第20話 魔の誘い
事無きを得た。
期待していた人が居たら申し訳ないが、僕は小学生なのだ。
して良いことと悪いことがある。
僕の腕を掴んで個室に引きずり込んだのは、カッチリとしたパンツスーツを着て、ひっつめ髪の銀縁眼鏡をかけたお姉さんだった。
「外のベンチで待ってるから。慌てなくていいから、ゆっくりしていってね」
さわやかな柑橘系の香りを残して、お姉さんは出て行った。
僕はドアの鍵をかけ、守備隊長の健闘を称えつつ、反乱軍を解放した。
さっき、事なきを得たと言ったが、全然、得ていないかもしれない。
待っていると言われたのだ。
この公園は管理が行き届いていなくて、トイレも男女共用だ。
苦境に立たされていた大人の女の人を押しのけて僕が入った状況になっている。
急いで出て、謝罪をしないといけない。
お姉さんが試合再開するのなら、終わって出て来るのを待って、謝ったらいいのだろうか。
その場合、終わるのを待つという行為がアウトのような気がする。
個室を明け渡す際に言葉を交わすことだけでも駄目だと思う。
恩知らずだと思われようと、黙って目も合わせずに立ち去るのが紳士の振る舞いではなかろうか。
黙って、そっと、何も無かったかのように立ち去ろうとして、呼び止められた。
「ねえ、待ってよ。お話しようよ」
再び、僕の脳髄に閃光が走る。
叔母さんの「薄い本」で見たことがある。
僕の名前は正太郎じゃないけど、拘る必要はないらしい。
巨大ロボも出て来なかったし。
「アタシからは近づけないの。アナタが耳を傾けてくれないと駄目なの」
お姉さんの淑女としての矜持だろうか。
飽くまでも合意の上でということだろうか。
それでも法的にも倫理的にもイケナイことだと思うけど。
「やっと条件が整ったの。アナタが愛を信じて福音に感謝した上で迷いを見せたから」
なんだろう。
宗教の勧誘かな。
人の弱みに付けこむのはカルト教団の常套手段だけれど、お姉さんは公衆トイレの個室で弱った人が訪れるのを待ち伏せしていたのか?
「アタシは魔境。悟りを妨げる存在。荒野を彷徨い、茨の道を進もうとする者に安楽な選択肢を提案する装置よ」
何を言っているのか良く分からないけれど、でも、それは僕の平常運行だ。
馬鹿兄弟の「ロマン」も、叔母さんの「尊い」も宗教みたいなものだ。
謝罪がてら、話を聞くぐらいなら構わない。
拗らせた人達との難解な意思疎通には耐性がある。




