第四節 砕けない大樹
腹の底に響く震動で、メアは目を覚ました。
頭上から細かな砂が落ちてくる。洞窟の奥まで震えが伝わり、積んであった薪の一本が転がった。
「……地震?」
身を起こして耳を澄ます。しばらくして、もう一度。今度は遠くで何かが砕けるような響きがした。
ガルトの姿はない。入口に置かれた水筒も、昨夜と位置が変わっていた。
メアは毛布をたたみ、洞窟を出た。
朝の空は淡い紫色だった。昨夜の赤みはすっかり消え、岩肌をなでる風には少し冷たさがある。
音のする方に向かうと、森の木々とは比べものにならない一本の大樹が、空を支える柱のように立っている。
幹のあちこちが深くえぐれ、地面には折れた枝と木片が散らばっていた。
その根元に、ガルトがいた。
彼は数歩下がって呼吸を整えると、片手を大樹に突き出した。手のひらの先で空気がかすかに歪む。
直後、眩い光と同時に大樹の幹が揺れた。
大きな衝撃が駆け抜け、メアは押し倒されそうになるのを必死に堪えた。しかし、大樹は倒れない。
ガルトは腕を下ろした。
息こそ乱していなかったが、手のひらを開閉する仕草がどこか重い。
「ガルトさん!」
呼びかけると、彼は驚いたように振り向いた。
「起こしてしまったか?......すまない」
「いえ、大丈夫です」
「身体の具合はどうだ?少しは休めたか?」
「はい。少し疲れは残ってますけど、もう平気です」
「そうか。それならいい」
「それより、洞窟まで揺れて……。何をしてるんですか?」
「見てのとおり、大樹を倒そうとしている」
「それは、見れば分かりますけど」
思わず言い返してから、メアは口をつぐんだ。
ガルトは一瞬きょとんとし、それから少しだけ表情を緩めた。
「そうだな。答えになってなかった」
彼は大樹を見上げる。
「俺が、この先へ進むためだ」
「この先、ですか?」
「昨日、シリュウスの話をしただろう」
その名前を聞いただけで、メアの胸に冷たいものが落ちた。
「……はい」
「俺は一度、あいつに挑んでいるんだ」
「えっ?」
思わずガルトの顔を見る。
彼は視線を返さず、傷だらけの幹を見つめていた。
「この世界に来て一年が過ぎた頃、ようやくあいつのところへたどり着いた。だが……」
そこで言葉が途切れる。
「倒すどころか、まともに届きもしなかったよ」
ガルトは右手を握りしめた。
「……そして、俺は......大切な人を失った」
それ以上、言葉は続かなかった。
メアには、その人が誰なのか尋ねることができなかった。
「それから二年。ここで能力を磨いてきた。この大樹は、俺の成長を測る目印みたいなものだ」
「目印……」
「こいつを倒せないようなら、もう一度挑んだところで同じだろう」
大樹の根元には、新しい傷の下に古い傷が重なっている。幹の裂け目は深いのに、中心はびくともしていない。
二年間。
メアにはその長さをうまく想像できなかった。
同じ場所に立ち、同じ相手を思い、昨日より強くなることだけを考え続ける日々。
「……また、シリュウスに挑むの......怖くないんですか?」
「怖いさ」
思いがけないほど早い返事だった。
「俺だって、死ぬのは怖い。......ただ、帰れない方がもっと怖い」
ガルトは小さく息を吐く。
「娘に、もう一度会いたいからな」
その横顔を見た途端、メアは自分の母を思い出した。
あの夕暮れ、買ったばかりのコロッケはどうなったのだろう。道に転がってしまっただろうか。母は今、どこで自分を探しているのだろう。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
「……私も、帰りたいです」
「ああ」
「だから……ガルトさんには、帰ってほしい」
言ってから、少し違うと思った。
この人だけではない。自分だって帰りたい。
それなのに、いま目の前にいる人が何度も手を伸ばし、届かずにいることが、どうしようもなくつらかった。
「いや、違う。えっと……一緒に、帰りたいです」
ガルトはようやくメアを見た。
「そうだな。一緒に帰れるといいな」
ほっとした。
その途端、不思議な温かさが胸の奥に灯った。
「……ガルトさん」
「ん?」
「ちょっと、肩に触ってもいいですか?」
「肩?」
「変なこと言ってるのは分かるんです。でも、なんとなく……」
説明しようとすると、その感覚は指の隙間から逃げてしまう。メアは自分の胸元を押さえた。
