第十九話 呼び方と距離感
朝、教室に入ったところで、聞き慣れない呼び方が飛んできた。
「あ、ユヅ君! おはよ〜」
「…………」
誰のことだ。
一瞬そう思ったものの、自分には関係ないだろうと、そのまま席へ向かおうとする。
「ユヅ君ってば、無視〜?」
今度は明らかにこちらへ向けられた不満そうな声だった。
そちらに顔を向けると、小林と一ノ瀬が椅子に座って話していた。
「……オレか?」
「そうだよ〜」
小林は当然のように頷くと、椅子から立ち上がった。
そのままこちらへやって来る。
「はよ。……ってか、その呼び方何?」
「ユヅ君、可愛くない? ナル君とおそろいっぽくて〜」
どうやら『ユヅ君』とは、本当に自分のことらしい。
「いや、可愛さ求めてないから。小鳥遊のままの方がいいんだが」
「ええ〜? でもほら、私なりの配慮だよ?」
「何が」
何を配慮されたのか、まったく分からない。
怪訝な顔をしていると、小林は待ってましたとばかりに人差し指を立てた。
「知ってる、ユヅ君? 君、無愛想で目つきも悪いし、髪も染めてるから、傍から見たら不良みたいに見えるんだよ?」
「…………」
思ってもみなかった評価に、オレは黙った。
「私もクラスで初めて見たとき、そう思ったもん」
「今さらっと失礼なこと言ったな」
「だからぁ、『小鳥遊君』より『ユヅ君』の方が親しみやすいかな〜って!」
悪びれもせず、小林はにこにこと笑っている。
「呼び方変えたところで見た目は変わらないだろ」
「変わるよ〜。ほら、ユヅ君!」
「何が変わったんだよ」
「なんか可愛くなった!」
「気のせいだ」
どう考えても、呼び方一つで人の印象まで変わるとは思えない。
「まあ、小鳥遊って呼ぶよりは怖くないかも。私もユヅ君にしよっかな」
いつの間にかそばにいた一ノ瀬まで、横から口を挟んできた。
「一ノ瀬まで乗るな」
「いいじゃ〜ん。これで二票!」
小林は嬉しそうだが、そもそも多数決で決めるようなものではない。
「ゆ〜づくん♪」
「ユヅ君」
こいつらは押しが強い。どう断ってもなんやかんやで無理そうだ。
「……好きにしろ」
「やったね〜!」
別に名前で呼ばれるくらい、どうでもいい。
そのうち飽きるだろう。
◇◇◇
「はい、後ろ回して」
授業中、教師の声とともにプリントが前から順番に回されてくる。
オレの席は、教室中央の列の一番後ろ。
前の席の女子生徒が振り返り、プリントを差し出してくる。
「……はい」
「ああ」
オレが受け取ろうと手を伸ばした瞬間、女子生徒の肩がぴくりと跳ねた。
「…………」
そのままプリントを受け取る。
「どうも」
「う、うん」
女子生徒はどこかぎこちなく答えると、すぐに前へ向き直った。
(……不良に、見えるのか?)
ふと、朝の小林の言葉を思い出す。
今まで気にしたこともなかった。
髪型や色は美容師の姉が好き勝手にやったものだが、自分でも気に入っているし、愛想がいい方ではないのも自覚している。
だからといって、別に怖がらせたいわけでもないのだが。
(まあ、そのうち慣れるだろ)
少し気になったが、クラス替えをしてまだそれほど経っていない。
そのうち向こうも慣れるだろうと、オレはすぐに黒板へ目を戻した。
◇◇◇
休み時間になり、机に座ったままスマホを眺めていると、前から聞き慣れた声が飛んできた。
「小鳥遊!」
「ん?」
顔を上げる。
成瀬がいつもの調子でこちらへ歩いてきた。
「おはよう!」
「もう昼前だけど」
「今日初めて話したのだから、おはようでいいだろう!」
「……そうか? まあ、おはよう」
「ああ!」
成瀬はニコニコとオレに笑いかけている。
何か用があるのかと思って待ってみるが、成瀬はそのままオレの机の横に立っている。
(何しに来たんだ?)
