一線
魔物の血が、指先から落ちる。一滴、二滴と黒い土へ吸い込まれていく。
やがて、シオンは口を開いた。
「——必要になれば、喰う」
全身が冷える。
先ほどまで吹いていた風よりも、その言葉の方が冷たく感じられた。
「……何のために?」
「デウスを殺すためだ」
シオンの声には、迷いがなかった。少なくとも、迷いなどないように聞こえるように振舞っていると感じた。
「それ以外の方法で届かないのなら——」
黒い革手袋が、ゆっくりと握られる。
「人間を喰えばデウスを殺せるというのなら、俺はそうする」
「本当に?」
「ああ」
「人を……殺して、食べるの?」
「必要であればな」
ラズは何も言えなかった。
シオンは、自分へ言い聞かせるように続ける。
「俺はもう、人を殺している」
「……」
「父さんを殺した。母さんを殺した。リゼを殺した」
——リゼ。
彼女を殺したという話を聞くたび、ラズの胸には小さな痛みが走る。
自分と同じ顔を持っていた少女。シオンが殺した少女。シオンがラズを初めて見た時、縋るような声で呼んだ名前。
「今さら、人を喰わなければ人間でいられるとでも思うのか」
シオンの口元が、自嘲するように僅かに歪む。
「人間としての俺は、とっくに死んでいる」
ラズは心の底から怖かった。魔物を喰らう姿が。人間を喰う可能性を、静かに口にする声が。
そして何より。そう言い切らなければ自分の心が揺らぐとでもいうように、同じ言葉を自分へ突きつけているシオンが怖く、痛ましく感じられた。
ラズは、震える声を絞り出した。
「……シオンは、それを本当に平気だと思ってるの?」
シオンの目が細められる。
「何?」
「人を食べても、何も変わらないって」
「変わらないな」
「嘘」
恐怖を感じているはずなのに、自分でも驚くほど、はっきりと言葉が出た。
シオンの眼差しが鋭くなる。
「知ったように言うな」
「知らないよ」
ラズはすぐに答えた。
「わたしは何も知らない」
シオンのことも。リゼのことも。デウスのことも。ケイオスのことも。自分自身のことさえ、何も知らない。
「なら黙れ」
「でも、シオンは知ってる」
「何をだ」
「自分が人を食べたら、何かが変わるって」
シオンの表情が固まった。
ラズは震える声のまま続ける。
「本当に何も変わらないなら、そんなに冷たい声で言わなくていい」
「……」
「平気なら、自分に言い聞かせるみたいに何度も言わなくてもいいでしょう?」
シオンが立ち上がった。その動きだけで、ラズの身体が強張る。
拭いきれなかった血が、まだ口元に残っている。
紫色の右目と、赤色の左目。二色の瞳が、夜の闇の中からラズを見下ろしている。
「お前に何が分かる」
森の空気が、急に重くなった。
左胸の奥で脈打つものに呼応するように、シオンの周囲へ赤黒い気配が滲む。
ラズは怖かった。逃げたいとも思った。
それでも、震える足を動かさなかった。
「分からない」
「なら——」
「分からないから、聞いてる」
ラズはシオンを見上げた。視線だけは逸らさない。
シオンはしばらく黙っていたが、やがて、低い声で尋ねる。
「俺が人間を喰ったら、お前は逃げるのか」
答えられなかった。
ラズには、「逃げない」と断言できるほどの覚悟はない。シオンを信じきっているわけでもない。傍にいる理由にも、自分の記憶を探す手掛かりだからという部分がある。
今まで助けられたから。放っておけないと思ったから。それだけで、どんな姿になったシオンも受け入れるなどとは言えなかった。
「……分からない」
ラズは正直に答えた。
シオンの瞳が、ゆっくりと冷えていく。
「そうだろうな」
「でも——」
ラズは胸の前で、震える手を握った。
「今、怖いとは思った」
シオンは何も言わない。
「魔物を食べてるところを見て、怖かった」
喉が震える。
それでも、自分の心の中を一つずつ言葉にする。
「人を食べるかもしれないって聞いて、もっと怖いと思った」
「なら、離れろ」
「でも、知れて良かったとも思ってる」
シオンの眉が僅かに動いた。
「何をだ」
「あなたが、何を食べて生きてるのか」
「そんなことを知ってどうする」
「分からない」
ラズは静かに首を横へ振った。
目には涙が滲んでいた。それでも、シオンを真っ直ぐに見つめる。
「でも、何も知らないまま隣にいるより、知って怖い方がいい」
シオンは眉をひそめた。
そこに浮かんだのは、怒りよりも困惑に近かった。
「理解できないな」
「うん」
ラズはぎこちなく笑う。
恐怖は、まだ消えていない。
「わたしも、自分でよく分からない」
