隣の人が気になった理由
電車の中では、できるだけ周囲を気にしないようにしている。
スマホを見る人。
本を読む人。
ぼんやり窓の外を見る人。
おにぎりを食べる人……これはなんか違うか。
それぞれが、自分の時間を過ごしている。
その日も、私は吊り革につかまりながら、目的地まで揺られていた。
最初は、小さな違和感だった。
なんとなく、隣から視線を感じる。
気のせいだと思った。
自分が見られているなんて、そんなことはない。
人が近くに立っていれば、視界に入ることもある。
たまたま目が合うことだってある。
だから、あまり気にしなかった。
でも、なんかやっぱり気になる。
視線がこちらに向いている気がする。
さすがに少し不安になって、横目で確認した。
そして、固まった。
隣に立っていた人が、こちらを見ながら自分の手首を舐めていた。
注意。私の手首ではない。
……え?
一瞬、脳が状況を理解することを拒否した。
なぜ?
何をしているの?
どういう意味?
怖!
しかも、その人は明らかにこちらを意識している。
視線が真正面から合っているわけではない。
それでも、こちらを気にしながら、自分の手首を舐めている。
怖かった。
怖いと、意外と声が出ない。
「やめてください」
そう言うこともできなかった。
いや、この場合の正解が分からない。
周囲に助けを求めることもできなかった。
そもそも、
「助けて!」
も、なんか違う。
何をされたのかと聞かれたら、私だって説明できない。
ただ、もう早くこの状況から離れたかった。
そのことだけを考えていた。
そして、次の駅。
電車の扉が開いた瞬間、私は降りた。
目的地とは違う駅だった。
でも、そんなことはどうでもよかった。
ホームに出て、人の流れから少し離れる。
そこでようやく、息を吐いた。
……あれは何だったのだろう。
今でも分からない。
何か意味があったのか。
ただの癖だったのか。
それとも、本当に私を見ながら何かをしていたのか。
考えても答えは出ない。
ただ、それ以来、電車の中で妙な違和感を覚えたときは、ちょっとだけ周囲を見るようになった。
気のせいかもしれない。
勘違いかもしれない。
でも、「なんか変だな」と思ったなら、無理に気にしないふりをしなくてもいいのだと思う。
何もなかったなら、それでいい。
次の駅で降りたっていい。
目的地に遅れたっていい。
いや、遅刻はしたくないが。
それはそれ。その時考える。
その場から離れて、それで何もなければ、それでいい。
……まあ、それはそれとして。
今でもたまに思う。
あの人は、なぜ自分の手首を舐めながら、私を見ていたのだろう。
あれだけは、いまだに分からない。
たぶん、一生分からない。
そして、できれば分からないままでいいと思っている。




