第一節 紫天の旅路
洞窟の外には、朝の静けさが広がっていた。空は相変わらず淡い紫色を放っており、木々の隙間から差し込む光が、地面に降りた朝露をきらきらと輝かせている。
いつものように朝の鍛錬を終えたガルトが、洞窟へ戻ってきた。
「あっ、ガルトさん! おはようございます!」
メアの元気な声が響いた。
「……ああ。もう起きていたのか」
「はい! とても気持ちのいい朝ですね」
ガルトはメアの顔色を確かめた。
「身体はどうだ。まだ辛いところはないか?」
「もう大丈夫です!」
メアは両腕をぐっと曲げ、力こぶを作るようなポーズを取る。
「ほら! すっかり元気です!」
「……そうか」
その姿に、ガルトは思わず目を細めた。
「なら、朝飯にするか」
「はい!」
ガルトが取り出したのは、昨夜、二人が洞窟で語り合ったあと、口にした木の実と干し肉だった。
「昨晩と同じものですまんな。しばらくはこんな食事が続くと思ってくれ」
「いえ! 私、この木の実好きです!」
そう言いながら、メアは嬉しそうに木の実を口に運ぶ。
「んっ、おいしい!」
その笑顔につられるように、ガルトも小さく笑い、干し肉を頬張った。
二人は簡単な朝食を済ませると、出発の支度を始めた。
「さて、そろそろ出発するか」
「はい!」
メアは立ち上がり、髪を手ぐしで整え、服についた埃を払った。
特に荷物のないメアにとっては、これが精一杯の準備だった。
「準備できました!」
ガルトはメアの声に頷き、荷物を手に取って振り返った。
「そうか。では――」
そこで、ふとメアの服装に目を留めた。
「……その格好で行くつもりか?」
「……格好?」
メアは不思議そうに首を傾げ、自分の服を見下ろした。
「何か変ですか?」
「変というわけじゃない。……だが、この先は森の中を歩く。枝に引っかかるし、足元も危ない。その服装では少々心許ないな」
「あ……」
言われて初めて、メアは自分の格好が旅に向いていないことに気づいた。
「でも、私、着替えなんて持ってないです……」
「ああ、そうか。まだ言ってなかったな」
「何をですか?」
「この世界では、衣服を自分で作れる」
「……え?」
メアは一瞬、何を言われたのか分からず、きょとんとした。
「ええっ!? 自分で服を作れちゃうんですか!?」
「ああ。魂雫を使って、頭に思い描いたものを形にするんだ」
「魂雫は、そんな便利なことまでできるんですね……!」
メアは目を輝かせた。
「ちなみに、ガルトさんの服も?」
「そうだ。これも自分で作ったものだ」
ガルトは自分の上着を軽くつまんで見せた。
「へええ……!」
メアは感心したように、その服をまじまじと見つめた。
「試しにやってみろ。難しく考える必要はない。着たい服を思い浮かべるだけだ」
「着たい服……」
メアはその言葉を小さく繰り返した。
彼女が目を閉じるのを見届けると、ガルトは背を向けた。
「終わったら声をかけてくれ」
「えっ、どうしてですか?」
「一応、着替えだからな」
「あっ……ありがとうございます」
メアは少し照れながら、改めて目を閉じた。
着たい服。そう言われて真っ先に浮かんだものがあった。
昔、商店街の洋服店で見かけた可愛らしい服。店の前を通るたびに何度も目を奪われた。
けれど、欲しいと口にしたことは一度もない。母の薬代や日々の食費を稼ぐため、朝から晩まで働いていたメアにとって、そんな服は自分には関係のないものだと決めつけていた。
――一度でいいから、あんな服を着てみたかったな。
その瞬間、淡い光が身体を包んだ。
「わっ……!」
光の粒がふわふわと舞い、身体の周りを優しく巡る。やがて光が収まると、先ほどまでの服は消え、柔らかな色合いの衣装が現れていた。
「……すごい!」
レースのあしらわれた白いブラウスに、クリーム色の短い上着。胸元には大きな黒いリボンが揺れ、淡い桃色のスカートがふわりと広がる。足元の可愛らしい焦げ茶色の革靴まで、思い描いた通りだった。
「ガルトさん! できました!」
「そうか」
振り返ったガルトは、動きを止めた。
「…………」
「どうですか? こんな服、ずっと着てみたかったんです!」
メアがくるりと回る。軽やかなスカートがふわりと広がった。
「……メア。俺の話を聞いていたか?」
「えっ?」
「これから森を歩くんだぞ」
ガルトの視線を追って、メアも自分の足元を見る。
露出した脚。歩きにくそうな靴。木の枝に引っかかりそうな装飾。
「……あ」
「それでは脚を傷つける。靴も長旅には向かん。その飾りも邪魔になるだろう」
「す、すみません……。ついつい……」
嬉しそうだった笑顔が、少しずつしぼんだ。メアは恥ずかしそうにスカートの裾を握る。
「現世では、こういう服、着たことがなくて……一度でいいから、着てみたかったんです」
ガルトは口を閉ざした。
メアの母親が体調を崩していることは、すでに聞いていた。
もしかすると、この少女は、自分の欲しいものをずっと後回しにしてきたのかもしれない。
先ほどまであんなにも無邪気にはしゃいでいたメアが、今は恥ずかしそうに俯いている。
ガルトは静かに息を吐いた。
「……メア」
「はい……」
「似合ってるぞ」
「……え?」
「その服だ。よく似合ってる」
