19 イーリスとルシアン
ルシアンはイリステラ家の長男として生まれた。イーリスより二つ年は上だ。
勝気ながらも優しい性格で、屋敷の庭でかけっこをしても、すんでのところで勝ちを譲ってくれたのを覚えている。
そんなルシアンのことが、イーリスとパイラは大好きだった。
イーリスの加護の特性を、ルシアンとパイラはアドマンドから口酸っぱく教えられていた。「イーリスを叩いてはいけない」「イーリスの悪口を言ってはいけない」これは、イリステラ家の家訓といえよう。
人を傷つけてはいけないという子どもへのしつけは、至極当たり前のことではある。でも、イーリスに対してとなると意味が変わった。イリステラ家の人間として生きるために必要な知識。アヒルが雛に泳ぎ方を教えるのと同義だ。
イーリスは特別扱いされるのは好きだったが、ルシアンとパイラとは対等でありたかった。
「イーリスだけじゃなくて、ルシアン兄さまのことも、パイラのことも叩いたらだめ。悪口も言っちゃだめ」
イーリスの心からの言葉に、ルシアンもパイラも嬉しそうに笑ってくれた。
よくある兄弟喧嘩だったと思う。
ルシアンはイーリスの加護に襲われて死んだ。イーリスが七歳のころだ。
イリステラ家で異質な存在だったイーリスは、家族以外の人間から恐怖の対象として見られていた。
反対に、ルシアンはイリステラ家の跡取りとして輝かしい未来が約束されており、誰もがルシアンとの繋がりを求めたのだ。
孤独というものを強く感じるようになっていたイーリスは、兄が羨ましくもあり、妬ましくもあった。
イリステラ邸で開かれた晩餐会の終盤。ルシアンの周りの席の大人たちは身を乗り出して彼に話しかける。ルシアンは、愛らしい笑みを振りまいてそれに応えた。
イーリスの近くに座る者は、誰も目を合わせようとすらしない。
メイドがデザートを乗せたワゴンを大食堂に運んできた時だった。
「ルシアン兄さまなんか死んじゃえ!」
イーリスの嗚咽混じりの声に、場の全員が食事の手を止めて固まった。
もちろん本心ではなかった。ただ、湧き上がる感情をイーリスは抑えることができなかった。
ルシアンの顔から、仮面を剥がされたように笑顔が消える。きつく眉間にしわを寄せると、食事用のナイフを手に取った。
「ルシアン様――」
「イーリスなんか死んじゃえ!」
制止しようとするメイドの声をかき消し、ルシアンは暴言と共にナイフをイーリスへと投げつけた。イーリスの胸に硬い感触が走る。
痛かった。体も心も。
だけど、その何十、何百倍もの痛みを、イーリスはルシアンに返した。
バタッ。ルシアンは長テーブルに頭から倒れ込んだ。甲高い悲鳴が大食堂にこだまする。
どこからともなく現れた一本の矢が、ルシアンの胸を貫いていた。
今になってイーリスは気づく。ルシアンも、イーリスに対して似たような感情を抱いていたかもしれないということを。
幼いながらに、ルシアンは公爵家の跡取りとしての重責を抱えていたことだろう。兄の性格からして、弱音を吐いたりして心の均衡を保つこともできなかったはずだ。
それに、あまり表に出ないイーリスをよく思わないのも自然なことだ。逆の立場であれば、イーリスもルシアンはずるいと思っていたに違いない。
七歳のイーリスは、ルシアンの気持ちを慮ることができなかった。
対等でいたいと交わした約束は、何の意味もなさなかったのだ。
ルシアンの死は、まだ五歳だったパイラの心に大きな傷を残した。母親のメロネは、パイラに寄り添う形で共に屋敷を出る。
その日以来、イーリスはメロネとパイラに会うことはほとんど無くなった。
本当はずっと一緒に暮らしたかった。でもイーリスにそれを言う資格はない。
だってイーリスがルシアンを殺したのだから。
♢♢♢
「イーリス様、集中が切れていますよ」
「――ごめんなさい」
ニコラスの声に、回想にふけっていたイーリスの意識が舞い戻る。眉間を押さえ、イーリスは大きく深呼吸をした。足下のすぐそばを流れる川からは、少しだけ泥の臭いがする。
川岸の漂流物を処理し始めてからまだ数分しか経っていない。
「やはりご家族のことですか?」
ニコラスが包むように握った杖を振って流木を持ち上げる。
「まぁ、そんなところ…… ちゃんと切り替えるから」
イーリスは杖を構えて、川の端で動かない岩に照準を合わせる。シャッと空を切るように杖を振るが、岩は思ったように持ち上がらない。
「あまりご無理をなさらず。時間が解決してくれることもありますよ」
ニコラスは諭すように言いながら、川から引き上げた大きな木を河原に置いた。
「それもそうね」
ニコラスを不安にさせないため、イーリスは嘘をついた。だって、時間が解決するというなら、今まで過ごした時間はなんだったんだって思うから。
イーリスはもう一度鋭く杖を振る。岩は宙に浮かび、ふわふわと漂いながら河原にたどり着いた。
不安定ではあるが、以前より魔法の精度は良くなっている。
ほんのり冷気をまとった風が、イーリスの髪を乱す。
あと少しで、川の流れは元に戻りそうだ。