「……で?」
「ん?」
「何か用じゃないのか?」
「いや? 特にないぞ!」
「ないのかよ」
思わず聞き返した。
成瀬は相変わらず、何がおかしいのか分からないといった顔で立っている。
「話しかけるのに、用事が必要なのか?」
「…………」
そう言われると、別に必要ではない。
オレだったら、用もないのに誰かの席へ行こうとは思わなかった。
だが、成瀬にとってはそうではないらしい。
「小鳥遊は何をしていたんだ?」
「何も。次の授業待ってただけ」
「そうか! 俺もだ!」
成瀬は嬉しそうに笑うと、オレの机へ片手をついた。
「特にやることがなかったから、小鳥遊のところに来た」
「……そうか」
それだけの理由でわざわざ来たらしい。
「小鳥遊はドラマとか見るか?」
「ドラマ?」
「ああ! 俺は昨日の九時からやっていたドラマがな──」
そこから成瀬は、昨日見たらしいドラマの話を始めた。
主演の俳優が格好良かったとか、脇役の女優が着ていた服が似合っていたとか、途中の展開には驚いたとか。
オレがたまに「ああ」とか「そうなのか」と返すだけでも、成瀬は楽しそうに話し続けている。
(……よく喋るな)
そう思いながら聞いていると、不意に成瀬が口を止めた。
「そういえば、小鳥遊は見ていなかったのか?」
「見てない」
「すまん! 見ていなかったのなら、これはネタバレだったな……だが面白かったぞ! 今度見てみるといい!」
「覚えてたらな」
「ああ!」
「では改めて、そのドラマの簡単なあらすじを教えよう!」
そしてまた、ドラマの話が始まった。
結局、成瀬が自分の席へ戻ったのは、次の授業のチャイムが鳴ってからだった。
◇◇◇
昼休みを告げるチャイムが鳴った。
途端に教室の空気が緩み、あちこちで椅子を引く音が響く。
弁当箱を取り出す者、連れ立って教室を出ていく者。午前中の授業を終えた教室が、一気に騒がしくなった。
オレも机の横に掛けていた鞄へ手を伸ばし、財布を取り出す。
「小鳥遊!」
「ん?」
聞き慣れた声に顔を上げる。
少し離れた席から、成瀬が弁当箱を片手にこちらへ歩いてくるところだった。
「昼飯にしよう!」
「……もう一緒に食うことになってんの?」
「ああ!」
当然のように言い切られた。
以前までならともかく、最近は成瀬がこうして自分のところへやってくることにも慣れてきた。
「まあいいけど。オレ、購買行ってくるから」
「俺も行こう! 待っているより、一緒に行く方が楽しいからな」
「……あっそ」
オレは特に断ることもなく、そのまま成瀬と一緒に教室を出ようとした。
「あ〜! ちょっと待って!」
背後から声が飛んでくる。
振り返ると少し離れたところで、小林と一ノ瀬が机を二つくっつけて、弁当箱を取り出していた。
「ナル君たち、今日ここで食べる〜? 一緒に食べよ〜」
「ふむ。小鳥遊、せっかくのお誘いだ。ミツカたちと共に食べよう!」
「オレに聞く前に決めてるじゃねえか」
「嫌なのか?」
「別に。いいけど」
「では決まりだな!」
成瀬は満足そうに頷いた。
「ミツカ! メグル! 一緒に食べるが、先に小鳥遊と購買に行ってくる!」
「おっけ〜! 二人とも、いってらっしゃ〜い」
購買で昼食を買い、二人で教室へ戻る。
小林たちのところへ行くと、くっつけた二つの机にはすでに弁当が広げられていた。
「おかえり〜! 二人の席も用意しといたからね〜」
「ああ、ありがとう!」
「どうも」
成瀬が空いている椅子を引き、オレもその隣へ腰を下ろす。
買ってきたパンと飲み物を机へ置いたところで、小林がこちらを見た。
「ユヅ君、パンなんだね〜。どんなやつ〜?」
「…………」
オレが顔を上げるより先に、隣の成瀬が反応した。
「ん? ユヅ君とは?」
「あれ〜、ナル君知らなかったっけ?」
小林が箸を持ったまま、にこにこと笑う。
「今日から小鳥遊君のこと、ユヅ君って呼ぶことにしたの〜」
「そうなのか!」
「勝手に決められた」
「最終的には好きにしろって言ったじゃ〜ん」
「押し切られただけだ」
「でもユヅ君の方が親しみやすいでしょ〜?」
「うん、私はこっちの呼び方の方がおもしろ……良いと思う」
「今、おもしろいって言いかけただろ」
「気のせい」
一ノ瀬は何食わぬ顔で弁当を食べ続けている。
「なるほど!」
成瀬は納得したように何度か頷いた。
「では俺も、これからは──」
「……お前は呼び方変えるなよ」
「ん?」
ほとんど反射だった。
成瀬がきょとんと目を丸くしている。
「小鳥遊のままでいい」
「そうなのか?」
「ああ」
小林たちに名前で呼ばれるのは、もう好きにすればいいと思っている。
けれど成瀬にまで同じように呼ばれるのは、なんとなく違う気がした。
(成瀬は、小鳥遊でいい)
「分かった! では今まで通り小鳥遊と呼ぼう!」
「ん」
ふと視線を感じて顔を上げる。
向かいに座る小林と一ノ瀬が、揃ってこちらを見ていた。
「……何だよ」
「べっつに〜?」
「私は何も」
「だったら見るな」
「ユヅ君、なんかそういうとこあるよね〜」
「どういうとこだよ」
「さあ〜?」
小林は楽しそうに笑うと、再び弁当を食べ始めた。
意味が分からない。
オレは買ってきたパンの袋を開けた。




