第六節 孤独な玉座
虚界の遥か彼方。
険しい山脈を越え、荒れ果てた平原のさらに先に、巨大な城がそびえ立っていた。
天を突くように伸びた幾つもの尖塔。かつては白く輝いていたであろう石壁には、長い年月を経て刻まれた無数の傷が走っている。
崩れかけた回廊を吹き抜ける風は、人気のない広間に冷たい音だけを運ぶ。
城の最上階に位置する玉座の間。
白い玉座に腰掛けているのは、この世界の絶対的な支配者
――シリュウス。
その名を知らぬ者は、虚界にはいない。
遠くの回廊から、足音が響き、重い扉が開いた。
入ってきたのは、一人の男の腕を掴んだミヤゲルだった。男は足をもつれさせながら、必死に抵抗している。
「離せ! 頼む、どこへ連れていくつもりだ!」
ミヤゲルは答えず、男を玉座の前へ連れていった。
「シリュウス様。お連れしました」
彼が手を離すと、男は石床に膝をついた。
顔を上げた先にある白い玉座。その人物を見た途端、男は息を呑んだ。
「お、俺は何もしてない……!あんたに逆らったことだって、一度もない!」
シリュウスは肘掛けに頬杖をついたまま、何も言わず男を見下ろしている。
「頼む……!助けてくれ!何でもする!だから、命だけは……!」
返事はない。
しばらくして、シリュウスが片手を上げた。
そのとき、玉座の間に差し込む空の色が変わり始めた。
高窓の向こう、深い紫の一角に赤が滲む。それは波紋のように広がり、わずかな間に空全体を禍々しい深紅へと染め上げていった。
男は反射的に目を閉じる。何かが飛んでくると思った。身体を貫く痛みを覚悟した。
だが、何も起こらない。恐る恐る目を開ける。
その瞬間、胸の奥で何かが震えた。
「……え?」
痛みはなかった。
ただ、自分の内側にある何かが、ゆっくりと引きずり出されていく。
「な……何だ、これ……」
胸元から、淡い光が滲み出した。細い光の筋が幾重にも絡まり、ひとつにまとまって宙へ浮かび上がる。
男は慌てて胸を押さえた。
しかし、何も触れない。傷ひとつない。それなのに、身体の奥が急速に空っぽになっていく。
「やめ……ろ……」
やがて、宙に浮かんだ光が、男の身体から完全に離れ、シリュウスの掌へと吸い込まれていった。
その直後、男は途端に膝から力が抜け、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
その瞳からは、ゆっくりと光が失われていき、そして動かなくなった。
広間に静寂が戻る。だが、次の瞬間。
倒れた男の指先が、かすかに震えた。続いて肩が揺れ、その身体がぎこちなく起き上がる。
背丈も手足も、先ほどまでと変わらない。けれど、衣服は跡形もなく消え去り、肌からは生きた者の色が抜け落ちていく。
そして顔からは表情どころか、目も、鼻も、口も、人の顔を形作っていたものが、次々と失われていく。
やがて、そこに残されたのは、底知れぬ黒い虚無だけだった。
新たな骸虚が、誕生した瞬間である。
シリュウスはそれを一瞥すると、興味を失ったように視線を外した。
その動きを見たミヤゲルは、すぐさま膝を付き、何事もなかったかのように報告を始めた。
「新たな来訪者を二名確認しました。......しかし、残念ながら今回もお望みの結果には至りませんでした」
「……そうか」
シリュウスは、表情一つ変えず短く応えた。
「報告は以上です」
「......」
ミヤゲルはシリュウスの様子を僅かに上目で確認した後、静かに立ち上がり、骸虚に歩み寄った。そして、慣れた手つきで灰白色の胸に手を当てた。
ミヤゲルの掌から淡い光が流れ出し、骸虚の身体に吸い込まれていった。
「これは、適当な場所へ放ってまいります」
シリュウスは答えなかった。
ミヤゲルは深く一礼し、骸虚を伴って玉座の間を後にした。
重い扉が閉まる。あとには静寂だけが残された。
いつしか城を覆っていた赤は薄れ、空は夜の深い紫を取り戻していた。
* * *
どれほどの時間が過ぎたのだろう。
シリュウスは、白い玉座に腰掛けたまま動かない。
広すぎる空間には、物音ひとつ立てるものはない。まるで空気すらも支配者を恐れ息を殺しているかのようだった。
その時、彼が静かに立ち上がり、玉座の奥へと歩き出した。衣服の生地が擦れる音がやたらと際立つ。
長い回廊を抜け、一際大きな扉を開けた。
その先には、城の中とは思えないほど広い部屋があった。
高い天井の下、さまざまな草木が生い茂り、その間を細い水路が巡っている。
柔らかな水音が、静かな室内に絶えず響いていた。
石畳の小道の先には、二人で腰掛けられる長椅子が一つ置かれている。
荒れ果てた城のほかの場所とは違い、この部屋だけは隅々まで手入れが行き届いていた。
伸びすぎた枝はなく、水路には落ち葉一枚浮かんでいない。
彼は小道を進み、長椅子の前まで行き静かに腰を下ろした。誰かと座れるようにだろうか、やけに端に寄っている。
シリュウスは、水の流れる音に耳を澄ませ、何かを思い出すかのようにそっと目を瞑った。
その沈黙の奥で、この世界を支える何かが、今も途切れることなく息づいていた。
* * *
同じ時、遥か南方の森。
夜も更け、木々の間には深い闇が広がっていた。
岩壁の奥にひっそりと口を開けた洞窟では、メアとガルトが静かに眠りについている。
二人は、まだ知らない。
遥か彼方の城で、また一人の来訪者が魂を奪われたことを。
洞窟の外では、夜の闇を帯びた深い紫色の空が、徐々に鈍い鉛色へと変わっていく。
どこまでも広がる灰色の空が、今だけはひどく寂しそうに見えた。
まるで、この世界のどこかで、誰かが声もなく泣いているかのように。
――第一章・完――
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
黒天秤です。
第六節をもって、『虚界のヒカリ』第一章は完結となります。
物語はまだ始まったばかりです。第二章では新たな出会いとともに、虚界の謎が少しずつ明らかになっていきます。
少しでも面白いと感じていただけましたら、評価(☆☆☆☆☆)やブックマークで応援していただけると嬉しいです!
それでは、第二章でまたお会いしましょう!
黒天秤




