第三話 きっかけ
終わった。そう思った。
床一面に散らばった写真。
そのすべてに写っているのは、今まさに目の前に立っている男──成瀬貴俊。
言い逃れのしようがない。
いや、そもそも言い逃れをするつもりもなかった。
勝手に後をつけた。
勝手に写真を撮った。
そして、勝手にプリントした。
どう見ても不審者だ。自覚はある。
それでも、やめられなかった。
成瀬の顔が、好きだったからだ。
***
初めてその顔を見たのは、一年のときだった。
同じ学年にモデルをしている生徒がいる。
そんな話をクラスメイトから聞いたことはあった。
『同じ学年にモデルのやついるらしいぜ。成瀬貴俊っていうんだけど』
そのときは、特に興味もなかった。
他人の顔なんて、普段はいちいち気にしない。
ましてや別のクラスの生徒だ。
廊下ですれ違っていたとしても、きっと気にも留めていなかった。
──それが変わったのは、ある日のことだった。
家の机に、姉が買ってきた雑誌が何気なく置かれていた。
その表紙を見た瞬間、目が釘付けになった。
整った輪郭。
すっと通った鼻筋。
こちらを真っ直ぐに見つめる目。
一目見た瞬間、思った。
(なんだ、この……めちゃくちゃドストライクの顔は)
好みだった。
驚くほど、好みだった。
しばらく表紙から目を離せなかったくらいには。
気になって、表紙に写っているモデルについて調べた。
名前を確認して、オレは目を瞬かせた。
──成瀬貴俊。
どこかで聞いた名前だと思った。
そして、すぐに思い出した。
以前、クラスメイトが話していた、同じ学年のモデル。
同じ学校にいる。
この顔が。
すぐ近くに。
そう思った瞬間、どうしようもなく実物を見てみたくなった。
写真でもここまで心を打たれたのだ。
実物なら、どれほどだろう。
モデルとして作られた表情ではない、普段の成瀬も見てみたい。
そして、ある結論に至った。
(これほど好みの顔がすぐ近くにいるのに、見に行かないのは人生の損失だ)
翌日。
オレは、成瀬のクラスの前にいた。
もちろん、堂々と覗き込んだわけではない。
廊下を歩くついでを装い、教室の中へちらりと視線を向ける。
そして。
「…………」
いた。
友人らしき生徒と話している成瀬を見つけた。
雑誌で見た顔が、そこにある。
だが、実物は写真で見るよりもずっとよかった。
表情が変わるたびに目元が動く。笑えば頬が緩む。話すたびに唇が動く。
当たり前のことなのに、写真とはまるで違った。
以前、ネットで美しい顔立ちの人間を『神の造形物』と表現しているのを見て、大袈裟だと思ったことがある。
だが、今なら分かる。
(なるほど。こういうときに使うのか)
そして、一度実物を見れば満足するかと思っていたが──。
(もっと見たい)
むしろ逆だった。
それから、成瀬のクラスの前を通る回数が増えた。
廊下で見かければ、つい目で追った。
成瀬が載っている雑誌も探した。
見つければ手に入れて、何度も眺めた。
それでも足りず、もう少し近くで見たくなった。
後をついていったこともある。
そしてついには、見るだけでは足りなくなった。
写真にも残したくなった。
一枚撮れば、今度は違う角度から撮りたくなった。
最初の頃は、気づかれないよう遠くから撮っていた。
見つかったらまずいという自覚くらいは、さすがにあった。
けれど、何度撮っても成瀬は気づかなかった。
なら、もう少し近くても大丈夫かもしれない。
そう思って少し距離を縮めても、やはり気づかれない。
それを繰り返すうちに、いつの間にか最初ほど慎重ではなくなっていた。
そして二年になった今。
まさかの同じクラス。
これを幸運と呼ばずして、なんと呼ぶ。
──などと思っていた数日前の自分を殴りたい。
「あのシャッター音、お前だったのか!」
「…………」
全部バレた。
