17 お忍びの皇太子殿下2
『俺の女』というのは、皇太子殿下の正妻という認識で間違いないのだろうか。
みっともなく口を開いたままのイーリスを、レガードが何か面白いものでも見ているかのように眺めている。
「お言葉ですがレガード殿下」
後ろからのニコラスの声に、イーリスのぼやけかけた意識が戻ってくる。
「イーリス様はまだ魔法を学んでいる最中にございます」
「それがどうした?」
「イーリス様には魔法の才がございます。成長を妨げるような行為はプラネーカ王国の損失になるかと」
それに、と言葉を区切り、ニコラスが小さく咳払いをした。
「私の生徒を取らないでいただきたい」
ソファーに座るアドマンドが「おい!」と慌てて振り向く。イーリスは目を見開くレガードから視線を動かさなかった。
髪で隠れた自身の耳が、じわじわと赤くなっていくのがわかる。
咄嗟に振り向かなくて正解だった。ニコラスを見てしまえば、顔まで赤くなっていたに違いない。
「なかなか言うではないか。そんなにイーリス嬢が大切か?」
頬杖を突き、レガードが挑発めいた眼差しを向ける。
「もちろんです。私は家庭教師、魔法を教えることが仕事ですから」
「つまらん」
レガードは吐き捨てると、どさっとソファーにもたれかかった。
イーリスはそっと自身の腹をさする。なぜか胃が痛い。
そもそも口約束で婚約を取り付けるものなのかと、現実から逃れるように思考を巡らせた。だが答えは出ない。引きこもりだったイーリスは、社交界のしきたりに疎かった。
パン、と乾いた音が部屋に響く。淀んだ空気を正すようにレガードが手を鳴らした。
「そうだアドマンド、そろそろ今日の本題を話しておかなくてはな」
今までがついでだったのかと、イーリスは出かかった言葉をなんとか飲み込んだ。
レガードはニコラスを一瞥し、神妙な面持ちで告げる。
「サハンカ王国の動向が怪しい」
「と、仰いますと?」
アドマンドが尋ねると、レガードは太ももに両肘を突き、絡めた指の上に顎を乗せる。
「先の豪雨災害で、お前の管理するレムズブルークだけでなく他の主要都市も被害を受けた。その際に、何匹か鼠が潜り込んだらしい」
「そのようなことが……」
「捕らえて体に聞いてやったが何も口を割らなかった。だがきな臭いのは確かだ。もし攻め込まれるようなことがあれば、我が国に甚大な被害が出る」
隣でアドマンドがゴクリと生唾を飲み込む。「万に一つも負けることはないがな」とレガードが勝気に笑った。
「街の復興もあるだろうが、すぐにでも動けるように兵を整えておけ。お前の力が必要だ」
「もちろんでございます」
胸に手の平を添えアドマンドが頭を下げる。レガードはニヤリと口角を上げてニコラスを見た。
「ニコラス殿下にも協力を頼みたいところだが、どうだろうか?」
わざとらしく名を強調したセリフに、そうですね、と一拍おいてニコラスが答える。
「戦地に赴くのは、私の業務の範囲をいささか逸脱しすぎているのかと。イーリス様をお守りするためなら、全力を尽くしますが」
顔を見なくても、イーリスはニコラスが穏やかにほほ笑んでいるのがわかった。
「食えぬ男よ」
退屈そうに吐き捨てると、レガードは立ち上がって部屋の外へと向かう。
「追って使いを出す。また会う日を楽しみにしているぞ」
後ろ手に手を振りながら、レガードが言う。「お待ちください」とアドマンドが後を追うが、伸ばした手はバタンと閉まる扉に遮られた。
「嵐のようなお方でしたね」
ニコラスが腰を曲げ、イーリスの耳元で囁く。扉越しにレガードの笑い声が聞こえた。
「本当にね……」
この数分でイーリスの感情は大波のように揺れ動いた。気持ちを落ち着かせるため、イーリスは話の内容を整理する。
ニコラスを匿っていることはなんとか不問にされた。
だが、ニコラスの祖国であるサハンカ王国と我が国は一触即発の関係らしい。
イーリスにできることは少ないだろうが、可能な限りアドマンドの役に立たないと。そしてだ――
イーリスはテーブルにバッと手を突いて立ち上がり、アドマンドのもとへと駆け寄る。
「お父様! わたし、レガード殿下と婚約したのでしょうか!?」
鼻息を荒くするイーリスに、アドマンドはやれやれと眉尻を垂らした。
「レガード殿下には既に婚約者がいらっしゃる。ただのお戯れだ」
「へっ……?」
またしてもイーリスの間の抜けた声が、応接室に広がった。




