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神殺しは葬列を往く  作者: 夜更
第一部
9/79

一線

 魔物の血が、指先から落ちる。一滴、二滴と黒い土へ吸い込まれていく。


 やがて、シオンは口を開いた。


「——必要になれば、喰う」


 全身が冷える。

 先ほどまで吹いていた風よりも、その言葉の方が冷たく感じられた。


「……何のために?」


「デウスを殺すためだ」


 シオンの声には、迷いがなかった。少なくとも、迷いなどないように聞こえるように振舞っていると感じた。


「それ以外の方法で届かないのなら——」


 黒い革手袋が、ゆっくりと握られる。


「人間を喰えばデウスを殺せるというのなら、俺はそうする」


「本当に?」


「ああ」


「人を……殺して、食べるの?」


「必要であればな」


 ラズは何も言えなかった。

 シオンは、自分へ言い聞かせるように続ける。


「俺はもう、人を殺している」


「……」


「父さんを殺した。母さんを殺した。リゼを殺した」


 ——リゼ。

 彼女を殺したという話を聞くたび、ラズの胸には小さな痛みが走る。

 自分と同じ顔を持っていた少女。シオンが殺した少女。シオンがラズを初めて見た時、縋るような声で呼んだ名前。


「今さら、人を喰わなければ人間でいられるとでも思うのか」


 シオンの口元が、自嘲するように僅かに歪む。


「人間としての俺は、とっくに死んでいる」


 ラズは心の底から怖かった。魔物を喰らう姿が。人間を喰う可能性を、静かに口にする声が。

 そして何より。そう言い切らなければ自分の心が揺らぐとでもいうように、同じ言葉を自分へ突きつけているシオンが怖く、痛ましく感じられた。


 ラズは、震える声を絞り出した。


「……シオンは、それを本当に平気だと思ってるの?」


 シオンの目が細められる。


「何?」


「人を食べても、何も変わらないって」


「変わらないな」


「嘘」


 恐怖を感じているはずなのに、自分でも驚くほど、はっきりと言葉が出た。

 シオンの眼差しが鋭くなる。


「知ったように言うな」


「知らないよ」


 ラズはすぐに答えた。


「わたしは何も知らない」


 シオンのことも。リゼのことも。デウスのことも。ケイオスのことも。自分自身のことさえ、何も知らない。


「なら黙れ」


「でも、シオンは知ってる」


「何をだ」


「自分が人を食べたら、何かが変わるって」


 シオンの表情が固まった。


 ラズは震える声のまま続ける。


「本当に何も変わらないなら、そんなに冷たい声で言わなくていい」


「……」


「平気なら、自分に言い聞かせるみたいに何度も言わなくてもいいでしょう?」


 シオンが立ち上がった。その動きだけで、ラズの身体が強張る。


 拭いきれなかった血が、まだ口元に残っている。

 紫色の右目と、赤色の左目。二色の瞳が、夜の闇の中からラズを見下ろしている。


「お前に何が分かる」


 森の空気が、急に重くなった。


 左胸の奥で脈打つものに呼応するように、シオンの周囲へ赤黒い気配が滲む。


 ラズは怖かった。逃げたいとも思った。

 それでも、震える足を動かさなかった。


「分からない」


「なら——」


「分からないから、聞いてる」


 ラズはシオンを見上げた。視線だけは逸らさない。

 シオンはしばらく黙っていたが、やがて、低い声で尋ねる。


「俺が人間を喰ったら、お前は逃げるのか」


 答えられなかった。


 ラズには、「逃げない」と断言できるほどの覚悟はない。シオンを信じきっているわけでもない。傍にいる理由にも、自分の記憶を探す手掛かりだからという部分がある。

 今まで助けられたから。放っておけないと思ったから。それだけで、どんな姿になったシオンも受け入れるなどとは言えなかった。


「……分からない」


 ラズは正直に答えた。

 シオンの瞳が、ゆっくりと冷えていく。


「そうだろうな」


「でも——」


 ラズは胸の前で、震える手を握った。


「今、怖いとは思った」


 シオンは何も言わない。


「魔物を食べてるところを見て、怖かった」


 喉が震える。

 それでも、自分の心の中を一つずつ言葉にする。


「人を食べるかもしれないって聞いて、もっと怖いと思った」


「なら、離れろ」


「でも、知れて良かったとも思ってる」


 シオンの眉が僅かに動いた。


「何をだ」


「あなたが、何を食べて生きてるのか」


「そんなことを知ってどうする」


「分からない」


 ラズは静かに首を横へ振った。

 目には涙が滲んでいた。それでも、シオンを真っ直ぐに見つめる。


「でも、何も知らないまま隣にいるより、知って怖い方がいい」


 シオンは眉をひそめた。

 そこに浮かんだのは、怒りよりも困惑に近かった。


「理解できないな」


「うん」


 ラズはぎこちなく笑う。

 恐怖は、まだ消えていない。


