06 二人ならどこへでも
「もう一度おっしゃっていただけますか?」
「ですから、今日の授業は外で行います」
イーリスは悔しげに奥歯を噛みしめてニコラスを見上げる。イーリスが長い間引きこもっているのを知っているくせに。この男は悪魔なのか。
だけど良い機会ではある。そもそも部屋のカーテンを開けるだけなんて、引きこもり脱出の第一歩にしてはあまりに難度を落としすぎた。
「わかりました」
自分ならやれる。そう言い聞かせ、イーリスは言葉を紡ぐ。
「庭の隅であれば人目に付きにくいです。メイドたちに授業のことを伝えていただけますか?」
「何をおっしゃいますか。外とは、屋敷の外ではなく敷地の外のことですよ、イーリス様」
イーリスの口があんぐりと開く。そんなことなどおかまいなしに、ニコラスは続けた。
「街に向かいます。普段のドレスでは目立ちすぎるので、申し訳ございませんがこちらをお召しになってください」
固まったままのイーリスに手渡されたのは、ニコラスと同じフード付きの灰色のローブ。
「準備が整いましたら出発しましょう」
イーリスは目線を手中のローブに固定したままぴくりとも動かない。頭の中がパニックだった。
いやいや、さすがに街にまで行くのはやりすぎだ。負けを認めたようになるのは癪だが、今日ばかりは庭で勘弁してもらおう。それでも大進歩なのだから。
決して怯えているのを悟られないよう、頬を引きつらせながらも笑顔を作りイーリスは顔を上げた。
「ニコラス様、今日は……」
イーリスの前には、すでにニコラスの姿はなかった。
♢♢♢
交易都市レムズブルーク。二本の大河と海に囲まれたプラネーカ王国の主要都市だ。イリステラ家は代々この街の管理を任されている。
ここに来るのは何年ぶりだろうか。ざわざわとした街の喧騒、たまに響く行商の甲高い声。
まさかこのような形で訪れることになるとはと、イーリスは深くため息をつく。
「あ、あまり速く歩かないでください、ニコラス様……」
頭をフードですっぽりと覆ったイーリスが、ニコラスのローブを掴む。イーリスの視界には、彼の大きな背中と石畳の地面しか映っていない。
「これは失礼しました」
ニコラスは振り向くと、少しかがんでイーリスの顔を覗き込んだ。少し暖かい吐息がイーリスの鼻をかすめる。
「イーリス様、私のことはニコラスとお呼びください」
「ですがニコラス様は本当は……」
伸ばした人差し指を、ニコラスはイーリスの唇に添えるように近づける。
「二人だけの秘密がバレてしまいます。どうか、いつものように接してください」
血管の浮き出た大きな手がイーリスから離れていく。「わかったわ」とイーリスは顔を隠すように両手でフードを抱きしめた。なぜか目を合わせられなかった。
ニコラスがイーリスの家庭教師となって十日は経つ。父のアドマンドを除けば、こんなにも長くイーリスの近くで過ごした人間はいなかっただろう。
イーリスは人が怖い。なにも自身の加護だけが理由なのではない。単純に、人がどういうものかわからないのだ。
部屋にこもりきりのくせに真っ赤なドレスを身に纏うのも、目力を強調するような濃い化粧をしているのも、全ては相手を自分から遠ざけるため。
恐怖の対象として見られることが辛いのに、近づくなと相手に恐怖を振りまく。
だけどイーリスは今、いつもの鎧なしに外にいる。
「もう少し歩きますので」
前を行くニコラスのローブを、イーリスの二本の指が挟む。ニコラスは慈愛に満ちた笑みを漏らしただけで、振り返ったり声をかけたりすることはなかった。
イーリスはニコラスにぴったりとくっつくようにして歩く。バラバラだった二人の足音が、次第に重なっていく。
外の世界はもっと怖いと思っていた。けれどそんなに怖くない。
ニコラスと一緒なら、どこへでも行けそうだった。




