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虚界のヒカリ ―帰還を望む者たち―  作者: 黒天秤
第二章 虚な道連れ
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第二節 迷い人



「……もう、嫌だ」


 青年はうつむいたまま、湿った落ち葉を踏みしめていた。寝癖のように乱れた灰色の髪が額を覆い、目の下には濃いクマが浮かんでいる。背中は丸まり、足取りにも力がない。

 頭上には、紫色の空が広がっていた。

 青白く透ける幹。鈴に似た実をつけた蔓草。風もないのに葉を揺らす草花。目に入るものすべてが見知らぬものだった。


「……帰りたい」


 どこへ向かっているのか分からない。右を見ても、左を見ても、森が続くだけだ。引き返そうにも、自分がどちらから来たのかすら覚えていない。

 青年は木の幹に背を預け、ずるずると腰を下ろす。目を覚ましてから、もう丸二日ほど経っている。


「……夢なら、早く覚めてくれよ」


 腹が減っていた。喉も渇いている。それ以上に、胸の奥が落ち着かない。


 何かが足りない。今すぐにでも、何かを手に入れなければならない。そんな焦りが、休もうとするたびに湧き上がってくる。


「……くそ」


 無意識にポケットを探った。何もない。青年は空のポケットを握り締め、やがて力なく手を離す。


「……ないよな。そりゃ」


 そのときだった。

 ふと、手のひらに淡い光が灯る。


「……え?」


 光はゆっくりと膨らみ、やがて薄い霧となって指の隙間から溢れ出した。

 青年は驚いて手を引こうとしたが、不思議と恐怖は感じなかった。

 霧が身体を包み込むにつれ、胸の奥を締めつけていた不安が、少しずつ和らいでいく。

 荒かった呼吸が落ち着き、震えていた指先からも力が抜けていった。


「……なんだ、これ」


 やがて光は薄れ、霧も跡形もなく消える。

 青年は恐る恐る手を持ち上げたが、もう何もない。


「……何なんだよ、ここ」


 遠くから、金属を擦り合わせたような何かの鳴き声が響いた。

 びくりと肩を震わせ、青年は立ち上がる。また何かが近づいてくる前に、少しでも先へ進まなければ。

 そう考えたとき、木々の向こうから、かすかに人の声がした。


「……人?」


 足を止める。知らない場所で、知らない人間に近づいていいものだろうか。


「……やめとくか」


 踵を返しかけた途端、ぐう、と腹が鳴った。

 青年は腹を押さえ、もう一度声のする方を見る。


「……くそ。一応確認しとくか。もしかしたら良い人で食べ物わけてくれるかもだし……」


 青年は、自分に言い聞かせるように独り言を言いながら、重い足をそちらへ向けた。


 *  *  *


「ガルトさん、この辺りの木の実って全部食べられるんですか?」

「いや。見た目が似ていても毒を持つものがある。知らないものには手を出すなよ」

「はい!」


 そんな会話をしながら、メアは新しい服がよほど気に入ったらしく、ときおり袖や腰のポーチを確かめていた。

 そのときだった。


「……あの」


 弱々しい声がした。

 振り返ると、木の陰に一人の青年が立っている。乱れた灰色の髪。濃いクマ。ひどく丸まった背中。立っているだけでも辛そうだ。


「あっ……いや、その……」


 メアと目が合うと、青年は気まずそうに視線を逸らした。


「何か用か?」


 ガルトが尋ねる。


「……いや。別に」

「そうか。なら行くぞ、メア」

「えっ?」


 メアは青年をもう一度見た。どうしても放っておけない。


「あの! もしかして、道に迷っているんですか?」


 青年がびくりと肩を震わせる。しばらく黙ったあと、気まずそうに頷いた。


「……まあ」

「やっぱり! 大丈夫ですか? ずいぶん疲れているみたいですけど……」

「……別に。大丈夫」


 ぐうう、と大きな音が鳴った。

 青年は腹を押さえた。


「……お腹、空いてるんですね?」

「……いや。まあ、ちょっと」

「ちょっと、ですか?」

「……結構」


 メアは笑みをこぼし、腰のポーチから赤い果実を取り出した。ガルトが森で採り、食べられると教えてくれたものだ。


「これ、よかったらどうぞ!」

「……え? もらって、いいの?」

「もちろんです!」

「……どうも」


 青年はおずおずと受け取り、小さくかじる。


「……うまい」

「よかった!」


 メアは水も差し出した。青年は何度か遠慮したが、結局受け取り、喉を鳴らして飲んだ。


「ここに来て、どれくらいだ?」


 ガルトが尋ねた。


「……二日くらいかな。気づいたら森にいて、ずっと歩いてた」

「一人でか?」

「……うん」

「……よく無事だったな」

「……俺もそう思う」


 メアは少し笑った。


「私も、ここに来たばかりなんです。最初はすごく驚きました」

「……だよな。空、紫だし」

「そうなんです! 私もびっくりして!」


 青年の口元に、ごく小さな笑みが浮かぶ。


「……変な世界だよな」

「はい。でも、綺麗なところもたくさんありますよ」

「……そうかな」


 青年は木々の隙間から空を見上げた。昨日から不安しか与えなかった色が、ほんの少し違って見えた。


「そういえば、まだ名前を聞いていませんでしたね。私はメアです。こちらはガルトさん」

「……ああ」


 青年は気だるそうに頷いた。


「俺は……」


 そこまで言って、言葉が止まる。ふとメアの顔を凝視した。


「……?」


 メアは心配そうに顔を覗き込む。


「あの……どうかしました?」

「……いや。あ、ああ。俺は……ドウシュだ」

「ドウシュさん、ですね?」

「……うん」


 答えながらも、ドウシュの表情はどこか落ち着かなかった。メアは少し考え、何かに気づいたように声を上げる。


「あっ! もしかして、名前に違和感があるんですか?」

「……え? そ、そうなんだよ!」


 青年は妙に勢いよく頷いた。


「あっ、それ、私もそうでした!」

「……え?」

「ここに来る前の名前と、少し違うんですよね? この世界では、名前が変わることがあるんですって」

「……そう、なんだ」


 ドウシュは小さく呟いた。


「そういえば、ガルトさん」

「なんだ?」

「どうして、この世界では名前が変わっちゃうんですか?」


 ガルトは少し考えるように腕を組む。


「さあな。元の世界の名前と何か関係があるとは思うが、それ以上は分からん」

「ええっ! ガルトさんでも知らないんですか?」

「……俺だって分からないことだらけだ」

「そうなんですね……」


 メアは自分の名前を確かめるように、小さく呟いた。


「……メア」


 聞き慣れてきたはずの名前。それでも、どこか自分のものではないような、不思議な感覚が残っている。


「名前が変わるなんて、やっぱり変な世界ですね」

「……今さらだな」

「......ふふ。確かにそうですね」


 メアとガルトは目を合わせて小さく笑った。

 そんな二人のやり取りを眺めながら、ドウシュはもう一度だけメアに目を向ける。

 初めて会ったはずの少女。その笑顔を見た瞬間、胸の奥に小さな違和感が生まれた。


「……どこかで」


 思わず漏れた言葉は、誰の耳にも届かなかった。

 ドウシュは何かを思い出そうとする。けれど、浮かびかけた何かは、形になる前に消えてしまう。

 ただひとつ、確かなことがあった。

 あの笑顔にあふれた彼女の顔を、自分は初めて見た気がしなかった。

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