28 もう、あの日の弱い自分じゃない
「一、二、三…… 一、二、三……」
リズムを口ずさむのに合わせメロネが手を叩く。
右足を出して、左足、そして回転。頬を伝う汗が、窓から入る陽の光で煌めく。
練習用の淡い黄色のドレスは、普段着ているものよりずっと軽い。
イリステラ邸に戻ってすぐ、イーリスはレガードの言いつけ通り自室でダンスの練習を始めた。
引きこもってばかりいたイーリスは、舞踏会に参加したことがない。イーリスの加護は触れてきた相手を傷つけるのだから、そもそも誰とも踊れないのだ。だから、ダンスなんて練習する必要がなかった。
「足下ばかり見ていてはだめよ。背筋を伸ばして、遠くを見て」
両手で同じテンポを刻みながら、メロネは呼びかける。
「はい、お母さま」
ステップを踏んで、足を交差し、また回る。絹のスカートの裾が、風になびくカーテンのように揺れる。
間違えてはいけないという意識が、イーリスの体を固くした。
パン、パン、パンと、メロネが細かく手を鳴らす。
「イーリス、少し休憩にしましょう」
「いえお母さま、わたしはまだやれます」
両膝に手をつき、イーリスはメロネの顔を覗く。急に動きを止めたせいか、ひどく息を切らしている自分に気がついた。
「だめよ。ダンスは一朝一夕で身につくものではないし、怪我でもしたらどうするの?」
メロネは心配そうに眉を曇らせる。それは、久しく見ることのなかった娘を想う母親の顔だった。
「わかりました……」
息を整え、イーリスは強張った体をほぐすように伸びをする。背中の筋肉がほぐれて気持ちがいい。思っていたよりも背筋が曲がっていたようだ。
今までの自分なら、真面目にダンスを練習することはなかっただろう。人前に出るだけで相手に恐怖を与えるのだから当然だ。イーリスなんていない方がいい。
だけど今は違う。
もう、あの日の弱いイーリスではないのだ。
♢♢♢
「一、二、三…… 一、二、三……」
口ずさむリズムに合わせ、イーリスは床を踏む。前よりよくなっている実感はあるが、思い描いた通りに体は動いてくれない。
自室の姿見に映る自分は、下を向いていた。
練習を始めてから数日が過ぎ、イーリスは焦っていた。
「ニコラスです。部屋に入ってもよろしいですか?」
「……構わないわ」
扉越しの籠った声に、集中して狭くなっていたイーリスの視界が広がった。どうやらノックの音を聞き逃していたようだ。
扉が開き、ニコラスと目が合う。肩で息をするイーリスを見て、ニコラスは心配そうに両眉を下げる。
「苦戦しているそうですね」
「まだ時間はあるわ……」
汗で張り付いた前髪を払い、イーリスは姿見に視線を移す。
「例の晩餐会の肝は、婚約の発表です。完璧を目指さなくともよろしいのですよ」
「それじゃあ、わたしが嫌なのよ……」
鏡の端に映るニコラスが、困惑した表情を浮かべた。
優しさから言ってくれたセリフなのはわかっている。イーリスのダンスの出来が、サハンカ王国との戦いに直接関わるものではないことを。
「わたしにできることは、これしかないから」
無理に口角を上げて、イーリスは鏡の中のニコラスに笑いかける。
ニコラスにふさわしい自分になりたい。せめて、晩餐会でニコラスに恥をかかせない自分でありたい。
その感情だけが、イーリスを動かしていた。
「イーリス様」
鏡に映るニコラスが優雅に一礼し、手を差し出した。イーリスはとっさに振り返る。
大きな手の平をこちらに向け、ニコラスは静かに口を開いた。
「私と踊っていただけますか?」
「でも……」
「ダンスは二人でするものですよ」
軽く首を傾け、ニコラスは両目を柔らかく細めた。
「二人で、ですよ」
強調するように告げられた言葉に、イーリスは思わず息を呑んだ。
「……ありがとう」
イーリスは手袋に包まれた自身の指先を、ニコラスの手にそっと置く。
なぜかはわからなかったが、体が少し軽くなった気がした。




