その16
「どこ行くです?」
「ちょっとお使いに」
「どこ行くです。一緒に行くです。たった今、ずっと傍にいると誓ったばかりだと思う」
「ちょっとだよちょっと」
曖昧に誤魔化そうとするも、サツキの目がきっと吊り上り、俺は観念して「神谷町」と行先を継げた。それ以上追及されても答えられないので、言葉に詰まっていると、サツキの携帯がぶるぶると震えた。メールらしい。サツキは俺の袖をがっちり拘束しつつ、器用な手振りで即座に返信している。
日比谷線・神谷町駅へ行くには、霞が関での乗り換えが必要になる。俺がメトロに乗り込むと、サツキも颯爽とした足取りで追随してきた。憤然とした面持ちで俺の隣に腰を下ろすと、鞄から取り出した文庫をまっすぐ突き出してくる。
「瀧矢についてゆくわけじゃないです。用事を頼まれたです」
「これ、図書館の?」
「みなと図書館のメトロ最寄駅は神谷町だと思う。御成門の方が図書館に近くても、メトロで行ったほうが財布に優しいと思う」
「もしかしてさっきのメールか?」
「なのです。今日は先生が遅刻したので朝に渡しそびれて、お昼に顔を合わせた時はご飯に夢中で忘れてしまい、そのままになってましたです」
「……お前、教師とメールやりとりしてるのかよ」
前に話していた、女子に人気がある男性教諭のことだろうか。私通を交わす上に用事まで押し付けるとは不謹慎な奴だ。会ったこともないそいつに対して、途方もない苛立ちが生まれた。胸がむかむかする。
「焼餅はいらないと思う。メールの相手は女性だからです」
「だ、誰が焼餅だ!」
咄嗟に声を強めたが、ほっとしたのは事実だった。だがサツキに悟られるのが悔しくて平常心を保とうとひとつ息をつく。
「本を貸してくれたのは男の先生でしたです。けど今のメールは女の先生です。女の先生は喋らないので意志の疎通をはかる時はメールが必要なのです」
「それ、どうやって授業してんだ?」
「担当教科はないみたいと思う。もしかしたら保険医かもしれないです」
「どんだけ美人でも、喋らない保険医なんて気まずくて同席の空気に耐えられん」
「メール見ますです?」
「人のメールなんて見ねーよ」
「じゃあ写メ見ますです? たくさんたくさん赤いものを撮ったです。あ、たくさんあるからデータ送信するです。んん? あれ、おかしいです」
熟練の職人めいた手慣れた操作だった。だが俺の携帯にデータ送信はされない。俺からは送れても、サツキの携帯からは俺に送れない。なぜか一方通行なのだ。
「送らなくていいから見せてみ? つーかお前、何枚撮ったんだ!」
「赤を見つけるたびに撮ったから全部は数えてないと思う」
「おま、授業中まで撮ってたのか!」
「これは化学の授業だと思う。この子の眼鏡が赤い。こっちの爪が赤い。こっちのピアス。ちらりと覗くインナーが赤。靴下のロゴが赤。三色ボールペン。時計の針。黒板文字の色。実験の火。誰かが引いた教科書の線。これも赤い線。これもこれもこれも」
ほとんどボールペンの線じゃないか。
データをスクロールすると、家屋から黒煙が立ち上る写真があった。
「これは?」
「ボヤ騒ぎがありましたです。この屋根が赤いと思う。火事の火も赤いです」
「屋根は焦げて炭化してるし、炎なんてねーじゃん。煙だけだろコレ」
「よく見るです。屋根の端が少し赤く残ってると思う。それに野次馬の女性の服が赤です。次の写真は野次馬の男性が携帯で撮影してましたです」
「こいつは赤くねーよ。こいつが犯人ならクロだけどな!」
「携帯の撮影ランプが赤です。消防車は赤。パトカーの天井ランプも赤でしたです」
「……お前、よく不審者として捕まらなかったな……」
「パトカーに連行されましたですけど、説明したらわかってくれたです」
呑気に、朝飯のメニューでも話す口調だった。
犯人だと疑われたことに頓着すらしていないらしい。不安だ。傍にいれば俺が庇ってやれるのに――と考えたものの、口に出すのは憚られた。
今は俺こそが謎の力に拘束されているのだから。
