16 お忍びの皇太子殿下
「久しいなアドマンド。俺に会えてさぞ嬉しいことだろう」
レガードは応接室のソファーにふんぞり返り、大口を開けて笑う。
「そ、それはもう本当に…… 事前にご連絡いただければもっと嬉しかったのですが……」
「俺とお前の仲であろう、堅いことを申すな。それに……」
レガードは手の平を口の横にそっと当てた。
「今日はお忍びということになっている」
隠す気のない声量で言うと、彼は楽しそうに「一度やってみたかったのだ」と自身の膝を打つ。対面に座るアドマンドのふくよかな体が小さく丸まった。
皇太子殿下の御前だというのに、二人の間の長テーブルには、火の灯っていない燭台以外何も置かれていない。扉越しに、屋敷のメイドたちが慌ただしく駆け回る音が聞こえる。
イーリスは片足を斜めに引き、軽く膝を曲げてスカートの裾をつまんで持ち上げる。
「レガード殿下、お目にかかれて光栄に存じます」
レガードはイーリスを見上げると、白い歯を見せて笑った。レガードに会うのは洗礼式以来だが、その前からレガードはイーリスを恐れることはなかった。絶対の自信と強さを、この男は兼ね備えている。
「美しくなったなイーリス嬢。部屋に引きこもっていると聞いて心配していたのだが?」
「殿下がいらっしゃったとなれば、挨拶に伺うのは当然でございます」
軽く首を傾げ、イーリスはできるだけ可愛く笑って見せる。平静を装っての返しだったが、心臓は張り裂けそうなほどに鼓動を早めていた。
「いつまで立っているのだ? さっさと座れ」
言い終えると、レガードは鋭く光らせた視線をイーリスの横へ移す。
「――お前もだ」
場の空気がピンと張り詰める。イーリスが生唾を飲み込むと同時に、隣で薄い唇が静かに動いた。
「私はイーリス様の家庭教師に過ぎません。レガード殿下と席を共にするなど、身分違いも甚だしく存じます」
眉尻を下げるニコラスに、レガードはきまり悪そうにフンと鼻を鳴らした。イーリスはアドマンドの隣に座り、ニコラスがイリステラ親子の後ろに立つ。
レガードが長い足を組んだ。コートと同じダークブラウンのブーツが、いつでもテーブルを蹴り飛ばせる位置にある。
「堅苦しい挨拶はこれぐらいにして、単刀直入に申す。この屋敷に亡きはずの、サハンカ王国第一王子がいるというのは誠か?」
強烈な目力を秘めた瞳がアドマンドを捉える。アドマンドは言葉を選ぶようにして口を開いた。
「そ、その情報は一体、どなたからお聞きになられたので?」
「俺の質問に質問で返すのか?」
たまらずアドマンドが口を結ぶ。レガードがさらに問い詰めようと小さく息を吸ったところで、誰かが応接室の扉を叩いた。
「旦那様。お飲み物をご用意いたしました」
「入れ」
レガードの声を合図に扉が開く。人数分のカップが乗ったワゴンに続き、メイドが部屋に入る。
「まぁいい、俺とお前の仲だ。つい先日雇ったメイドが噂話をしていてな、『イリステラの屋敷に王子がいる』と」
レガードはテーブルにカップを運ぶメイドの顔を見上げ、「なぁ?」と問いかけた。メイドは顔を真っ青にして首を横に振る。
レガードがニコラスの情報を掴んでいるのは間違いない。そもそも、イーリスとその家庭教師をここに呼べと言ったのはレガードなのだ。
話に鑑みるに、何かの拍子でニコラスのことを聞いてしまったメイドが情報を漏らしたのだろう。イーリスの加護を恐れるあまりに体調を崩し、辞めてしまうメイドは少なくない。以前仕えていた家の愚痴を言うつもりが、うっかり口を滑らせたなんて光景がありありと浮かんだ。
このままではいけない。
テーブルに置かれたカップから立ち上る白い湯気を見つめ、イーリスは決心する。
はぐらかしていては何の解決にもならない。サハンカ王国との関係を疑われ、アドマンドが国賊扱いされる危険もある。ここは誠心誠意、レガードに本当のことを伝えるべきなのだ。
「レガード殿下、恐れながら申し上げます」
「なんだ?」
レガードの鷹のような瞳が、イーリスだけを映す。ピリピリと皮膚を焼かれているかのようだ。
イーリスは重ねた両手で揃えた足を強く押さえる。手の震えがレガードに伝わらないように。
「確かにニコラスはサハンカ王国の第一王子です。証明できる物もあります。ですが、王子である前に彼はわたしの家庭教師なのです」
押しつぶされそうになる眼差しから、イーリスは目をそらさない。
「その関係に噓偽りはありません。イリステラ家は、決して祖国を裏切ることはいたしません」
レガードが大きく身を乗り出す。瞬きをしないレガードの瞳の中に、イーリスが映っているのがよく見える。
「その言葉、信じてよいのだな?」
「この命を賭する覚悟でございます」
レガードは何も返さない。ほんの数秒の沈黙を、イーリスは永久のように感じた。
「――わかった」
レガードは体を起こすと、どこか嬉しそうに頬を緩めた。
「イーリス嬢を信じよう」
その言葉に、イーリスとアドマンドは大きく安堵の息を吐き出した。
「お前たち、さっきから何をびくびくしているのだ。ここは王宮でも、父上の前でもないのだぞ」
あっけらかんと言い放ち、レガードは机のカップを手にする。熱々の中身を一口で飲み干すと、カップを眺めて「美味いな」と呟いた。緊張で薄れていたが、応接室はすっきりとした柑橘系の香りで満たされている。
アドマンドが頬の汗をハンカチで拭いながら口を開く。
「ですが、レガード殿下……」
「さっきも言ったであろう。今日はお忍びなのだ、ここでのことは誰にも話してはならんぞ」
お忍びのレガードは、街まで届くかのような声で笑った。
気の済むまで笑い終えると、レガードはなぜかじっとイーリスを見つめる。
「先ほどの肝の据わった喋り、実に気に入った。どうだイーリス嬢、俺の女にならないか?」
「へっ……?」
イーリスの間の抜けた声が、応接室に広がった。




