04 二人だけの秘密
「いつまで繰り返せばいいのよ」
宙に浮いたこぶし大の石が、ゴロンと赤い絨毯に落下する。
「物体の操作は魔法の基礎ですから。せめて一分は持ち上げたままにならないと」
分厚い歴史書をめくりながらニコラスが淡々と言った。イーリスは深いため息のあと、再び石に向けて両手をかざす。
指先に血流を集中させるイメージで、自身の体を流れる魔力を集める。そして石に注ぎ込むように、魔力を解き放つのだ。
触れてもいないのに、ゴツゴツとした触感が手の中にある。あとは真下の石を持ち上げるだけ――
「浮いてる、浮いてるけど……」
強張った肩がガクンと下がると同時に、目の高さにあった石が床を打つ。ニコラスの防御術式によって、絨毯や床に傷がつくことはない。
「十八秒ですね。一分維持できるようになったら、石からそこの鉄球に切り替えますので」
ニコラスが部屋の隅に転がる鉄球を指差す。その鉄の塊も、何度も持ち上げている石も、イーリスの加護によってニコラスの頭部へ落下したものだ。
「厳しすぎない!?」
「大丈夫です。イーリス様ならできますよ」
イーリスが唇を尖らせる。ぱたんと本を閉じ、ニコラスは柔らかな眼差しを向けた。
ニコラスがイーリスの部屋へ不法侵入を果たした日。ニコラスはイーリスの家庭教師になることが正式に決まった。もちろんニコラスの不敬は、イーリスのみが知るところだ。
空いていた客室がニコラスに割り当てられ、朝と昼の一日二回、イーリスの自室で魔法の訓練が行われている。
「さすがにもう飽きてきたわ。朝から石とにらめっこしてばかり……」
「そのようなことをおっしゃらず。イーリス様は素晴らしい才能をお持ちなのですから」
本音なのか生徒を持ち上げる建前なのか。ニコラスの穏やかな瞳から、その真意を読み取ることは難しい。イーリスが人を避けて暮らしてきたことの弊害かもしれないが。
「そんな言葉でやる気が出るなら苦労しないわ」
苦言を呈しながらも、イーリスはもう一度絨毯で転がる石に両手をかざす。
ニコラスは考え込むように指を顎に添えると、思いついたように口を開いた。
「今日中に一分間石を浮かすことができたら、イーリス様の言うことを何でもお聞きしましょう」
「何でも!?」
イーリスがひゅんと首を回す。
「おっと、石が落ちそうになっていますよ」
わあっ、と声を漏らしながらイーリスは視線を戻す。首元の高さにあったはずの石は、ちょうどドレスのスカートが広がる腰ほどまで落ちていた。指先に力を入れ直すと、羽が生えたように石が浮上する。
「さっきの言葉、撤回なんてしないわよね?」
「もちろんですとも」
ニコラスが優しく微笑みかける気配がする。
イーリスは無意識に軽く唇を舐めた。
誰かとこんなたわいもないやり取りをするのは初めてだった。
今この瞬間は、魔法が使えるようになりたいだとか人が怖いなんてものは、どこかへ飛んでいってしまったようだ。
楽しい。
とても純粋で人を動かす根幹であろうその感情だけが、イーリスの体を満たしていた。
「凄いですよイーリス様! 一分経ちました」
「ちょっと黙ってて」
イーリスの目には空中で漂う石の塊しか映っていない。重力に従おうとするそれを、ただ懸命に押し戻す。
「あぁ…… もう…… だめ……」
イーリスの両手が膝を突く。ゴトンと落ちる石。肩で呼吸をしながら、イーリスは火照った体を鎮めた。
子どもの時以来だろうか。全力で庭を走った後のような疲労感が、全身を巡っている。
この感覚は嫌いじゃなかったなと、イーリスの頬が自然と緩む。
「お見事ですイーリス様、一分二十九秒です」
見上げたニコラスの顔は、言葉とは裏腹にほとんどが驚きで構成されていた。
どうやらイーリスに魔法の才があることは本当らしい。
「当然、でしょ……!」
歯を見せながら勝気に笑うと、ニコラスは困ったように眉を垂らして微笑する。
これも思い出したことだが、イーリスは小さいころから負けず嫌いなのだ。
「それじゃあ約束ね」
息が整ったところで、イーリスが嬉々として口を開いた。ニコラスが気まずそうに目を泳がせる。
「あなた、初めてわたしの部屋に来た日。わたしを泣かせたでしょ」
「イーリス様、誤解を招く言い方は……」
「その時渡してくれたハンカチ」
イーリスの言葉に、ニコラスの瞳が微かに揺らいだ。微細な変化を見逃すことなく、イーリスは続ける。
「隅に漆黒の獅子が刺繍されてあったわ。あれは隣国、サハンカ王国の国章。なぜあなたが持っているの?」
「それは……」
「言い逃れはできないわよ。それに、あのハンカチは洗礼式を終えた王族が短剣と共に手渡される物。わたしも一度お父様と参列したから、目に焼き付いているわ」
絨毯を踏み、イーリスはぐんぐんと詰め寄る。ニコラスは両手を上げて半歩下がった。
さらにもう一歩、イーリスが踵の高い靴を前に出す。強張るニコラスの瞳いっぱいに、イーリスの顔が映し出されている。
「わかりました、降参です。嘘をつくわけにもいきませんから」
言いながらニコラスは、部屋の端にある鉄球を一瞥した。
ローブを翻してイーリスから距離を取ると、ニコラスは右手をそっと自身の胸に当てる。
「私の本当の名はニコラス・バーナンド。サハンカ王国の第一王子です」
「サハンカ王国の第一王子は、ゴルドフ殿下よ。そんなでたらめな嘘を」
イーリスが凛とした瞳を細めるが、ニコラスはさも当たり前のことを言うかのように平然と告げる。
「ゴルドフは私の弟ですね。私は国を追放された身ですので、ゴルドフが第一王子となっているのです」
「――ちょっと待って。国を追放? ゴルドフ殿下が弟?」
開いた手をニコラスに突きだし、もう一方の手でイーリスは自らの眉間を押さえ込む。
「でも、やっぱり嘘よ。そんな話聞いたことないわ」
「それはそうですとも。サハンカ王国にとって、私は隠しておきたい存在ですからね」
ニコラスはピンと伸ばした指を、自身の頭頂部に当てる。
「ここに何も落ちてこないことが、証明にはなりませんか?」
イーリスは口を両手で覆い、息を呑んだ。自分の加護のことは、自分が一番よく知っている。
人を欺き傷つける嘘はイーリスに通用しない。ニコラスが嘘をついているなら、今頃彼の頭の上に石の塊が落ちていることだろう。
「あなたが、サハンカ王国の王子……?」
イーリスが目を剥く。どこか得意気に、ニコラスは指を唇に添えて言った。
「このことは、イーリス様と私だけの秘密ですよ」




