9.〈マリア〉
赤髪の少女の瞳に浮かぶのは、人智を超えた殺意へと至る憎悪だった。
廃墟群と化した世界で手を取り合う〈少年〉〈少女〉を、無人のビルの屋上から見据える、一つの影。
目深に被ったパーカーに、ラフなジーンズ。
思春期の少年のような服装に身を包む人物、だが、そのパーカーの奥に潜むのはむしろ、その鋭い目つきにさえ神格を感じさせるような、赤髪の美しい、むしろ凛々しい、幾多の修羅を超えた戦乙女のような少女だった。
何をするつもりか、少女が一歩前に歩みを進めた、その時だった。
「止めておきなさい――〈マリア〉」
少女の背後から、良く通る男性の声。
毒々しい舌打ちと共に少女が振り返った先には、一組の男女がいた。
小太りと筋肉質の中間くらいの体格をした温和そうな青年、その背後に怯え隠れるように立つ黒ずくめの服装に身を包んだ、陰気な雰囲気を醸し出す女性。
「〈マリア〉、君は実に暴力的な実現力を持つ復讐鬼だが、流石にあれほどの力を持った〈高き者〉、しかも〈少女〉がいる状況で突き進んで勝てるほどの規格外ではないはずだ」
「すっとぼけたこと言ってんじゃねーぞ腐れ」
〈肉塊〉ヤロウ! ちょろちょろつけまわってウゼーんだよ!」
「〈マリア〉、それは事実ではない。私は確かに〈肉塊〉のように戦うが、実際それは〈肉塊〉ではなく、むしろ〈肉塊〉を倒して回る側だ。彼らは〈良性〉、我らは〈悪性〉」
君もかつて〈少女〉だったなら、良く分かっているはずだろう?
そう男が口にした瞬間、〈マリア〉の殺意の全てが青年へと向いた。
「なるほど、それをわざわざ口にするってことは、よっぽど死にてえみたいだな?」
「……〈マリア〉、君には同情を禁じ得ない。本当に、君は哀れだよ」
男が言い終わった瞬間、突風と化した〈マリア〉が男に向かって突き進んだ。
しかしその一瞬の後、〈マリア〉はむしろまるで見えない力に弾かれたように、彼女の突き進んだ方向とは真反対に吹き飛んでいた。
辛うじて屋上に踏みとどまった〈マリア〉は、倍増した殺意を余すことなく叩きつける。
「あああああっ! 〈少女〉に守られてるタマなしヤロウがぁ! 地獄に落ちろ! 腐れ外道の人でなしどもがあ!」
「マリア、どうしても〈肉塊〉を狩りつくしたいなら、冷静さを学んだ方がいい。今の君の行動は、何一つ意味をなさない」
「ざってーんだよ〈肉塊〉如きが私に説教たれんじゃねえ! そこの〈少女〉だって、てめーなんだ本当は――!」
「ちち違う!」
青年の後ろに隠れていた女性が、裏返った声で叫ぶ。決死の覚悟でも決めたかのような切羽詰まった表情と、未だにキョロキョロとさまよう視線は、幽鬼めいた独特の雰囲気を醸し出していた。
「この人は、ケーくんは、私のことを守ってくれる、救ってくれる、優しい人、とても、とてもとてもとてもとてももも大切なな人!」
「てめえ! それが〈少女〉の腐ったところだって分かってんだろうが! 女の何もかもを踏みにじる、イカれた、腐りきった……!」
「〈マリア〉、〈少年〉と〈少女〉を一概に捉えるな。全ての〈少年〉が、君が考えているような存在ではないんだ」
「黙れ! よりにっよってテメーが!」
「第一、君は私を〈肉塊〉呼ばわりするが、君はどうなんだ?」
「ああっ?」
「〈肉塊〉が人間状態の〈少年〉を殺すと〈高き者〉と化す――では、もし君が私を殺したら、私はどうなっていただろうね?」
「! てめえ、マジでぶちコロ――!」
その時、世界全体が、グラリと揺れた。
周囲が粒子となって溶けていくように、少しずつ周囲が崩壊していく。
「時間だ。君も早くお暇した方がいい。この場に残って、不審者扱いは不愉快だろう?」
「……おい、こいつで人が「何人」死ぬか知ってるか?」
「……十人程度、かな? 殺人か、重病の悪化か、交通事故か。あるいは古い建物が一、二棟壊れ、何人かが巻き添えをくらう。いわゆる、〈辻褄合わせ〉だな」
「他人事! テメーらがそいつを……!」
「――なあ、あんたはいい加減黙れや。あんたがここにいる時点で共犯者だろう? 俺が害悪なら、あんただって十二分に害悪だろうがよお!」
唐突に、豹変したように恫喝した男に、思わず〈マリア〉はビクリとする。その表情には、根本的なところで刻まれた、ある対象への「恐怖」の痕が垣間見られた。
「ケ、ケーくん……やだ、怖いぃ……」
「! ミキ! ごめん、悪かった、悪かったよ、怖がるなって……」
震え、涙を湛え始めた女性を、青年は必至に抱きしめる。一瞬だけ、〈マリア〉は攻撃の体勢を見せたが、忌々しげに舌打ちをすると、視線を逸らした。
「……ケーくん、お家に、帰る?」
「ああ、連れてってくれ。ミキならひとっ飛び、いけるだろ?」
ニイぃ、と、安心しきった幼児のような笑顔を浮かべると、彼女は迷うことなく青年を抱きかかえた。
右腕に頭を、左腕に両足を関節から抱えて。
いわゆる、お姫様抱っこ。
「では、私はこれで失礼するよ。君は自分で帰れるだろう?」
青年がそう言い残すと、女性はその場から高く跳躍し、去っていった。
数十メートルは下らないビルの屋上から、女性は青年を抱えた状態で飛び上がってみせたのだ。
その速度、高度ともに、十二分に人間の身体能力を超越していた。
「……本当に、〈少年〉のクズどもは、恥知らずしかいない……不快で、腐りきった、くそったれな男どもが……!」
〈マリア〉を残し、世界は崩壊を続ける。
もう間もなく、世界は元通りの姿に戻る。
何事もなかったように、人が暮らし、建物が林立する、そんな至って普通の世界に。
もっとも、そのために、〈肉塊〉という外敵の侵略〈辻褄合わせ〉が行われるのか。そのために、どれだけの人間が死ぬのか。
要するに、なにもかも、〈少年〉が悪い。
「すべて、すべてを、殺し尽くしてやる」
だから〈マリア〉は憎悪する。
こんな糞ったれな世界を作り出した――そしてそんな糞ったれな世界に引きずり込んだ、鬼畜生のような〈肉塊〉の全てを。
憎悪、殺意、殺戮――それこそが、〈マリア〉の全てだった。
「全ての〈肉塊〉どもを、根絶し尽くしてやる……欠片だって、残しやしない!」
だからもちろん、あそこで陶酔をかましている〈少年〉だって殺してやるのだ。
だからもちろん、あのいけ好かないヒステリックなお姫様抱っこ野郎だって。
この手で――徹底的に、捻り潰すように。
何故ならそれこそが、〈マリア〉のすべてなのだから――!
去り際にもう一度眼下の〈少年〉〈少女〉を睨み据え、戦乙女は移りゆく世界からそっと姿を消した。