そしてその時、自分はきっと、真実にもう少し近づいているのだろうと。
小屋の外では、海風が変わらずやさしく吹いていた。時間はまるで、この瞬間だけ立ち止まったかのように、静かに黄昏の訪れを待っていた。
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