第三節 理を統べる者
岩壁に沿って回り込むと、大きな岩と倒木に隠れるように洞窟の入口が見えた。
入口は狭いが中へ入ると、思ったより奥行きがあった。
壁際には水や食糧、丁寧に畳まれた毛布、束ねられた薪が並んでいる。誰かが長く、ここで生活してきたことが分かる。
「ここを拠点にしている。外よりかは安全だろう」
ガルトは入口の外を確認すると、水の入った容器を差し出した。
「まず飲め。かなり走ったからな」
「……ありがとうございます」
メアは両手で受け取ってひと口飲む。
冷たい水が喉を通ると、ようやく自分が息をしている実感が戻ってきた。
ガルトは入口を見張れる位置に腰を下ろした。
「さて。聞きたいことは山ほどあるだろう」
「……はい」
「順番に聞こう。全部答えられるとは限らんが......」
その言い方に、メアはほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「じゃあ、まず……ここは、どこなんでしょうか」
「ここは『虚界』と呼ばれ、俺たちが元いた世界とは違う場所だ」
「虚界……」
声に出してみても、聞き慣れない言葉だった。
「私だけじゃないんですか? こうやって、突然ここへ来る人って」
「ああ。俺もその一人だ」
「ガルトさんも?」
「三年ほど前にな」
「……三年」
何気なく告げられたその数字が、メアには重かった。
彼女はこの世界に来て、まだ何時間も経っていない。なのに目の前の男は、ここで三年を過ごしている。
「じゃあ、元の世界には……」
言いかけた途端、夕暮れの道が頭に浮かんだ。
子供の背中を押した感触。迫ってきた車の影。身体を貫いた、あの衝撃。
「……あっ」
メアは自分の腕を見た。
傷一つない。服にも血はついていない。
「どうした?」
「私……車にはねられたんです。確かに、あの時……」
口に出すと、急に怖くなった。
「ガルトさん。私、もしかして……死んじゃったんでしょうか」
「いや」
即座の答えに、メアは顔を上げた。
「お前は死んでいない」
「……どうして分かるんですか?」
「うまく説明できない。俺もここへきた時、最初はあの世かと思ったが……現世に残した身体が、まだ生きている。そう感じるんだ」
ガルトは胸元に手を当てた。
「理屈じゃない。身体の奥に、細い糸が残っているような感覚だ。お前にもないか?」
メアも同じように胸に手を当て、目を閉じた。
かすかな温かさがあった。握れば切れてしまいそうな、小さな温もり。
それがどこへ続いているのかは分からない。だが、なぜか懐かしかった。
「……あります。何だろう、これ」
「俺にも分からん。でも、それがある限り、帰れる気がするんだ」
「帰れる……?」
メアは思わず身を乗り出した。
「本当に、帰れるんですか?」
「ああ。保証はないがな......」
その言葉だけで、こわばっていた胸の奥に少しだけ空気が入った気がした。
「私……帰らないといけないんです」
ガルトは急かさず、続きを待った。
「母が、家に一人でいるんです。身体が弱くて、あまり働けなくて……私までいなくなったら……」
その先が言えなかった。
家の鍵は自分が持っている。夕飯だって、今日は自分が用意するはずだった。
いつも「大丈夫」と笑う母が、突然帰ってこなくなった娘をどんな気持ちで待つのだろう。
「……絶対に、帰りたいんです」
「そうか」
ガルトはしばらく黙っていた。
「俺にも、娘がいる」
「娘さん……?」
「十五歳だ。口だけはすっかり一人前になってな」
わずかに笑ったあと、その表情がすぐに消えた。
「……待たせてる。だから俺も、帰らないといけない」
メアはその横顔を見つめた。
自分のことで精一杯で、考えもしなかった。ガルトにも、現世で帰りを待つ人がいるのだ。
「......ちなみに、帰る方法って……あるんでしょうか」
「一つだけ、噂がある」
ガルトの声が低くなった。
「この世界には、シリュウスという男がいる。虚界を支配している男だ」
「シリュウス……」
「そいつを倒せば、この世界は崩壊し、現世へ帰れる......と、そう言われている」
「……倒す、って」
メアはさっきの骸虚を思い出した。あれほど恐ろしい怪物を、ガルトは一撃で吹き飛ばした。そのガルトが、こんな表情で話す相手。
「その人と、戦わなきゃいけないんですか?」
「ああ」