メアが顔を上げた。
「ほ、本当ですか!?」
「ああ」
「……えへへ。ありがとうございます!」
ぱっと咲いた笑顔に、ガルトもわずかに目元を和らげた。
「ただし、旅には向かんな」
「……ですよね」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
「可愛らしさを捨てろとは言わん。ただ、動きやすさと安全性を考えろ。脚を守れるものにして、靴も丈夫なものを意識するんだ」
「はい!」
メアはもう一度目を閉じた。
森を歩けること。走れること。転んでも、なるべく怪我をしないこと。それから――やっぱり、少しは可愛くしたい。
光が再び集まり、メアの身体を包み込んだ。
「……できました!」
長袖のブラウスに、青紫色のスカート風キュロット。脚は濃い色のレギンスで覆われ、足元には丈夫な編み上げブーツ。腰には小さなポーチ、肩には短いケープが揺れている。
ガルトは足元から肩まで眺めた。確かに先ほどより、ずっと動きやすそうだ。
ただ、ケープやキュロットの裾が身体の輪郭よりも外へ広がっており、木の枝に引っかかりそうなのが少し気になった。
口を開きかけたが、期待に満ちたメアの瞳を見て、言葉を飲み込む。
「……まあ、いいだろう」
「本当ですか!」
「ああ。最低限、動ける格好にはなった」
「よかったぁ……!」
ガルトは表情を改め、続けた。
「ただし、覚えておけ。魂雫で作った衣服は、作るときに魂雫を消耗する。そして、身体から完全に離れると消えるんだ。だから他人と貸し借りはできん」
「そうなんですか?」
「ああ。消えてもまた作れるが、そのたびに魂雫を使う。極力、無駄遣いは避けることだ」
「はい、気をつけます!......でも、本当にすごいですね、魂雫って。衣服以外にもいろいろ作れたりするんですか?」
メアは興味津々に問いかけた。
「いや、作れるのは衣服だけだ。武器や道具は作れん」
「えっ、どうして服だけなんですか?」
「さあな。……メア、お前はこの世界に来たとき、裸だったか?」
「えっ!?」
突然の質問に、メアは思わず自分の身体を見下ろした。
「ち、違います! ちゃんと服を着てました!」
「そうだろう。理由は分からんが、俺たちはこの世界に来たときから服を着ていた。だからはじめから所有している衣服だけは、魂雫で自在に作れるのかもしれんな」
「へえ……不思議ですね」
「いずれにせよ、魂雫では衣服しか作れん。貸し借りもできない。覚えておくと良い」
「わかりました!」
そう言うと、メアは新しいブーツで小さく足踏みをした。今まで履いたどんな靴よりも、足にしっくり馴染んだ。
ガルトは荷物を肩に掛け、洞窟の奥を一度だけ振り返った。
昨夜まで二人が身を寄せていた場所は、もう静まり返っている。
「忘れ物はないな?」
「はい! ……あっ、私、持ち物らしい持ち物はないんでした」
メアが照れ笑いすると、ガルトもつられて笑った。
二人は洞窟の入口へ向かい外を見渡した。
紫色の光が差し込む外には、まだ知らない森が広がっている。
少し不安そうな表情を浮かべるメアの隣にガルトが立つ。
「怖いか?」
「……少しだけ。でも、ガルトさんが一緒ですから」
「そうか」
ガルトは小さく頷くと、洞窟の外へ一歩を踏み出した。メアもその後を追い、隣に並んだ。
メアは隣を歩くガルトの横顔を見上げた。
この世界に来てから、まだ二日しか経っていない。分からないことばかりで、不安がないと言えば嘘になる。それでも、不思議と足取りは軽かった。
ガルトがいてくれる。それだけで、何よりも心強かった。
しばらく歩いたところで、ガルトが静かに口を開いた。
「これから俺たちが向かうのは、ハシロウという男の村だ」
「村? この世界には村があるんですか? ここの人たちはみんなシリュウスに怯えて隠れて暮らしてるんですよね?」
「ああ、そうだ。だがハシロウの村は別だ。……奴の能力でシリュウスから隠されている」
「へえ……。ハシロウさんってすごい方なんですね。……どんな方なんですか?」
「会えば分かる」
「えっ、それだけですか?」
「ああ。人となりは、俺から聞くより直接会った方が早い」
「……なんだか、余計に気になります」
メアはまだ見ぬ村の姿を思い浮かべた。
シリュウスの脅威から隠された場所。そこにはどんな人たちがいて、どんな暮らしをしているのだろう。
そんなメアの隣で、ガルトは遠くの木々へ目を向けた。
「もう一度あの男に挑むなら情報が必要だ。だからハシロウの村には立ち寄っておきたい」
「わかりました! じゃあ、まずはハシロウさんの村ですね!」
「ああ」
「ちなみに、どんな村なんですか?」
「……行けば分かる」
「もう、ガルトさん。そればっかりです」
メアが頬を膨らませると、ガルトは呆れたように小さく笑った。
「心配するな。さっきの洞窟よりは落ち着ける場所だ」
「それなら楽しみにしておきます!」
そんな会話をしながら、背後に残した岩陰が、少しずつ遠ざかっていく。
不安が消えたわけではない。それでも新しいブーツが土を踏むたび、メアは帰るべき場所に確実に近づけている気がした。
木々の隙間から差し込む淡い紫の光を浴びながら、二人の足音は森の静寂へと溶けていった。