***
何も答えられずにいると、成瀬は足元に散らばった写真へ視線を落とした。
「……まあ、それは一旦置いておこう」
「?」
「まずはこれを拾わないとな。他の人の邪魔になってしまう」
「……ああ、そうだな」
もっともだった。
オレも慌ててしゃがみ込み、床に散らばった写真を拾い始める。
拾っても、拾っても、成瀬。
当然だ。
自分が印刷したのだから。
しかし、こうして本人と一緒に拾うことになるとは思わなかった。
「…………」
気まずい。
ものすごく気まずい。
「おお!」
「……?」
突然、隣から明るい声が上がった。
「小鳥遊、これなんて特によく撮れているじゃないか!」
成瀬が一枚の写真をこちらへ向ける。
体育の授業中に撮ったものだった。
サッカーの授業でグラウンドを駆けている成瀬を、少し離れた場所から撮影した一枚。
風を受けて黒髪が揺れ、真剣な表情で前を見据えている。
「動いている最中だというのに、ほとんどブレていない!」
「……まあ」
「それに、この瞬間を選んだのもいいな。躍動感がある!」
成瀬は感心したように写真を眺めている。
「それでいて俺の顔もしっかり綺麗に写っている! 実にいい写真だ!」
「…………」
「写真を撮るのが上手いんだな、小鳥遊!」
「……まあ、写真部だから」
「そうなのか! それでこんなに綺麗に撮れるんだな!」
「……まあ」
「もちろん、被写体がいいというのも大きいだろうが!」
「それはそう」
何を言っているんだ、こいつ。
オレは本気でそう思った。
勝手に写真を撮っていたことがバレた。
しかも一枚や二枚ではない。
こんなストーカーじみた行為。
普通なら、怒るところではないのか。
気持ち悪い。
もう近づくな。
二度と撮るな。
そう言われたところで、文句は言えない。
だというのに、本人は自分の盗撮写真を手に、満足そうに頷いている。
「……成瀬」
「ん?」
「怒らないのか?」
「怒る?」
成瀬が不思議そうに首を傾げる。
「何にだ?」
「……勝手に写真撮ってたこと」
「ああ!」
成瀬はようやく思い至ったような声を上げた。
「それは駄目だぞ、小鳥遊」
駄目だとは分かっていたらしい。
少しだけ安心している間にも、二人の手は動き続ける。
やがて最後の一枚を拾い上げると、オレは集まった写真を両手で揃えた。
数十枚。
こうして束にしてしまえば大した厚みではない。
だが、そのすべてに成瀬が写っていると思えば、やはり普通ではない。
「……悪かった。勝手に撮って」
オレは改めて謝罪を口にした。
「ああ。こういうものは、ちゃんと本人に許可を取ってから撮るものなんだ」
「……うん」
「特に俺はモデルをしているからな。写真の扱いには気をつけるよう、普段から言われている」
「写真の扱い?」
「そうだ」
成瀬は先ほど褒めていた写真をオレの持つ写真の束へ重ねながら、頷いた。
「俺の知らないところで写真を撮られて、それを勝手に公開されたとするだろう?」
「……ああ」
「そうすると、どんな写真がどこで出回るか、俺には分からない。それに俺はモデルだからな。仕事とは関係のない写真でも、場合によっては事務所や仕事相手に迷惑をかけることがある」
「そうなのか?」
「ああ。だから、勝手に撮らない。撮ったものを勝手に公開しない。写真を撮るなら本人に許可を取る。俺も普段からそう教えられているんだ」
「……なるほど」
自分が撮った写真が、成瀬の仕事にまで影響する可能性がある。
そこまでは考えたことがなかった。
オレにとって、写真はただ成瀬を見返すためのものだった。
誰かに見せたいと思ったこともない。
ましてや、何かに使おうなどと考えたこともなかった。
「……分かった。本当に悪かった」
「うむ!」
「もう勝手には撮らない」
「ああ。次からは俺に一言言うように!」
「…………次?」
思わず聞き返した。
(次が、あるのか)