霞が関で日比谷線に乗り換え、神谷町駅で下車する。みなと図書館は地上に出てから徒歩十数分を要するらしく、それは俺にとって好都合だった。サツキと離れている間に、師匠から託された魄尺の散布を済ませればいい。
改札から離れた場所で俺たちは分かれた。サツキは切符売り場の正面に貼られた周辺地図と睨みあい、図書館までの道順を確認している。すっかり夢中になっているらしく、こちらを振り向きもしない。
利用者がすべて改札を抜け、電車の尻が暗がりに溶けるのを見届けてから、俺は神谷町駅ホームの端に立った。扇子を振って魄尺を取り出す。そして昨日の記憶を蘇らせる。空井師匠はどのくらいの間隔でどのくらいの量を散らしていたか、と。
魄尺を目分量で握って適当に撒いてくと、蒸発するように魄尺が壁に吸収される。不思議な感覚だ。まるでアスファルトに溶ける雪のようだ。
感心しながら反対側のホームに渡った直後、俺は不吉な波長を受信した。
「うっわー、すっごーっ! 奇跡じゃないのーこれ。マイマイはっけーん!」
うすら寒くなるほど陽気な声が聴覚に刺さり、突如として背筋が凍る。忘れもしない声。銀座駅で追いかけてきた二人組のひとり――派手なメッシュ頭の男だった。
その隣には影のような男が並んでおり、こちらと目が合うなり眉をぴくりと跳ねさせる。
屠り屋――血族を殺すために俺たちを付け回す奴らだ。
最悪なことに逃げ場がない。俺はポケットに手を突っ込んで魄尺量を確かめた。一掴みか二掴みは残っている。魄尺は攻撃にも使えると言っていた。防御にも。せめて次の電車で逃げ切れる程度には時間稼ぎをしなくてはならない。
「ひょおー、チョー敵! マイマイだマイマイだ!」
メッシュ男の人差し指がこちらを示しているので、どうやら俺を名指しているらしい。
あいつは軽薄で頓狂だが、それゆえ己の才覚を隠すタイプだ。油断ならない。
歯を食いしばり腹を据える。戦うか。いや戦う術など知らない。相手はこちらに殺意を抱いているがこちらは殺す方法など知らない。殺せない。殺したくなんてない。
ポケット内で魄尺をいじりながら不遜な顔つきで挑発してみる。逃げる隙ができるまで――せめて電車が来るまでどうにか時間を稼げ。
「マイマイて誰のことだよ」
「やだなーマイマイったらお馬鹿さん。自分のこともわからないのかな? マイナスゲージだからマイマイでしょおー!」
メッシュ男はくふふと笑うと、影みたいな男が気怠い口調でゆるりと首を傾げる。
「おや? 待ちなよ。君、前と違ってゲージが溜まっているね。微かだけど」
俺は掌中の魄尺をぐっと握りこむ。
ぶつけようか。爆発しろと念じてぶつければ化学変化を起こすのではないか。いやダメだ。ギンが言っていたように魄尺の無駄遣いは徹底して省くべきだ。魄尺を溜めることこそが、最大の目的なのだから。
「えー、ほんとーっ! じゃあマイマイじゃなくなったのかよーう! せっかく名前つけてあげたのにーい! ちぇっ、仲良くできるかもーって思ったのにさ!」
命を狙ってくる友達なんていらない。
俺はライターを口にくわえ、逆の手で扇子を取出した。カチリと音がすると同時に火柱があがる。慌てているせいで調節がきかず、二メートル以上の大きさになってしまった。
卓球サーブの要領で交差させた扇子を払い、焔を軌道に乗せる。電車が運行する空調の具合が由来するのか、火柱は意志を持ったようにふたりの間を突き抜けた。ふたりが後方に跳ねながら姿勢を低くする。
「ちいいいーっ! 地下は火気厳禁なんだぞう! 話せばわかるよ、ね、話し合おう。焔を使うってことは、僕ちゃんは【マル】なんだ! ね、ね、マイマイじゃなくてマルマルって呼んであげるから! それともマル様って呼んでほしーい?」
「黙れ!」
「何だよーうケチぃっ! 話せばわかりあえるはずじゃないかー!」
不意打ちで爆撃する奴に言われたくない。
