29 心だけは一つになれたと思った
「ゆっくりでよいのです。さぁ、どうぞ」
見上げたニコラスの顔は自信に溢れていて、イーリスを安心させてくれる。彼に導かれるように、イーリスは右足をそっと前に出した。
「そう、その調子です」
続けて左足、右足。前に三歩、後に三歩。
二人は緩やかな曲線を描くように部屋の中を回る。
ニコラスのローブの擦れる音。吐き出す息。
練習したステップは、絨毯のせいで少し籠もった響きをまとう。
ニコラスがイーリスの腰に手を回す。けれどその手は、絹のドレスに触れる直前で止まった。
ニコラスからイーリスに触れてしまえば、加護が発動してしまうからだ。
ニコラスの熱が微かに背中から伝わる。
本当は直接温もりを感じたい。でも、仕方がないと思うしかなかった。
「下を向いてはいけません。胸を張って」
言われるがまま目線を上げると、視界はニコラスの顔でいっぱいになる。
包み込むような瞳を向けられ、イーリスの胸はドクンと跳ねた。手袋越しにニコラスの手の平に添えた右手から、じわじわと汗が滲む。
「いいですよ。あと少しです、集中して」
ニコラスと呼吸を合わせ、互いに位置を入れ替えるようにターンする。スカートの裾が軽く持ち上がり、可憐な花弁のように広がった。
「素晴らしかったです。イーリス様」
ニコラスがゆっくりと足を止める。それに合わせ、イーリスも立ち止まった。
「どんなもんでしょ、って言いたいところだけど。まだまだね」
ニコラスのリードは踊りやすかった。だが、緊張もあったせいか足がもたついてしまった。動きにくいローブでも平然としているニコラスとは、あまりに技量の差がある。
「でも安心して、絶対本番に間に合わせるから」
イーリスが力こぶを作ってニカリと笑う。「イーリス様ならできますよ」と、ニコラスは呆れと愛おしさを混ぜたような笑顔で応えた。
「では、私はこれで。また一緒に練習する時間を設けましょう」
ニコラスは軽くお辞儀をすると、部屋の外へと向かっていく。
「待って、ニコラス!」
ほとんど反射的に、呼び止める声がイーリスの喉を飛び越えた。ニコラスが少し驚いたように振り返る。
「あの…… その……」
イーリスの目が、左に右に泳いでいる。
何を言おうかなんて考えてはいなかった。きっと今だけは、一人になりたくなかったんだと思う。
でもそんなこと言えるわけもなくて、イーリスは無理に笑顔を作ってしまう。
「ごめんなさい、なんでもないわ」
後ろ手に指を組み、覗き込むようにしてニコラスの顔を見上げる。
だけど、ニコラスはどこか心配そうに眉尻を下げた。イーリスの胸の内が、透けて見えているかのようだった。
「イーリス様、少し後ろを向いていただけますか?」
「いいけど……」
イーリスは言う通りに背を向けた。そして――
「っ……!?」
背中と両腕に、柔らかな布の生地が触れた。とっさに掴んだそれは、ニコラスのローブだった。
「じっとしておいてください」
吐息交じりの少し照れた声が、イーリスの耳元をくすぐる。
ニコラスの体温を、髪を挟んで右の頬から感じた。
ニコラスは直接その手で触れることなく、イーリスの体を抱きしめた。
心臓の音が、耳まで響く。
触れているのはローブだけだ。でもニコラスは、確かにそばにいる。
「イーリス様、あなたは一人ではありません。ニコラスがおります」
「うん…… うん……」
肩に寄せられたニコラスの腕を、イーリスが優しく、包むように握りしめる。
イーリスの加護が、二人の体が交わることを許さない。
だけど今この瞬間、心だけは一つになれたとイーリスは思った。




