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えきちゅう。  作者: 田中志摩貴
15/22

その15


 ベンチ上で苛々と足を揺らしながら煩悶する。

 自分が解放されたいがために人のものを奪っていいのか。しかも相手は地下鉄を利用しただけの一般人で、異変に気づくことすらない。これは完全なる盗みじゃないか。

 人の業を盗む。人の才能を、能力を、運を、病を、肉体ですら盗んでしまう可能性があるらしい。だがそうしないと俺はいつまでもこのうすら寒い駅に隔離されたままだ。

 空井師匠は言っていた。

 盗人を許さない。必ず奪い返すと。その――血族が果たすべき悲願のために魄尺が必要だという。盗まれたものを取り戻すためには手段を選ばないと――何をしてでも――他人のものを盗んでも構わない気概で魄尺を集めるのだと語気を荒げた。

 そして俺はこう答えた。

 事情によっては盗みも許されるのではないかと――。

 交互に組んだ指に力を込める。許される。許されるのか。自分の望みのために誰かを蹴落とす。誰かが勝てば誰かが負ける。世界は非情なシステムだとわかっているつもりでも、いざ自分が悪役になることを認めるのには勇気が必要だった。

 そうだ。仕方がない。俺は自分に言い聞かせた。暴かれない限りは無罪に等しいのだから、誰にも俺を咎める権利なんてないはずだ。それに――そもそも俺の血族が先に何かを奪われたらしいじゃないか。正当性はこちらにある。そうだ。仕方ない。

 ごくりと息を呑む。

 他人の業を奪うことは、相手にとって損失ばかりでもない。不都合な事実や病や不運を取り除くことだってある。そうだ。視点を反転させれば善行じゃないか。

 他人の負だけを集める方法を編み出せば万事解決する。

 胸ポケットに刺した赤い扇子を取出してみた。これを開けばあの鳥が現れそうな気がした。蟲は蜘蛛に食われ、蜘蛛は鳥に食われる。それこそが魄尺の回収だと説明されたが金平糖に精製する方法がわからない。小槌のように軽く振ってみるとぽろりと金平糖が落ちてきた。まるで手品のようだ。ホームに転がる金平糖を拾い、まじまじと観察する。これを大量に集めなければならない。そして神谷町に運ばなければならない。

 この扇子も魄尺が原料だろうか。思い切って扇を開いて検分するも、厚みのある紙にしか思えない。ライターも百円ショップで売られている安物のミニ懐中電灯に見える。

 現実逃避するようにカチカチとライターの火をつけた。これもガスで着火しているのではないのだろう。かちりかちりとメモリを回すと火がついたり消えたりを繰り返す。俺はぼんやりとその火を見つめた。

 赤いものが俺を護ってくれる?

 他人から奪う道具ではなく?

 椅子取りゲームの音楽が鳴らないので、集積地である神谷町駅にばらまくはずの魄尺が圧倒的に足りない。魄尺を集めるには乗客から無差別に業を盗むしかなかった。

 時刻は午後二時を過ぎた。こうなったら明日を待つ余裕などない。今からでも始めるしかない。俺は電車に乗り込み、乗客の少ない車両を狙って、ぎこちないながらも、空井師匠が行った手順通りに火をつけた。風を起こして蟲を生み出し、蜘蛛に食わせて鳥に回収させた。人が透ける瞬間、自分がしている行為のおぞましさを象徴しているようで寒気がした。この罪悪感を誰か盗んでくれればいいのにと切に願った。



 幾度か儀式を繰り返したあと基地駅に戻ると、サツキがいつものベンチで待ち構えていた。車中の窓越しに目が合う。サツキは飼い主を見つけて尾を振る犬のように顔を崩して手を降っていた。

「どこ行ってましたです。心配したです」

 ぷうと頬を膨らませる仕草も慣れた声も威張るような立ち姿勢も、どこか俺の胸をあたたかくさせ、安寧の息を誘う。サツキに触れたくなった。体温に触れたくなった。自分を罰しない包容が欲しかった。

 気を緩めた半瞬後、ぐらりと身体が揺らいだ。眩暈に襲われて、サツキの輪郭と人体模型がスライドする。すっかり網膜に焼き付いたグロテスクな人体模型がサツキと重なり、心の奥芯がすっと冷えた。恐怖を呑み込むように思わず口を押さえた。

 俺は名前も知らない誰かのものを盗んだ。奪った。誰かが俺のせいで何かを失った。その誰かは何かを欠けたまま生きていく。人生さえ歪めてしまうかもしれない。

 スポーツ選手から記録や意欲、または物理的に身体を支える腱を奪ったらどうなる?

