07 ニコラスの課外授業
「おお、ニコラス様がいらっしゃったぞ」
不意に耳を突いた言葉にイーリスは顔を上げた。だぼっとたわんだフードの縁から感じる、朝の陽射しと群衆の視線。それと、微かに漂う乾いた泥の臭い。
「ニコラス様、今日もよろしくお願いします」
「もちろんですよ」
背中からぐるりと覗き込むようにして、イーリスはニコラスを見上げた。
「ニコラス様、いつもすみません」
「いえいえ」
ニコラスを呼ぶ声は連鎖するように増えていく。品のある笑顔を浮かべ、ニコラスは胸の前でひらひらと手を振った。まるで本物の王子様のようだ。
「ニコラス様、そちらの方は?」
髭を伸ばした男が問いかける。イーリスはフードを被り直して再びニコラスの背に隠れた。
「私の教え子なのです」
「そうでしたか。いい先生に恵まれましたな」
機嫌よく笑いながら男が離れていく。
自身に向けられた言葉だと理解はしていたが、イーリスは何も返せなかった。
当然だ。この場にイーリスがいることがバレてしまえば、大騒ぎになってしまう。
「ニコラス……!」
困ったように眉を下げたイーリスが呼びかける。しかしニコラスは気にかける素振りを見せない。
「さぁ、授業を始めますよ」
ニコラスの瞳が遠くに焦点を結ぶ。その視線を辿り、イーリスは息を呑んだ。
石造りの階段を下ったその奥。パズルのピースのように敷き詰められた家屋が、ある一点を境に全て倒壊していたのだ。生と死をわかつ境界線が、この高さからだとくっきりと見えた。
ニコラスが静かに口を開く。
「数週間前に豪雨災害があったことはご存じですか?」
「話くらいは……」
引きこもりであるイーリスは外の情報に疎かった。それがイリステラ家の領地であってもだ。
男たちが土砂や瓦礫を集め、荷車に乗せている。遠目からでも感じる荒い息遣い。復興作業の最中のようだ。
だが、どう見たって人手が足りていない。
「すぐにお父様へ報告します。今日の授業はもう――」
「いいえ、イリステラ公は素晴らしい働きをなさいましたよ」
言葉の意図を読み取れず、イーリスは両目を細めニコラスを見上げる。
「川の氾濫によって崩れかけた橋をすぐに復旧してみせました。街が孤立してしまえば、必要な物資が滞ってしまいますからね。壊れた家屋の処理も、近いうちに始めるとおっしゃっていましたよ」
「そうなのね……」
イーリスは自身の薄い唇を噛んだ。
胸が締め付けられるのと同時に、何も知らない無能な自分への怒りがふつふつと込み上げてくる。
「ニコラス、わたしにもできることはある?」
「その言葉を待っていました」
嬉々としてニコラスが取り出したのは、細長い木箱だった。両手で差し出されたそれをイーリスはまじまじと見つめる。
「これは一体?」
「熱心に授業を受けてくださる生徒へ、私からささやかながらの贈り物ですよ」
「ええっと……」
「受け取ってはいただけませんか?」
「そうじゃなくて!」
ニコラスが残念そうに口角を下げたのを見て、イーリスは咄嗟に声を張った。
「手渡しのプレゼントなんて、お父様以外からは初めてだったから…… 驚いちゃって……」
勢いよく喉を通った声がだんだんと小さくなる。公爵家の娘としてなんとも恥ずかしい言い訳だ。
イーリスは両手を組みもじもじと親指を動かす。火が出そうなくらい顔が熱い。
「そうでしたか」
ニコラスが噛みしめるように呟く。
ニコラスの顔が見られない。笑われてはいないだろうか。
その時イーリスは自分の心の矛盾に気付いた。
人に嫌われることを望んでいたはずなのに、どうしてニコラスにはそうなってほしくないのだろう。
「でしたらとても光栄です。ご家族以外で贈り物を差し上げるのは、私が初めてということですね」
恐る恐る顔を上げると、嬉しそうにほほ笑むニコラスがいた。
イーリスは胸をなで下ろし、丁寧に木箱を受け取る。
「開けてもいい?」
「どうぞ」
煌々と目を輝かせ木箱の表面に触れる。蓋を開けると、落ち着いた木の香りが広がってすっと鼻を抜けていった。中には、厚手の布に埋もれた木の棒のようなものがある。
「これは…… 杖、かしら?」
イーリスの目からうっすらとだけ光が失われる。中身を花や、装飾品だと勝手に期待しすぎたイーリスが悪いのだけれど。
気を取り直し、手に取った棒を食い入るようにイーリスが眺める。「ご名答です」とニコラスが褒めるように言った。
「かなり作りもいいみたいね…… っ……!?」
イーリスが不意に目を見開いた。杖の持ち手の部分。握れば隠れてしまうであろう位置に、漆黒の獅子のマークがある。ニコラスの出身、サハンカ王国の国章だ。
昨晩のアドマンドとの会話が、イーリスの脳内に蘇る。
プラネーカ王国とサハンカ王国の関係は良好ではないらしい。一貴族の娘であるイーリスが、この杖を簡単に受け取ってよいのだろうか? イリステラ家が水面下でサハンカ王国と繋がっていると、いらぬ疑いをかけられるかもしれない。
「ニコラス……」
「お気に召しませんでしたか?」
両方の眉を下げて、ニコラスはイーリスを見つめる。
「ありがとう、とっても嬉しいわ」
受け取らない、なんて言えるわけがなかった。
ニコラスに嫌われたくない、プレゼントまで用意してくれたのに悲しい思いをさせたくない。
そして何より。
嬉しいという感情を押し殺せるほど、イーリスは器用ではなかった。