「わたしも、自分でよく分からない」


 シオンは目を逸らした。

 怒りにも、諦めにも、何かを堪えているようにも見える表情だった。


「お前は、俺を自分の記憶へ繋がる手掛かりだと思っている」


「うん」


「放っておけないとも言ったな」


「言った」


 シオンは、改めてラズを見る。


「なら覚えておけ」


 鋭い眼差しが再びラズを捉える。


「お前が手掛かりだと思っているものは、人間を喰うかもしれない怪物だ」


 ラズは息を呑む。


「それでも、ついてくるのか」


 すぐには答えられなかった。

 自分に答える資格があるのかも分からない。

 シオンが胸の内に隠しているものも、自分が何者なのかも。何一つ分からない。


 ただ、目の前の青年が自分を突き放そうとしていることだけは分かった。

 怖がらせて、嫌わせて、離れさせようとしている。その方が、互いに傷つかずに済むと思っているかのように。


「……今はまだ分からない」


 小さく答えるラズを、シオンは無言で見下ろしている。


「でも、今すぐ逃げるつもりはない」


「なぜだ」


「あなたが、戻れって言ったから」


「……」


「わたしを襲わなかったから」


 ラズはゆっくりと言葉を選ぶ。


「怖かったけど、シオンは、わたしに見られたくなかったんだと思った」


 シオンの瞳が僅かに揺れる。


「違う」


「わたしには、そう見えた」


「違うと言っている」


 二度目の否定は、少しだけ強かった。

 ラズはそれ以上言わなかった。


 シオンは魔物の死骸へ目を向ける。

 もう喰う気は失せたらしい。地面に置かれていた石——魔核だけを拾い上げ、付着した血を雑草で拭った。


「戻るぞ」


「うん」


「それから——」


 シオンは背を向けたまま告げる。


「次に俺がいなくなっても、追ってくるな」


 ラズは少しの間沈黙した。それから、はっきりと答える。


「約束はできない」


 シオンが振り返った。


「お前……」


「だって、置いていかれたと思った」


「後で戻るつもりだった」


「それを知らなかったから」


「なら次からは待っていろ」


「何も知らない場所で一人にされるのは怖い」


 その言葉に、シオンは一瞬だけ黙った。

 ラズは、すぐに付け加える。


「もちろん、今見たものも怖かったけど」


「なら余計に追うな」


「うん。それは考える」


「考えるな。追うなと言っている」


「……努力する」


「する気がないだろう」


「少しはあるよ」


 シオンは明らかに不機嫌そうな顔をした。

 だが、それ以上は何も言わなかった。



 二人は焚き火へ戻った。

 ラズは歩きながら、何度かシオンの横顔を見る。口元の血は、いつの間にか完全に拭われていた。


 それでも、見た光景は消えない。

 魔物の肉を引き裂く手。血に濡れた口元。人間の肉の方が力になるという言葉。必要なら喰うという、静かな声。

 怖い。確かに、怖い。


 だが同時に、別の事実も残っていた。


 シオンはラズを襲わなかった。見られた瞬間、戻れと言った。何度も自分から離れろと忠告している。人間を喰う可能性を語りながら、まだ一度も喰ってはいない。

 それは優しさと呼ぶには、あまりにも冷たく、不器用なものだった。


 だが、ただの怪物なら、わざわざ相手へ逃げ道を与える必要などないはずだった。

 人間ではなくなったと言いながら、シオンは人間の一線を越えていない。少なくとも、今はまだ。


 焚き火へ戻ると、シオンは火から少し離れた場所へ腰を下ろした。

 ラズも元いた場所へ座る。


 火は弱く、森の闇は深い。

 先ほどまでは気にならなかったシオンとの距離が、今は少しだけ遠く感じられた。


 しばらくして、ラズが小さく呼びかける。


「シオン」


 シオンは目を閉じていた。

 返事はない。だが、眠っているわけではない。聞こえているということは分かった。


「あなたが、人を食べるところは見たくない」


 シオンは目を閉じたまま答える。


「なら、そうならないよう祈っていろ」


「誰に?」


 返事はなかった。

 デウスへ祈れという意味ではないだろう。少なくとも、シオンの前で神の名を出すことはできなかった。

 ラズは膝を抱える。


「じゃあ、祈らない」


 シオンが薄く目を開けた。


「でも、そうならない方がいいとは思ってる」


「勝手にしろ」


「うん。勝手にする」


 ラズは焚き火へ視線を戻した。

 揺れる火の向こうで、シオンの赤い左目が一瞬だけ光る。

 背筋に冷たいものが走った。それでも、ラズは目を逸らさなかった。


 この夜、ラズは初めて知った。シオンが何を喰って生きているのか。シオンが人間を喰うという行為を自ら線引きし、その一線を越えていないことも。

 そして、デウスを殺すためならば、彼がいつか一線の先へ進むかもしれないことを。

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