23 敵の影
パイラとメロネがイリステラ邸を訪れる少し前。イーリスはニコラスの部屋の前にいた。ニコラスが寝込んでしまってから、今日で三日経つ。
コン、コン、コン。イーリスが扉を叩く。
「ニコラス、入るわよ」
お待ちくださいと声が聞こえたが、イーリスは気にも留めなかった。
「イーリス様、勝手に入らないでくださいと何度も……」
ベッドから半身だけを起こし、ニコラスは少し不服そうな様子でイーリスを見る。毛先の跳ねる猫っ毛はいつもよりぼさぼさで、顔はまだやつれたままだ。
「わたしの部屋にも勝手に入ってきたでしょ。鍵まで無理やり開けてね」
イーリスがジロリと見やると、ニコラスはたまらず口元を引き結んだ。
部屋の真ん中には、使われた気配のないソファとテーブル。ダークブラウンの本棚はニコラスが持ち込んだものだろうか。書斎机には、防御術式に関する本が開いたままになっている。
客室として元々使っていたこの部屋は、ニコラスの色に染まりつつあった。
イーリスはベッドに近寄り、手に持った皿をニコラスに差し出す。視線を落としたニコラスの目が、パチパチと瞬いた。小綺麗な器には、香ばしい焼き色のついたワッフルが乗っている。
ニコラスを元気づけようと、イリステラ家のお抱えシェフに作らせたものだ。
「あなた好きでしょ。ハンナ菓子店のワッフルじゃないけどね」
「そんな、いただけませんよ」
ニコラスが胸の前で手を振る。イーリスは「いいから」と、押しつけるようにして皿を渡した。
「ほら! 今日はお母さまと妹のパイラが帰ってくるの。あなたを紹介したいから元気になってもらわないと。甘い物食べたら元気になるでしょ、わたしがそうだし」
急にこっ恥ずかしくなり、自然と早口になってしまった。イーリスは顔の火照りを誤魔化すように、手で顔を扇ぐ。
「では、ありがたくいただきます」
皿を抱え、ニコラスは少し困ったように両方の眉を下げた。少し強引になってしまったが、なんとか受け取ってくれたことにイーリスは安堵する。
皿の端に添えられたフォークを手にし、ニコラスは厚みのある生地をさくりと切る。黄色の断面が姿を見せると、甘い香りがより一層広がった。ワッフルの欠片を丁寧に口に入れ、咀嚼する。
「美味しいです」
ニコラスの頬が緩む。イーリスは心の中でよしっ、と拳を握りしめた。
「それならよかったわ。そうそう、今日はお父様から大事な話があるらしいの。あなたも来るようにって」
「レムズブルークのことですね……」
肩を落とし、ニコラスはフォークを皿に戻す。また浮かない顔をするニコラスに、イーリスは口をついた言葉を後悔しそうになる。
「ニコラスは何も悪くないでしょ。むしろ街の人を助けてくれたんだから」
大橋の崩落をニコラスは魔法で抑えてくれた。結果的に橋は崩れたが、死人が出なかったのはニコラスのお陰だ。パイラも、メロネも大きな怪我なく助けることができた。
ただ――
「街の様子はメイドから聞きました。『橋が崩れたのは、修理が手抜きだったから』という噂が広がっているそうですね」
「――そうなの。お父さまがそんなことするわけ……」
イーリスは書斎机の椅子に腰かけ、ぐっとスカートを握りしめる。
レムズブルークの民はアドマンドに不信感を抱いていた。
皇太子殿下レガードから戦の準備をするよう指示があり、街の復興に当てていた兵の大半を引き上げさせたからだ。
そこへ来て生活を支える大橋の崩落。先の豪雨災害でアドマンドは一番に橋を修繕してみせたのだが、それが欠陥工事だったというデマが流れてしまう。民の不満は爆発寸前だ。
「橋の崩落は魔法によるものです。恐らくは、サハンカ王国による……」
ニコラスは小さく息を吐き出す。イーリスも同じ考えだったが、それを口にするのは憚られた。だってサハンカ王国は、ニコラスの故郷だから。
「とりあえずは、イリステラ公からの話を待つしかないでしょう」
「そうね」
そして、その日の晩。イーリス、ニコラス、メロネの三人はアドマンドの部屋を訪れる。
「国王陛下からお達しがあった。私とイーリス、そしてニコラスの三名は王宮へ出向くようにと」
アドマンドは神妙な面持ちでそう言った。