シオンは目を逸らした。
怒りにも、諦めにも、何かを堪えているようにも見える表情だった。
「お前は、俺を自分の記憶へ繋がる手掛かりだと思っている」
「うん」
「放っておけないとも言ったな」
「言った」
シオンは、改めてラズを見る。
「なら覚えておけ」
鋭い眼差しが再びラズを捉える。
「お前が手掛かりだと思っているものは、人間を喰うかもしれない怪物だ」
ラズは息を呑む。
「それでも、ついてくるのか」
すぐには答えられなかった。
自分に答える資格があるのかも分からない。
シオンが胸の内に隠しているものも、自分が何者なのかも。何一つ分からない。
ただ、目の前の青年が自分を突き放そうとしていることだけは分かった。
怖がらせて、嫌わせて、離れさせようとしている。その方が、互いに傷つかずに済むと思っているかのように。
「……今はまだ分からない」
小さく答えるラズを、シオンは無言で見下ろしている。
「でも、今すぐ逃げるつもりはない」
「なぜだ」
「あなたが、戻れって言ったから」
「……」
「わたしを襲わなかったから」
ラズはゆっくりと言葉を選ぶ。
「怖かったけど、シオンは、わたしに見られたくなかったんだと思った」
シオンの瞳が僅かに揺れる。
「違う」
「わたしには、そう見えた」
「違うと言っている」
二度目の否定は、少しだけ強かった。
ラズはそれ以上言わなかった。
シオンは魔物の死骸へ目を向ける。
もう喰う気は失せたらしい。地面に置かれていた石——魔核だけを拾い上げ、付着した血を雑草で拭った。
「戻るぞ」
「うん」
「それから——」
シオンは背を向けたまま告げる。
「次に俺がいなくなっても、追ってくるな」
ラズは少しの間沈黙した。それから、はっきりと答える。
「約束はできない」
シオンが振り返った。
「お前……」
「だって、置いていかれたと思った」
「後で戻るつもりだった」
「それを知らなかったから」
「なら次からは待っていろ」
「何も知らない場所で一人にされるのは怖い」
その言葉に、シオンは一瞬だけ黙った。
ラズは、すぐに付け加える。
「もちろん、今見たものも怖かったけど」
「なら余計に追うな」
「うん。それは考える」
「考えるな。追うなと言っている」
「……努力する」
「する気がないだろう」
「少しはあるよ」
シオンは明らかに不機嫌そうな顔をした。
だが、それ以上は何も言わなかった。
◇
二人は焚き火へ戻った。
ラズは歩きながら、何度かシオンの横顔を見る。口元の血は、いつの間にか完全に拭われていた。
それでも、見た光景は消えない。
魔物の肉を引き裂く手。血に濡れた口元。人間の肉の方が力になるという言葉。必要なら喰うという、静かな声。
怖い。確かに、怖い。
だが同時に、別の事実も残っていた。
シオンはラズを襲わなかった。見られた瞬間、戻れと言った。何度も自分から離れろと忠告している。人間を喰う可能性を語りながら、まだ一度も喰ってはいない。
それは優しさと呼ぶには、あまりにも冷たく、不器用なものだった。
だが、ただの怪物なら、わざわざ相手へ逃げ道を与える必要などないはずだった。
人間ではなくなったと言いながら、シオンは人間の一線を越えていない。少なくとも、今はまだ。
焚き火へ戻ると、シオンは火から少し離れた場所へ腰を下ろした。
ラズも元いた場所へ座る。
火は弱く、森の闇は深い。
先ほどまでは気にならなかったシオンとの距離が、今は少しだけ遠く感じられた。
しばらくして、ラズが小さく呼びかける。
「シオン」
シオンは目を閉じていた。
返事はない。だが、眠っているわけではない。聞こえているということは分かった。
「あなたが、人を食べるところは見たくない」
シオンは目を閉じたまま答える。
「なら、そうならないよう祈っていろ」
「誰に?」
返事はなかった。
デウスへ祈れという意味ではないだろう。少なくとも、シオンの前で神の名を出すことはできなかった。
ラズは膝を抱える。
「じゃあ、祈らない」
シオンが薄く目を開けた。
「でも、そうならない方がいいとは思ってる」
「勝手にしろ」
「うん。勝手にする」
ラズは焚き火へ視線を戻した。
揺れる火の向こうで、シオンの赤い左目が一瞬だけ光る。
背筋に冷たいものが走った。それでも、ラズは目を逸らさなかった。
この夜、ラズは初めて知った。シオンが何を喰って生きているのか。シオンが人間を喰うという行為を自ら線引きし、その一線を越えていないことも。
そして、デウスを殺すためならば、彼がいつか一線の先へ進むかもしれないことを。