「昨日言ってた能力。今なら私もできそうな気がするんです」
ガルトは困ったように眉を寄せた。
「無理はするなよ」
「はい。少しだけ」
差し出された肩に、メアはそっと手を置いた。
服越しに硬い筋肉の感触が伝わる。そして、胸の奥に灯っていた温もりが動いた。
水が低い方へ流れるように、何かが指先へ集まり、手のひらを通り抜けていく。
メアは驚いて息を止めた。触れている場所から、ほのかな光がにじんでいる。
「……あれ?」
ガルトがすぐに反応する。
「どうした?」
「今、光って……」
「光?」
彼も目を落とした。
布地の下に小さな光が浮かび、すぐに消えた。
ガルトは片手を握り、開く。何かを確かめるような仕草だった。
「妙だな。さっきより身体が軽い」
「本当ですか?」
「気のせいかもしれん。だが……」
彼は大樹から離れた岩壁に向き直り、指先を伸ばした。
「少しだけ、試すぞ」
ガルトが人差し指を伸ばす。指先に小さな光が凝り、細い弾道が岩の角を正確に穿った。
硬い石が内側から欠け、弾けた破片が地面を跳ねる。メアは反射的に目を閉じた。
「間違いない。……いつもより力が乗っている」
ガルトは自分の指先を見つめた。驚きよりも先に、警戒が浮かぶ。
「メア、手を離してみてくれ」
言われたとおりに離すと、あの温かい流れが途切れた。
「気分は悪くないか?」
「少し、ぼうっとしますが、大丈夫です」
「なら、今日はここまでだ」
「......ちょっと、待ってください」
メアは大樹を見上げた。
太い幹。
何度も力をぶつけられ、なお立ち続けるその姿が、帰る道を塞ぐ壁のように見えた。
「もう一回だけ、やってみませんか?」
「何が起こっているのかも分からない。危険だ」
「でも、私の力が役に立つかもしれないなら……」
「メア」
名前を呼ばれ、言葉が止まる。
「焦るな。能力の正体を見極めてからでも遅くはない」
ガルトの声は静かだった。
メアは、胸の内にある不安を改めて意識した。
「……分かってます。私も、怖いです」
素直に口にすると、指先が少し震えた。
「でも、これが帰るための一歩になるかもしれないから……」
ガルトは黙り、メアは彼の返事を待つ。
木々を渡る風が二人の間を通り抜け、足元の枯れ葉を揺らした。
「……一度だけだ」
やがてガルトが言った。
「少しでもおかしいと思ったら、すぐ手を離せ。俺もすぐに止める」
「はい」
「約束できるな?」
「約束します」
ガルトは大樹の正面に立ち、両足を左右に大きく開いた。右腕をまっすぐ突き出し、左手で右手首をしっかりと支える。
メアはその左隣に並ぶ。
目の前にそびえる大樹は、二人の行く手を阻む巨大な壁のようだった。
メアは左手を自分の胸に当てると、右手を伸ばし、ガルトの左肩にそっと添えた。
その姿は、華奢な少女が巨大な大砲を構え、今まさに撃ち放とうとしているかのようだった。
「……準備はいいか?」
「はい」
二人は同じ大樹を見据えた。
メアは、胸の奥から、さっきよりはっきりと温もりが流れ出すのを感じた。
「――狩神砲!」
開いた掌の前に光が凝縮した。
周囲の空気がそこへ引き寄せられるように震え、次の瞬間、押し潰した光の塊が大樹へ解き放たれる。
同時に、メアの手を通る流れが一気に強まった。足の裏から熱が抜けるような感覚に襲われる。手を離そうとしたが、身体がいうことを聞かない。
幹の中心に、目には見えない巨大な槌が打ち込まれた。厚い樹皮が内側から弾け飛び、巨大な亀裂が走る。
遅れて谷全体が揺れた。根元の土が盛り上がり、隣の木々が枝をぶつけ合う。
ガルトの身体が揺らぐ。
その肩に触れたまま、メアは息を吸おうとした。
吸えない。
指先から温もりが抜け、代わりに冷たさが這い上がってくる。
「……ガルト、さん」
声が遠い。
目の前の大樹が激しく震え、亀裂がみるみる広がっていく。
ガルトが振り向く。
「メア?」
返事をするつもりだった。けれど膝から力が消えた。
視界の端が暗くなり、世界が急に遠ざかる。
「メア!」
倒れる直前、筋肉質な腕が華奢な身体を受け止めた。
その向こうで、大樹が地を打つ衝撃が走った。
積み重なった年月が一度に崩れるように、土と葉が空へ舞い上がる。
メアが最後に見たのは、倒れた大樹ではなく、自分を抱えたガルトの、血の気を失った顔だった。