「でも……本当に倒せば、この世界が崩壊して帰れるんですか?」
「さぁな。確かめようがない。奴を倒した者は、一人もいないからな。……だから、噂でしかないんだ」
「そんな……」
「だが、可能性があるなら試す価値はある」
ガルトは一度、言葉を切った。
「……それに、俺は奴と決着をつけなければならない理由がある」
「決着......をつける理由、ですか?」
「ああ」
ガルトは自分の右手を見つめた。
「奴は人の魂を喰らう。虚界の住民はみんな奴を恐れて、身を隠すように暮らしているんだ」
「……魂?」
「魂を奪われた者は、二度と元の姿には戻れない。そして残された抜け殻が、さっきの骸虚だ」
メアの背筋に冷たいものが走った。
「じゃあ……さっきの、顔が真っ黒だった怪物も……」
「ああ。元は人間だった。みんなシリュウスに喰われた奴らさ......」
あの灰白色の手足。何も映さない真っ黒な顔。
それが、かつては誰かだったとは......。
メアは膝の上で指を握った。
魂を奪われた者たちの姿が脳裏をよぎる。
「それと、もうひとつ覚えておけ。この世界の空は、シリュウスの感情によって色を変える」
「……感情で、ですか?」
「ああ。妙な世界だろう?」
ガルトが苦笑する。
「ちなみに、空が赤くなると骸虚は活発になり、攻撃性を増す」
メアは入口の外を見た。
いつの間にか赤みは消え、空は元の薄紫色に戻っていた。
「ほかにはどんな色があるんですか?」
「普段は紫色、たまに赤色や灰色になったりするな。ああ……あと大昔に一度だけ、空一面が漆黒に染まったことがあるそうだ」
「……真っ黒、ですか?」
「そうだ。だが、その時に何が起きたのかまでは情報が残ってない」
今、森の向こうに広がる紫色さえ不気味なのに、空が真っ黒になる光景など想像もできなかった。
「……恐ろしい人なんですね、シリュウスって」
「.....ああ」
メアは聞きたいことを探すように自分の手を見つめ、ふと先ほどの光を思い出した。
「あの……骸虚と戦ったとき、手から光を撃っていましたよね」
「あれは俺の能力だ」
「能力……?」
「ここへ来た人間には様々な力が発現する。お前にも、きっとあるだろう」
「私にも?」
驚いて両手を見たが、いつもの手と変わらない。
「ただ、使う前に覚えておいてくれ。能力に不可欠な魂雫のことを」
「……魂雫、ですか?」
「俺たちの中に蓄えられている力だ。能力を使えば、その分だけ減る」
ガルトは床の小石を指した。
「あれを指先で撃つ程度なら、大した消耗じゃない。だが、威力を上げれば負担も増える」
「なくなったら……どうなるんですか?」
「消耗すれば身体が動かなくなる。休めば戻るが、魂雫を使い果たせば命はない」
メアは思わず息を呑んだ。
「だから、無闇に使うな。ちなみに俺の能力は『弾撃』だ。指先からなら一点を狙える。掌から放ったのは『狩神砲』。威力も範囲も大きいが、その分、魂雫を大量に使う」
「さっきの二つの光、全然違いました…… 使い分けてるんですね」
「そういうことだ」
そう言いながら、ガルトは軽く右手を開いてみせた。
「私の能力は……どうやったら分かるんでしょうか」
「人によるな。すぐ分かる者もいれば、そうでない者もいる。......少し試してみるか?」
「はい!」
メアは小石に掌を向け、思いきり集中した。
何も起きない。もう一度。
今度は目まで細めてみる。やっぱり、何も起きない。
「……だめみたいです」
肩を落とすと、ガルトは小さく笑った。
「今日来たばかりだろう。焦ることはない」
「……はい」
「それに、もう限界じゃないか?」
言われて初めて、メアは自分の身体の重さに気づいた。
車にはねられ、知らない世界で目覚め、骸虚に襲われた。
今さらになって、その一つひとつが全身にのしかかる。
「……ちょっとだけ、疲れました」
「ちょっと、ではなさそうだな。奥に毛布があるから使うといい」
「ありがとうございます」
メアは、奥へ移動して横たわり、目元を擦りながら毛布を引き寄せた。
目を閉じる前に、胸元にそっと手を当てる。あの細い糸のような感覚が、まだそこに残っていた。
(……帰りたいな)
家で待つ母の顔が浮かぶ。
(……お母さん、心配してる......だろう......な)
メアはその顔を思い浮かべたまま、ゆっくり眠りに落ちた。




