第一節 最後の夕暮れ
食堂の壁時計が、午後五時を指そうとしていた。
明瀬彩乃は最後の皿を食器棚へ戻すと、こっそり足首を回した。
朝からほとんど立ちっぱなしで足の裏がじんじんしている。
短い栗色の髪を耳にかけ、小さく息をついた。華奢な肩を一度すくめ背筋を伸ばす。
十七歳の彩乃は、高校には通っていない。病気で働けない母を支えるため、この食堂のほかにビル清掃と配達の仕事も掛け持ちしていた。
慌ただしく過ぎる毎日が、いつしか当たり前になっていた。
あとは床を掃けば、今日の仕事も終わり。
そう思って箒を手に取ったところで、厨房の奥から声が飛んできた。
「彩乃ちゃん、もういいよ。あとは私がやるから」
「でも、まだ床掃除が……」
「もう十分だよ。ほら、エプロン外して」
店主は彩乃が幼い頃から世話になっている女性だ。こうなるとなかなか折れてくれない。
「……じゃあ、お言葉に甘えます。ありがとうございます」
「素直でよろしい」
店主は笑って、紙包みを差し出した。油の甘い匂いが鼻をくすぐる。
「コロッケが二つ。お母さんと食べな」
「えっ、いいんですか?」
「余ったんだよ。遠慮するなら私が二つとも食べるけど?」
「そ、それは……いただきます!」
彩乃が慌てて受け取ると、店主は声を上げて笑った。
「そんなに喜んでもらえるなら、作った甲斐があるねえ」
「……ありがとうございます」
「ほら、早く帰りな。お母さん、待ってるでしょ」
「はい。お疲れさまでした」
引き戸を閉めると、小さな鈴が鳴る。
外に出た彩乃は、眩しさに思わず目を細めた。
商店街の先に、夕日が沈もうとしている。
茜色の光が古びた建物の壁を染め、ひび割れた舗装の上に長い影を落としていた。
いつもと変わらない、見慣れた夕暮れ。
商店街には、もうシャッターを下ろした店が多かった。
古い看板、色褪せた店先、値引き札の揺れる八百屋。
見慣れた景色の向こうには、いつも知っている誰かがいる。
「おう、彩乃ちゃん。今日はもう上がりかい」
「こんばんは。お店、もう閉めちゃうんですか?」
「ああ。今日はさっぱりだ。……お母さんの具合は?」
「今朝は、少し楽そうでした」
「そりゃよかった。あんたも無理すんなよ」
「ありがとうございます。またお店に寄りますね」
「ああ、待ってるよ」
八百屋の店主に手を振り、彩乃は路地へ入った。
手にした紙包みからは、まだ温かさが伝わってくる。
家で母と分けて食べよう。そう考えたところで、道端から元気な声が聞こえた。
「彩乃おねえちゃん!」
古い長屋の前に、小さな子どもが座っていた。近所に住む、いつもの子だ。
「こんばんは。今日もお留守番?」
「うん。お母さん、もう帰ってくるって!」
「そっか。じゃあ、あと少しだね」
子どもの視線が紙包みに吸い寄せられた。彩乃が気づくと、慌てて目をそらす。
「……お腹すいた」
「ふふ。正直だね」
彩乃は隣にしゃがみ、包みを開いた。
コロッケは二つ。一つを取り出して半分に割ると、大きい方を子どもに差し出した。
「はい。これ、食べる?」
「いいの?」
「うん。一緒に食べよっか」
「やった!」
「まだ熱いから、気をつけてね」
子どもがひと口かじり、嬉しそうに笑う。彩乃も残りの半分を口に運び、つられて頬を緩めた。
その時だった。
「あっ、お母さん!」
遠くに買い物袋を提げた女性が現れた。
子どもが嬉しそうに立ち上がる。
その直後、角の向こうからタイヤの甲高い音が響いた。
彩乃が振り向く。
異様な車が勢いよくこちらへ向かってくる。
車体は左右へ大きく揺れ、運転席の人影がハンドルに覆いかぶさっているのが見えた。
減速するどころか、不自然な勢いでこちらへ迫ってくる。
子どもは母親に向かって駆け出した。
「危ない!」
彩乃は考えるよりも先に走り出し、子どもの背中を両手で押し出した。
小さな身体は間一髪で車をかわし転がった。同時に一口かじられたコロッケが、路面の上を跳ねる。
――間に合った。
そう思った瞬間、巨大な影が視界を塞ぐ。
全身に衝撃が走り、足が地面から離れ、夕焼けと電線が逆さまに流れた。
次に感じたのは、背中を打つ硬い路面の冷たさと、身体の内からドロドロと溢れ出す生暖かさだった。
息を吸おうとしても、胸が空気を受け付けない。声も出なかった。
徐々に霞んでいく視界の向こうで、母親が子どもを抱き起こしている。
子どもは泣いていた。大きな声で。
(……よかった)
胸の奥がふっと軽くなった。
でも、その安心はすぐに別の思いに押し流された。
家に帰らなければ。お母さんが待っている。あのコロッケ、お母さんに持って帰るはずだったのに。
(……ごめんね、......お母さん)
今日はいつもより夕日がまぶしい。濡れた地面に鮮やかな茜色が反射している。
周りの音がどんどん遠くなっていく。
彩乃は、静かに目を閉じた。
はじめまして、黒天秤と申します。
このたびは『虚界のヒカリ』をお読みいただき、ありがとうございます。
初めての小説執筆、そして初めての投稿となります。
日ごろ、妄想している頭の中をこうして一つの物語として形にし、
皆さまに見ていただけたことをとても嬉しく思っています。
まだまだ至らない部分もあるかと思いますが、
少しでもこの物語の世界を楽しんでいただけたら幸いです。
また、少しでも続きが気になると思っていただけましたら、
ブックマークや評価をいただけると大変励みになります。
今後とも『虚界のヒカリ』をよろしくお願いいたします。
黒天秤




