18 外出禁止令解除の日
「っ……!」
イーリスは指先に走った痛みに顔をしかめた。
右手に握ったナイフ、その刃先の中央が濃い赤に染まる。自ら軽く切り込みを入れた左の人差し指からは、たらりと血液が流れ落ちた。
ナイフを書斎机の上に置き、イーリスは深呼吸をする。右手を左手にかざし、そっと口を開いた。
「ヒーリング」
淡い緑の光が、赤い人差し指を包み込む。魔力を込めるほどに、じんじんと脈打つ痛みが消えていった。
「よし、これで……!」
あらかじめ用意しておいた布で指の血を拭き取り、イーリスは傷口を凝視する。ものの見事に、傷はなくなっていた。
「やったあ! 成功よ!」
イーリスが弾けるような笑顔で拳を突きあげる。
「素晴らしいです、イーリス様」
「そうでしょ」
隣でずっと見守っていたニコラスに、イーリスは自慢げに指を披露した。
「傷一つない、美しい手ですね」
「そ、そうでしょ……」
イーリスは左手を引っ込め、じとっとした眼差しをニコラスに向ける。最近ニコラスは歯の浮くような発言が増えた。本人は全く自覚していないようだが。
「ですが自身の体を傷つけるのは…… やはり私の指で試した方がよかったのでは?」
「だから何度もだめって言ったでしょ。自分の魔法なんだから、まずは自分の体で試さないと」
ニコラスの心配を吹き飛ばすように、イーリスはニッと笑って見せる。
「とはいえ期日には間に合いましたね。本来なら、治癒魔法は数年かけて習得するものなのですが……」
「わたしにかかればこんなものよ」
イーリスが鼻を高くする。ニコラスは呆れながらも、少し羨むようにしてそんなイーリスを見ていた。
明日は待ちに待ったイーリスの外出禁止令が解除される日だ。
♢♢♢
朝の陽光に照らされた果実を手に、商人が景気の良い声を飛ばす。大きな川を見下ろせる露店通りは、買い物を楽しむ客でいっぱいだった。
久々に訪れたレムズブルークは、以前よりも活気に満ちている。サハンカ王国との争いの影などまるで感じさせない。川を跨ぐ大橋の上を、いつも通り荷馬車が行き交っていた。そして――
「ニコラス様ー!」
黄色い声があちこちから飛んでくる。年頃の女性だけでなく、子どもやお年寄りまで手を振っていた。
「相変わらずの人気ぶりね」
「そうでしょうか?」
どんどん広がる声援に、ニコラスは胸の前で小さく手を振り応える。この甘いマスクと街の復興に尽力する姿に、人々は彼の虜になっていく。もしかしたら、王子の風格が無意識の内に漏れ出しているのかもしれない。
「街に住んだ方が、みんな喜ぶんじゃない?」
イーリスはぷいと顔を背ける。女性にいい顔をするニコラスがおもしろくなかった。
だが、ニコラスが隣にいるおかげで、イーリスを恐れる人は少ないように見える。
この前は加護が発動してしまい、無垢な少女を傷つけてしまった。二度と同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。
「き、今日はあそこの処理ですね」
ニコラスが話題を変えるような素振りで川岸に残った岩や流木を指さす。イーリスは素っ気なく「わかったわ」と返し、灰色のローブの袖をまくった。
レムズブルークの復興は順調だ。しかし細かなところがまだ残っている。今の状態でまた水害に見舞われたら、目も当てられない。
だがアドマンドの指示で、復興に従事していた兵のほとんどは戦いに備えて街を離れた。
不満を漏らす民も多かったようだが、アドマンドの手腕で大きな揉め事もなく今に至る。
「ですが、イリステラ公はよくイーリス様の外出を許可しましたね」
「お父様はわたしとの約束を破らないわ。それに、わたしが街の復興に携われば、イリステラ家の面目も保てるしね」
隣で考えるように顎をさするニコラスに、イーリスは胸を張って答えた。
きな臭い情勢の中で愛娘を外に出すことになったアドマンドは、それはもう不安で顔をぐちゃぐちゃに歪ませていた。そして最後の悪あがきかのように、ニコラスを必ず護衛につけるという条件を付け足した。
ニコラスもイーリスもそれを拒むことはなかった。
「そこから川まで降りましょう」
少し進んで人気の少なくなった通りの奥。道から伸びる石畳の階段にニコラスが目をやる。
その時、イーリスとすれ違った華やかな馬車がゆっくりと停車した。
「イーリス? イーリスなの?」
朱色のカーテンが開き、窓越しにこもった声がイーリスの耳に届く。忘れそうになっていた声だった。
イーリスが振り返ると、車内からステップに足を乗せて一人の女性と、一人の少女が下りてくる。
お揃いの鮮やかな黄色のドレスは、イーリスが頭の片隅に仕舞い込んだ記憶を掘り起こした。
「やっぱり、イーリスなのね」
「お母さま……」
イーリスの実の母、メロネは口に手を押し当てて感嘆の声を漏らす。
いつから会っていないかなど、数えることもやめてしまった。だってメロネはイーリスから、娘から逃げたのだから。
「お久しぶりです、イーリス姉さま」
スカートの端を持ち上げ、母譲りの丸い瞳がイーリスを睨んだ。
「……パイラも久しぶりね…… だいぶ背が伸びたようだけれど」
イーリスは言葉を探るようにして口を開く。パイラは無理に頬を吊り上げ笑みを作った。
「ルシアン兄さまの命日にお会いできるかと思っていたのですが、墓前にはいらっしゃらなかったようですね」
イーリスはきつく唇を噛み締める。
「そんなに辛そうな顔をなさらないでください。わたしもお母さまも、ルシアン兄さまが死んだのはイーリス姉さまのせいでないことはわかっていますから」
淡々と告げると、パイラはイーリスに頭を下げる。イーリスは何も言葉を返せなかった。
パイラはイーリスに背を向け、馬車へと歩いていく。
「イーリス…… 心配していたのよ、部屋にこもりきりだと聞いていたから」
メロネは視線を右往左往させ、どこかよそよそしく話す。
「でもよかった、元気にしているところを見られて。……その服はどうしたの?」
「今から魔法の授業なのです。街の復興の手伝いも兼ねて……」
メロネに視線を向けられたニコラスは、何も言わずそっと頭を下げた。
メロネは驚いたように目を丸くしてイーリスとニコラスを交互に見る。そして自身の胸の前でぎゅっと両手を握りしめた。
「よかった、本当に…… 頑張ってねイーリス」
声を震わせるメロネの瞳から涙がこぼれた。指先で目元を拭きながら、メロネはパイラの後を追う。
二人が馬車に乗り込み、御者が手綱を引くと大きな車輪がゆっくりと回りだす。
イーリスは馬車が見えなくなってもその場から動くことができなかった。
母の涙の理由が少しもわからなかったから。