再び焔の弾道を仕掛ける。影のような男が右の袖を捲り、装着した手甲で焔を弾く。躱された。何度も試すしかない。他に何かないか。時間稼ぎをする何か。脳を高速で回転させ、俺はろくに吟味しないまま叫んでいた。
「どうして俺たちを狙うんだ! 殺し屋め! 俺たちに関わるな!」
「あっれー、チョー敵が何か言ってるーう」
「もう構うな! 俺はただ自分の居場所を取り戻すだけだ!」
影のような男がふむと瞬きする。
「放っておくことなどできないよ。君たちは人間に害を成し、この地の秩序を乱す騒擾の元凶なのだから、根こそぎ狩り取らないといけない」
「は? 適当なこと……」
「放っておいてほしい? むしろこっちが絶縁状を突きつけたいくらいだよ。すみやかに一滴の血も残さず遺伝子ごと絶えてくれないかな。本当に虫唾が走るな。いつまでも過去にしがみついていないで早くくたばればいいのに、陰気くさくて脆弱なくせに、どこまでも執念深くて欲深くて罪深くて……なのにその自覚すらなくて、自分だけが正義という顔をする。心底からおぞましいね」
影のような男が忌々しそうに吐き捨てる。目には嫌悪、そして侮蔑が混じっていた。
俺はくっと口唇を噛んだ。
「お前たちはアオイだろ! それともトモミか!」
「……あ? うっひょーう。何ですってー? 聞こえないなーっと」
メッシュ男が耳朶に手をあてておどけるが、その顔には明らかな動揺が走っている。
影のような男が腕で相棒を制し、ずいと一歩前に踏み出した。
「参ったな。その名は君が口にしていい言葉じゃない」
「アオイなのかトモミなのか、どっちだよ!」
「どっちか、だって? 並べられるのも不愉快だよ? ねえ、君、死にたいの?」
影のような男の眦が吊り上る。
常人の三倍の時間を使って喋り、物腰にも独特の流麗さを滲ませているのに怒気を隠せていない。怒り――そう単純な怒りの感情を伴っていた。
今だ。
俺は焔を放った。尾の尖った光芒がふたりを狙い、見事にそれが奴らを掠めた。もう一度放つ。単調だとしても他に攻撃手段がない。蟲は確認できなかったが、蜘蛛の姿を捉える。俺は扇子から鳥を解放した。鳥はふわりと浮きあがり、勢いよく滑空する緩急をつけて鋭敏に飛行する。彼らの背後で折り返したので、もしかしたら奴らから何かをもぎ取れたのかもしれない。奴の何かが生んだ魄尺を手に入れられたかもしれない。
奴らから攻撃力、または戦う目的を奪えていればいいのに――。
しゅるりと鳥が扇子に戻った直後、どんと突き上げるような地鳴りが靴底に届いた。
そして、
どおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおん
大地震を彷彿とさせる激しい振動が駅を揺らす。
足元がぐらつく。天井から小石と埃が落ちてくる。無意識に頭上で腕を交差させて身体を庇った。この隙をつかれて攻撃されてはたまらないと身構えたものの、数メートル先の敵は首を捻じ曲げ、二人揃って左方向を窺っている。
「なんか……やばくない? 洒落にならない予感がする」
「行こう」
男たちが目配せで合図を交わす。物理的な衝撃の原因に興味が移ったらしく、俺に捨て台詞ひとつ残さないまま去っていった。彼らの足音が完全になくなったあと、俺は脱力して床にへたりこんだ。腰が抜けたのだ。
地震が起きたのだろうか。震度五を超えた場合は、緊急点検のためにすべての運行をストップするという噂を聞いたことがある。だとすると最悪この駅で足止めを食らうことになる。俺は、電車との接触防止のために設置されたホームドアから身を乗り出した。
別に毎夜ねぐらを変えても誰も困らない。いや違う。サツキがいるじゃないか。自宅の最寄駅にいなければサツキが寂しがる。泣きながら俺を求めて探し回るに違いない。
線路の左右を確認すると、奥から走行音が聞こえてきた。運行が継続されているらしい。
ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、先ほどより大きな爆撃音が耳を劈いた!
ぎいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい
超音波のような金属音が、振動と破壊の周波数を混在させて近づいてくる。手で耳を覆っても音を防ぎきれない。近所のビル解体工事の音を百倍増にして、千の落雷を付け加え、一万人が不規則に叩くシンバル音を加算したかのようだった。
ホームドアから一歩さがった時、進入口から轟音と共に火花が現れた。千切れた電気ケーブルから弾ける火花みたいだった。その正体を考えた途端、
金属の摩擦が生み出す音と熱風と火花を弾かせて車両が滑り込んできた。首先が閊えたようにホームギリギリで進入を留める。先頭の外側が凹み、機械の損傷が起因するのか炎が上がっている。空気を呑み込む炎がめらめらと勢いを増してゆく。
悲鳴に似た混沌の声が漏れ聞こえる。どんどんと内側から拳を叩く音も聞こえる。
ホームにつく直前で電車が停止したためか、または扉が故障したのか、乗客が降りる手立てがないらしかった。
駅構内にアナウンスが流れた。
日比谷線上で、後続車両からの追突事故が起きたという。
俺は咄嗟に事故現場を写メに保存した。事故の原因究明や現場検証をする時に役に立つだろう。だが今の自分が犬より役に立たないことを思い出した。何せ駅から出ることができないのだ。協力するというのなら携帯電話を貸さなければならないが、現在は匿名でネットに写真をあげる方法がある。サツキのPCなら手順も簡単だ。俺は事故の写真を追加で撮った。そこでふと頭をよぎる。
さっきの地震、サツキは怯えていないだろうか――と。
駅員と電車待ちの客が改札近くで喚きあう。落ち着いてくださいと怒鳴る声と混乱して立ち去りたい客がくだらない問答を続けている。電車の扉をこじあけた乗客が怒号と狂乱にまみれてホームに押し寄せてきた。簡易な防護服を着た駅員が数名駆け込んでくる。見つかると面倒だ。
事故線路は数時間以上使えない。つまり逆路線も運行できない。鉄棒の要領でホームドアに身を乗り上げ、地下まで三メートル前後の距離をジャンプする。線路に降りると、レールやそれを支える土台の凹凸でできた悪路を駆けて、ひたむきに霞が関駅を目指した。
人目を忍んで霞が関駅のホームをあがり、何食わぬ顔をして帰路につく。車内は、日比谷線の追突事故の話題でもちきりだった。撮影した写真を公開しようと通信媒体に接続してみるが失敗に終わる。やはりネット回線には繋がらない。サツキへメールしても返事はなく、やはりこちらから送ることしかできなかった。
無事でいてくれ。汗が出る。胸が張り裂けそうだ。ただ黙って待つという行為がこんなにも心を焦れさせるとは思わなかった。何してるんだ。早く戻ってこい。祈るようにベンチで待っていると、午後十時半を回ったところでサツキが帰ってきた。飲酒で顔を赤らめた集団と揉み合うようにして降りてくる。
「無事だったか! 心配したんだぞ!」
「瀧矢……」
サツキは力なく手をあげ、貧血を起こしそうな憔悴の面持ちで笑う。離れていた数時間で一気にやつれてしまったようだ。
「地震で怪我しなかったか! 知ってるか? 日比谷線で追突事故があったんだ! 俺はどうにか帰ってきたけど、全然戻ってこないから、お前が巻き込まれたかと……」
「瀧矢……」
サツキの足がふらつき、前のめりに傾いだ。咄嗟にそれを胸で受け止め、ベンチに座らせる。サツキは放心状態に近く、肩の力は抜け、目の焦点も暈けていた。
「なんでこんなに遅くなったんだ。お前はJRでも都営線でも自由に使えるだろ。だから俺は、お前を待たずにひとりで戻ってたんだけど……すんごく心配して……俺……」
「瀧矢は私の味方です?」
「は」
「私は何があっても一生ずっと瀧矢の一番の味方でありたいと思う。あり続けると思う。瀧矢を支えるです。瀧矢を守るです。瀧矢の傍にいるです。瀧矢から離れないです」
「急に……どうしたんだよ」
「瀧矢はどうです?」
「俺は……俺だって……」
唐突に誓約を迫られているようで恥ずかしく、俺はもじもじと指を弄びながら言葉を濁した。だがサツキは、疲弊で半ば閉じられた瞼をこじ開けて俺と向き合う。脱力した様子なのに、瞳力と言霊には色濃い真摯さが宿っていた。
懇願するように、サツキの微かな握力が俺の腕をきゅっと掴む。その健気さに胸をうたれ、俺は小さく潰れた声を腹から絞り出した。
「俺は……俺もずっと……俺もお前も味方だ。その……一生……」
