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虚界のヒカリ ―帰還を望む者たち―  作者: 黒天秤
第一章 紫の空と、帰る約束
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第二節 紫の空

「……おい」


男の声がした。


「聞こえるか?」


「……ん……」


彩乃は重いまぶたを開いた。

知らない男が、こちらを覗き込んでいる。

短く整えられた黒髪に、鋭い目。三十代後半くらいだろうか。姿勢や身のこなしには妙に隙がない。

男は彼女の目が開いたのを確かめると、ひとつ息を吐いた。


「気がついたか」

「……あの……」


指を動かす。足も動いた。痛くない。

あれほどの衝撃を受けたはずなのに、傷一つ見当たらなかった。


「立てそうか?」

「たぶん……」

「ゆっくりでいい」


男が差し出した手を借りて立ち上がる。

彩乃は改めて周囲を見渡した。

足元には柔らかな草が広がり、小さな白い花が風に揺れていた。草原の端には深い森が横たわり、反対側には緩やかな丘が続いている。

さらに遠く、幾重にも重なる山々が霞んで見えた。

綺麗な場所だ、と一瞬だけ思った。

だが、頭上を見た途端、その感想は消えた。


「……空?」


見上げた空は、紫色だった。


「……え?」


彩乃は何度か瞬きをした。見間違いではない。どこを見ても、空は薄く濁った紫色に染まっている。


「あの……ここ、どこですか?」


自分の声が震えていた。

さっきまで、商店街にいたはずだ。子どもが走り出して、それから、車が――。


「私……どうして、こんなところに……?」

「説明は後だ。まずはここを離れよう」

「で、でも……!」

「大丈夫だ。落ち着け。俺についてこい」


落ち着いた声に促され、彩乃は不安を抱えたまま男の後に続いた。

数歩進んだところで、男が振り向いた。


「そうだ。名前を聞いていなかったな。俺はガルトだ」

「あ、はい。私は……」


口から出たのは、自分でも予想していなかった名前だった。


「……メア、です」


言った瞬間、胸の奥に小さな違和感が残った。

メア。

間違いだとは思わない。けれど、何かが足りない気がする。もう一度名前を言おうとしても、舌は同じ音を選んでしまう。


「……あれ?」

「どうした?」

「いえ……名前が、ちょっと……」


眉を寄せる彼女を見て、ガルトの表情がわずかに和らいだ。


「気にするな。最初はみんなそうだ」

「ガルトさんも?」

「ああ。だが、ここで考え込むのはやめだ」


ガルトが再び歩き出した。

その直後、草原を渡っていた風がぴたりと止まった。

メアは顔を上げる。

紫色の空の一角に、赤い色が滲み始めていた。それは水面に落とした絵の具のように広がり、みるみる空を侵食していく。


「ガルトさん、空が……!」

「……まずい。走るぞ!」


さっきまでの落ち着いた声とは違った。ガルトは速度を上げ、彼女も慌ててその背を追い、草を蹴った。

森の方角から、何かを引き裂くような低い唸りが響いた。


「止まるな!」


茂みが内側から弾けた。

飛び出してきたのは、人の形をした何かだった。背丈も手足の長さも、人間とさほど変わらない。だが、露わになった肌は血の気のない灰白色で、顔があるはずの場所には、目も鼻も口もなかった。

ぽっかりと穿たれたような真っ黒な虚無が、こちらを向いている。


「な、何……あれ……!」


それは喉を鳴らすような不気味な音を漏らすと、メアへ一直線に駆け出した。

赤く染まり始めた空の下、その動きはひどく荒々しかった。早い。

逃げようとした時には、もう灰白色の腕が目の前に迫っていた。


「伏せろ!」


肩を強く引かれ、メアは地面へ転がった。伸ばされた手が髪のすぐ上を薙いでいく。

顔を上げると、ガルトが右手を突き出し、人差し指を真っ黒な虚無に向けていた。

指の先に針ほどの光が集まったかと思うと、細い一筋が灰白色の身体へ突き刺さる。

勢いを失った灰白色の身体が地面を転がり、通り抜けた光はさらに先の地面の土を跳ね上げた。


「……た、倒した……?」

「いや。離れていろ」


ガルトは指を下ろさなかった。

倒れた身体がぴくりと震え、折れたように垂れていた腕が地面を探る。

傷ついてなお、起き上がろうとしていた。


「うそ……」

「俺の後ろへ」


ガルトの声は低い。

だが、不思議なほど落ち着いていた。

彼は右の掌を開いた。今度は指先ではない。腕の周囲に光が集まり、肌に触れる空気までぴりぴりと震え出す。

灰白色の身体が、再び跳びかかった。

ガルトは両足を大きく開き、右腕をまっすぐ突き出した。左手で右手首をがっしりと支えている。


「ーー狩神砲(ウル・キャノン)!」


掌の前で縮められていた光が、一気に押し広げられた。白い衝撃が灰白色の身体を正面から呑み込み、周囲の草を根こそぎ引き剥がす。

遅れて、腹の底を殴られたような圧力がメアにまで届いた。

息が詰まり、地面へ伏せる。砂粒が頬を打ち、森の木々が大きくしなった。耳の奥では、まだ低い音が鳴り続けている。

灰白色の身体は跡形もなく消え、風にさらわれた灰がわずかに舞っていた。

そこには深く抉れた地面と、なぎ倒された草だけが残っている。

ガルトは周囲を見渡し、ようやく腕を下ろした。


「……もう大丈夫だ。立てるか?」

「は、はい……」


差し出された手を握る。けれど、膝が震えて立ち上がれなかった。


「急がなくていい。息を整えろ」


その言葉を聞いた途端、我慢していた恐怖が込み上げた。歯の根が合わない。涙まで出てきそうになる。


「……すみません」

「謝ることはない。怖くて当然だ」


ガルトは急かさずに待ってくれた。

ようやく立ち上がったメアは、抉れた地面と彼の右手を交互に見た。


「あれは……何だったんですか? それに、ガルトさんの手から……」

「あれは、骸虚(ガウロ)と呼ばれている化け物だ。俺が放ったあの光は、......後で詳しく話そう」


「空がまだ赤い。とりあえず今は安全な場所へ急ごう。この先に身を隠せる場所がある」


メアは唇を噛んで頷いた。

赤みを増す空の下、二人は森の奥へ急いだ。

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