09 あなたと同じものが好き
突如発せられたイーリスの名に、周囲がざわざわと動揺の声を漏らし始めた。
不安げにさまよう幾つもの視線が、やがてイーリスを見つけだす。
あぁ、この目だ。久しぶりに見た。
イーリスを取り囲む群衆の瞳が、驚きから恐怖の色へと染まっていく。そして耐えきれなくなったかのように、視界から外すのだ。
次は声が止む。イーリスがこの場にいることの確認が済んだら、誰も喋らなくなる。
不意にイーリスを蔑む言葉を口走ってしまえば、自身の血が流れることを理解しているからだ。
それでいい。大正解だ。あと少し、恐怖の権化であるイーリスがいなくなるまで我慢してくれ。
遠くで男たちが瓦礫を処理する音だけが、ただ虚しく響いている。
イーリスは普段と変わらぬ笑みを意識してニコラスを見上げる。強く振舞わなければいけないと、その一心だった。
「みんなを怖がらせてしまったわ。屋敷へ帰りましょう」
一瞬戸惑ったニコラスであったが、彼は瞳をふっと和らげる。イーリスの気持ちなどお見通しと言わんばかりに。
「少し、話をしましょうか」
それだけ言うと、ニコラスはイーリスの返答を待たず石畳の階段に腰を下ろす。ローブの袖口からのぞく手が、イーリスを導くように石段をぽんと叩いた。
イーリスは小首を傾げながらもニコラスの隣へ座った。両膝を揃え、二つ下の段へ踵をつける。反り返ったつま先が、雲一つない青空を指している。
泥の臭いを運ぶ風に乱された前髪を、イーリスは指先で摘み、整えた。流れる沈黙。後ろから感じる刺すような視線。
ニコラスの顔を覗き込もうとしたところで、彼の整った唇がすっと動く。
「イーリス様は、甘い物はお好きですか?」
「……好き、だけど?」
聞き返してしまった。質問に答えたのではなく、一体何を言っているんだ、という圧を込めてしまった。
イーリスは長い睫毛を揺らしながらパチパチと瞬きする。ニコラスが照れくさそうに後頭部をかいた。
「そうでしたか。実は私も甘い物に目が無くて、この街の菓子店のワッフルの虜に……」
「ハンナ菓子店のワッフルね!」
イーリスは身を乗り出してニコラスに顔を近づける。わずかに見開かれた彼の瞳を見て、イーリスは我に返り元の位置へと戻った。
「……私も、大好きなの」
目線を落とし、革靴の先同士をコン、コンと合わせる。ニコラスが得意げに指を立てた。
「昨日から新作を販売し始めたのはご存じですか?」
「ええっ!?」
はしたない声を出してしまったが、もうどうでもいい。イーリスはワッフルのことで頭がいっぱいになっていた。
「どんなワッフルなの? わたしまだ食べてないわ」
「生地の真ん中を境に色が変わっているのです。半分はいつもの小麦色、半分はなんと薄い赤をしています」
「どういうこと!?」
「なんと、赤色の方の生地にはいちごが練り込まれているのですよ」
「えっ! そんなの最高じゃない」
「ええ、至福のひと時でした」
イーリスは脳内で錬成したいちごのワッフルにサクッと噛みついた。想像するだけで、よだれが口の中に溢れてくる。ニコラスは遠くを見つめながら「あの味で庶民に手が届く値段とは……」と呟いた。
「二、ニコラス様…… その…… 大丈夫なのですか?」
顔を引きつらせた男が忍び寄り、ニコラスに尋ねる。先ほどイーリスに声をかけようとした男だ。
大丈夫というのは、イーリスと話をして大丈夫か? という意味だろう。
イーリスは上半身だけ体を振り向かせる。石を投げつけられた鳥のように、イーリスを見ていた群衆の視線が離散した。人の目の檻の中にいることを忘れかけていた。
「イーリス様! 私もワッフル好きです」
人の群れから一つ、少女の声が上がる。隣の親が「止めなさい」と慌てて口を塞いだ。
「僕も好きです!」「私だって」「新しいワッフルも美味しいですよ!」
続々と子どもたちがイーリスに呼びかける。大人は困った様子で互いの顔を見合わせていた。
街の子どもたちはイーリスのことを話すなとしつけられてはいるが、きっとその本質を理解していない。
話に聞くイーリスが自分と同じ食べ物を好んでいる。
純粋無垢な子どもだからこそ、その事実をイーリスに伝えずにはいられなかったのだろう。
「みんなもわたしと同じなのね」
イーリスが微笑みかける。子どもたちはより一層、きらきらと目を輝かせた。
「これが答えですよ」
ニコラスが男を見上げて告げる。
「身分が違っても、加護があってもなくても、私たちは同じ人です。互いに寄り添えば、恐怖に支配されることはないのです」
男はぐっと拳を握りしめる。長く息を吐き出すと、しゃがみ込んでイーリスと目線を合わせた。
「イーリス様、先ほどのご無礼をお許しください。それと復興のお手伝い、本当にありがとうございました」
男は深々と頭を下げると、戸惑う人々の方を向いた。
「お前らも同じだろ、イーリス様に感謝してるよな?」
わっと群衆が沸いた。夜のように静かだった通りが、イーリスに感謝を伝える声で埋め尽くされる。
イーリスは急いで立ち上がると、群衆に応えるように手を振った。
「イーリス様は本当にお優しいですね」
石段から立ち上がり、ニコラスは汚れを落とすように自身のローブを払う。
「ニコラスは乱暴すぎるわ」
「これはこれは、失礼いたしました」
胸に手を当て、ニコラスは頭を下げる。どう見たって反省していないだろうに。
くすりとイーリスが笑みをこぼす。それを見てニコラスも釣られるように笑った。
「それでは帰りましょうか」
「一つ、寄りたいところがあるのだけれど」
「奇遇ですね、私もです」
イーリスはニコラスの隣に並ぶ。二人は甘い香りの漂う路地へと向かっていった。