「私が何をしても味方です?」
「そんなの……何をやらかしたって、んなもん俺が背負ってや……る……つーか」
威勢よく放ったものの、気恥ずかしくて語尾が萎んでしまった。自分でも情けない男だと思い、自虐的に乾いた笑いが漏れた。サツキが俺の手を持ち上げる。半端に開かれた俺の掌はサツキの頬に吸い付くように引き入れられた。
「あたたかいです」
「そ、そうか?」
「瀧矢の手があたたかいです。すごく」
猫がすり寄ってくるように俺の掌に頬を撫でつけてくる。サツキの頬は程よい弾力の柔らかさで、自分と比べると顔の輪郭が小さすぎて驚いた。
サツキが目を伏せたので睫の先が掌をくすぐる。
「三年なんてあっという間だと思う。三年……ううん、何年だって瞬く間に過ぎるです」
「……なんだよお前……昨日まで高校三年間は長いから、出遅れてもすぐに追いつけるって慰めてくれただろ」
「瀧矢は甘いです。人間は日々刻々と考えが変わるのです。多角的視点から物事を見据えることが大事だと思う。そうです。高校の数年なんて、人生で計算すると僅かな時間だと思う。人生が百歳だとしたら三年なんてたった三十三分の一でしかないです」
「百歳まで生きる気か」
「百歳でも八十歳でも変わらないです。いいです? 例えば……結婚はふたりが生涯を共にすることです。でも旦那さんが数年単身赴任になってふたりが離れることなんて、現実にはよくあることだと思う。物理的に離れても、夫婦は一緒にいると表現しますです。それが結婚だと思う。生涯を分母にすれば高校三年間なんて小さいことと思う」
「そう言われりゃそうかもな」
サツキの切り出した話がつかめないので、とりあえず肯定しておく。
「瀧矢は駅から出たいです? 私も瀧矢と一緒にいたいです」
「うん」
「一生です?」
「……さっきそう言っただろーが」
「もう一度言うです。私には瀧矢しかいないです。瀧矢も同じでいいのです?」
「だから……」
しつこい。何を言わせたいんだ。恥ずかしくてつい喝破しそうになった時、俺の腕を掴むサツキの力が増した。俺は動揺した。サツキは俺の手で自分の頬を撫でながら、声を殺して泣いていた。熱い水滴がサツキの頬を濡らし、俺の腕を伝って袖に染みてゆく。
俺は軽く混乱状態に陥った。
「な、何泣いてんだ。泣くところじゃないだろ」
サツキがしくしくと泣くので、俺は嘆くような息を吐いた。
「ったく……馬鹿かお前は。俺を信じてねーの? これまでずっと一緒なんだからこれからも一緒に決まってんだろーが。お前はどんな言葉がほしいわけ? 生まれた時から好きだよ? 死ぬまで愛してる? それとも結婚してください? どれがいい?」
「ずっと瀧矢の傍にいるです」
「わかった。わかったから泣くなって。俺も傍にいる。今もいるだろ?」
俺は空いている逆の手でサツキの頭を撫でた。
サツキがいつまでも泣き止まないので俺は途方にくれてしまった。
能天気なサツキが泣くほど感情を昂ぶらせることなんて滅多になかったし、俺に女を慰めるスキルなんてあるわけがない。頭を撫でて優しく声をかけてもサツキは泣き止まなかった。しくしく泣いて、時々思い出したように俺の名を呟き、それに返事すると、何を要求するでもなく、俺の掌を頬にあてて、またしくしくと泣きだした。
情緒不安定な女はどう扱えばいいのだろう。
キスでもすれば落ち着くだろうか。それともびっくりして泣き止むだろうか。試してみたい欲求に駆られたがタイミングが計れず、度胸もなく、俺は行動を起こせなかった。
終電の時間になり、俺はサツキを改札口まで見送った。
あんなに離れなかったくせに改札を出るまで一度も振り向かなかった。女はよくわからない。気持ちはとうに示しているのに、どうしてあんなにも言葉を欲しがるのか。
サツキの背中を見つめていると、唐突に師匠の言葉が蘇り、脳裏で木霊する。
――女には理由が必要なんだよ。
俺はサツキの名前を叫んだ。
こっちを振り向いたら、一度だけ――一度だけ、死ぬほど恥ずかしい、くそ甘い愛の告白を叫んでやるつもりだった。一度だけだ。照れなど捨てろ。役者になりきれ。いや間違いなく本心なのだけど、舞台で台詞を操る心持ちで言ってしまえばいい。
深呼吸する。不意打ちで言ってやる。こっちだって勢いがなければ口にできない。
だがサツキは振り向かなかった。
その後ろ姿が、サツキを目にする最後になるなんて――俺は知らなかった。