 ピッチャーから腕を、ストライカーから足を奪ったらどうなる?

 誰かの結婚願望や家庭欲や子への愛情を喪失させていたら?

 誰かの運を奪い、当選宝くじを買い損ねてしまったら。その金で存続するはずの会社が倒産したら、その家族は、その家庭から生まれるかもしれなかった子供は。

 俺のせいで世界が乱れていたら――?

狼狽するサツキが俺の肩を支え懸命に声をかけてくるが、言語を解読できない。耳もおかしくなったみたいだ。誘導されるままベンチに座っても嗚咽めいた声が止まらない。無意識なのか、悴むように身体が小刻みに震えていた。

「しっかりするです!」

「……責めないで。頼むから」

「責める理由がないと思う。大丈夫です? 何があったです?」

「頼むから俺を赦して。赦して」

「赦すです!」

 サツキは原因を問い質すこともなく、躊躇なく俺を容赦した。俺は顔をあげ、すがりつくようにサツキの両腕を掴む。

「頼む。お前だけは俺の味方だって……俺がどんなに悪党になっても、どんなに情けなくてみじめな奴になっても、一生、お前だけは俺の味方でいるって言ってくれ。頼むから」

「それプロポーズだと思う」

 サツキは目を丸くしたあと「わかりましたです」と頷いた。

 神経の昂ぶった子供をあやすように、サツキが俺の頭を撫でる。よしよし。よしよし。鈴音に近い高めの声が、小さく柔らかく俺の耳元を転がる。

「大丈夫。赦すです。そしてずーっと瀧矢の傍にいて味方であり続けるです」

「俺はただ帰りたいだけだ」

「そうです」

「元に戻りたい。駅から出て、家に帰って、部屋で寝て、飯食って、風呂に入って、学校に行って、何も考えず、誰にも迷惑かけず、ただ普通に……!」

「わかりますです」

「そのためなら俺は何だってする。してしまうと思う」

「はいです」

「俺の手は汚れてるかもしれない。きっと心もどす黒く汚れる。誰かを平気で見捨てるようになる。見知らぬ誰かを苦しめてしまうかもしれない」

「いいです。赦しますです。ずっと傍にいてあげるです」

「傍に……ずっと……?」

「今までもずっと傍にいたです。これからも変わらないと思う。平気だよです。高校生活は三年間あると思う。瀧矢なら、社会復帰したらすぐに取り戻せると思う。安心してほしいです。瀧矢のことは一生ずっと、ずーっと、どんな敵がきても、どんな障壁があっても、例え死んだって私が守ってみせますです」

「守るってお前……」

「だから私に何もかも話してくださいです。さあさあ、どうぞです!」

 俺は呆気に取られた。勇ましく胸を張るサツキが腕組みしてみせる。

 細い身体。細い手足。ボケた頭。のんびりした思考。拙い喋り方。どこからどう見ても頼りない姿をしているくせに俺を守ると宣言した。

 己の無様に自嘲する。頼りないのはどっちだ?

 自分に降りかかる謎の災難を打ち明けてサツキを巻き込むつもりか? 何もかも話して楽になりたいか? サツキを危険に晒してまで?

 大丈夫。口は噤める。

 自分ひとりが抱えることでサツキを危険から遠ざけられるのならば。

 サツキの肩に頭を預けると、その温度に癒しを覚えた。サツキは稚拙な旋律に乗せて子守歌のように「よしよし」と囁き続け、しばらく俺の髪を弄んだ。

 電車から降りた高校生らしき数人の女子が、俺たちを見て耳打ちをしたりきゃあきゃあと遠巻きに冷やかす。途端に気恥ずかしくなり、俺は勢いよく立ち上がった。

「……っと、じゃあ俺は用事を済ませてくるからお前は帰れ」




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